2日前の日記の中で、物事について考える時には、それの何が問題なのかを意識せよという自己反省を書いた。以来、日記を書いたり、読書の記録を付けたりする時に、不意にイライラすることがある。おそらく、慣れないことをやろうとしているために、拒否反応が起こっているのだろう。もちろん、僕は嫌がる自分を超えていかなければならないわけだし、そのためには書くしかないのだけれど。

 僕は物事を深く考えるタイプではなく、感じたことをそのまま言葉にしてしまうタイプだ。文章を書くときもそうで、前に書いた言葉の流れでパッと浮かんだものを、そのまま書き出して、さらにそれに続くものを書き出して、というような書き方をしている。この方法はラクである。何も考えず、ただ流れに身を任せていればいいのだから当然だ。

 問題は何か、どうすればいいのかを考えるというのは、このラクさを手放すということである。手放すというより、克服するといったほうがいいのだろう。それには忍耐が必要になる。加えて、何かを考えるためには、頭を使わなければならない。不足している知識を補うことも必要だ。そうなると、まあまあ時間とエネルギーがいる。今まで散々ラクしてきた人間にとって、この高負荷状態はしんどいものだ。そもそも、自分の苦手なことをまざまざと思い知らされたうえで、その苦手と正面から向き合わないといけない時点で、いまこの場所から飛んで消えてしまいたくなる。

 ただ、しんどいから・苦手だからといって、避けて通るわけにはいかない。このまま自分を甘やかし続けても、ロクなことにはならないだろう。頭を使うことだって、慣れればどうってことなくなるはずだ。今は一時の辛抱。そう思って、イライラするしかない。ただ、イライラを抱え込んでいたのではしんどいから、時々こうして吐き出すことにするけれど。

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 さて、僕がもっと頭を使って物事を考えよという自己反省に至ったのは、友人とラインをしていた際、向こうがバンバン持論を展開してくるのに、僕がしどろもどろの応答しかできなかったのがきっかけだ。友人は普段通り自分の考えを述べただけなのだろうが、そもそも考えるということに慣れていない僕は、早々に気圧されてしまった。最初のうちはわかった風な返しをしていたが、案の定持ちこたえられなくなり、しまいには「わからん」「考えたことない」の一点張りになってしまった。観念して正直になろうとしたのか、ヤケクソになったのか、それは自分でもよくわからない。ともあれ、僕は友人に「自分の考えを確かにしないで周りに振り回されていたら疲れるでしょ」と、心配と説諭の混じったような言葉をかけられ、ひどく惨めな気持ちになった。整骨院で緩めてもらったばかりの肩をギュッと強張らせて(いい具合に筋肉が伸縮するようになっていたから、これがまたよく縮みやがった……)、僕は身体を震わせていた。

 その時僕らが話していたのは、コロナウイルス問題のことだった。その後この問題について僕なりに考えたことを、以下にざっとまとめておきたい。もちろん、これはあくまで素人判断である。僕はこう考えるというだけで、その妥当性は一切保証されていない。前にも言ったが、この日記は有益な情報を発信するためにあるのではない。阿呆がちょっとでもマシな阿呆になろうと足掻くためにあるのだ。

 さて、コロナウイルス問題に対処するにあたり、社会として最も重要な目標は、感染の拡大を防ぐことと、事態の収束を急ぐことだ。この2つは、未知の病原体の影響を最小限に止めるという1つの目標をそれぞれ別の角度から言い換えたものに過ぎない。つまるところ、ウイルスの不安のないもとの生活に戻ることが、究極の目標である。次々に打たれる対策について自分なりの意見をまとめるうえでは、この目標を意識することが何よりも大事になるだろう。

 一方で、個人の側に立ってみると、いかにして感染を防ぎつつ、普段通りに近い生活を送るかということが重要な問題になってくるのではないかと思う。少なくとも僕はそうである。今は緊急事態だからとにかく何でも我慢という考え方に僕は納得できない。お前やっぱり忍耐力がないだけだろ、という声が聞こえてきそうだが、仮に忍耐力があったにしても、買わなくていい我慢なら買わずに済ますに越したことはないだろう。

 僕にとってとりわけ重要な関心事は、家から外へ出て行動するにあたって何をどう注意すればいいのかということ、何はやっても大丈夫で何は避けた方がいいのかということである。休校措置やイベント中止などの話が相次ぐ中で、なんとなく家の外に出辛い風潮が蔓延している。僕はこの状況に息が詰まりそうになっている。もちろん、家の中にも楽しみはあるだろう。読書然り、動画視聴然り、そうした楽しみに事欠かない環境は十分整ってきているように思う。けれども、僕はやっぱり外に出たい。それは1つには、僕らが身体的存在だからである。幾ら知的・精神的な楽しみがあっても、身体を適度に動かしてやらないことには、いずれ健康は阻害される。僕は身体のあちこちに凝りを抱えているので、それがひどくならないためにも動きたくて仕方がない。

 僕らは行動をどこまで制限すべきなのか。感染の拡大、あるいは自身の感染を防ぎながら、自由に行動したいという、この緊張状態の折り合いはどの辺につけられるのか。それを考えるにあたって大事なってくるのは、いま明らかになっているウイルスの特性を知っておくことではないかと思う。

 厚生労働省が公表している「新型コロナウイルスに関するQ&A」によると、コロナウイルスの感染経路として現在考えられているのは、①飛沫感染(くしゃみ、咳、つばなどが飛ぶことを介した感染)と②接触感染(ウイルスのついた手などで触れたものを他の人が触ることを介した感染)の2つである。空気感染については、現在のところ起きていないと考えられている。前に読んだある記事でも、コロナウイルスはウイルスの中では直径の大きい部類に属し、空気中をそれほど遠くまで飛ぶことはできないと書かれていたから、ウイルスの変異が認められない限り、空気感染のリスクは低いとみて間違いないのだろう。

 ということは、人口密度が高いところでなければ、とりわけ屋外については、移動の制約は殆どないとみてよさそうだ。これは僕のようなじっとしていられない人間にとっては朗報である。僕などは、どこか行きたい場所が決まっているわけではないから、散歩やランニングができるとわかればもう十分である。ともあれ、身体を動かすチャンスがあること、家に閉じこもって気詰まりする心配を回避できることを喜ばしいことと捉える人は少なくないはずだ。

 ちなみに、この観点からすると、「子どもが公園で遊んでいる」と市役所に問い合わせた大人がいるなどというのは無茶苦茶な話である。公園にどれくらいの人がいるかにもよるが、まあ一般的に考えて密集と呼べるほどの数にはならないだろうから、これくらいどうってことないはずである。もちろん、誰かと近い距離で接したり周囲のものを触ったりすることはあるだろうから、家に帰ってからの手洗い・うがいなどは必要になるけれど。

 以上が、僕がこの数日間に考えたことだ。物事の判断軸は見えたし、自分自身の関心事についても、いまわかっていることに照らし合わせて結論を導き出せたから、大いにスッキリした。