2月22日(土)の夜に、彩ふ読書会のメンバーで哲学カフェを行いました。折角ですので、その振り返りをつけてみようと思います。
哲学カフェとは、テーマを決めてみんなで一緒に考える集まりのことです。多くの場合、「お金はどうして大事なの?」「友だちって何?」「自信はどうやったら身につくの?」といった身近なテーマを取り上げて話し合います。要するに、日々の生活の中で“わかったつもり”になっていたり受け流してしまっていることについて、立ち止まって考えてみる、それも何人かで一緒に考えてみる場が、哲学カフェです。
今回の哲学カフェのテーマは「笑い」でした。「笑い」について哲学的に考えたのは初めてのことでした。読書会のメンバーの中にはお笑いが好きな人が一定数いて、読書会の前後の時間に芸人の話やバラエティー番組の話に花が咲くことがままありますし、お笑いに詳しいわけではないけれど笑うことが好きだという人も多いように思います。しかし、今回目指したのは、お笑い論に走ったり、笑い話を共有したりすることではなく、「笑い」そのものについて考えることでした。どんな話題が出てくるのか、そしてどのように話が広がっていくのか、全くわからないまま、当日を迎えました。
今回の会場は、大阪駅から東通り商店街の方へ歩いて15分ほどのところにある「NANA会議室」というレンタルスペースでした。繁華街の外れにある雑居ビルの地下室という、いかにも隠れ家といった雰囲気の場所へ、夜19時過ぎ、8人の読書会メンバーが集まり、2時間話し合いを行いました。彩ふ読書会では昨年の暮れから、読書会の内外を問わず広く参加者を募る形の哲学カフェも開催していますが、この日は4ヶ月ぶりに、読書会メンバーに参加者を限定して開催しました。
それでは、話し合いの内容をみていくことにしましょう。
◆①「あるある」が笑いを生む
「笑いは国境を越えられないという話を聞いたことがあるんですが、例えばアメリカのお笑いで皆さんは笑えますか?」この発言から、「笑い」を巡る話し合いは始まりました。「笑えないですね」「逆に、日本の漫才も海外には出て行かないですね」といった発言が続きました。国や民族、文化によって何が笑えるかは違うのではないか、ということが、ここから見えてきました。
この話は以上で途切れてしまうのですが、暫くして「あるあるネタは笑える」という話の中で思い出されることになります。あるあるネタは確かに笑えます。そのネタについて自分が知っていて、共感できるために、笑いが生まれてくるのでしょう。具体例として、『翔んで埼玉』が面白いのは、東京が日本の中心にして頂点に君臨するものであり、他の地域の人々は東京に対して劣等感を抱いたうえで、互いにどちらがまだマシかで小競り合いをしているということが、日本人の共通認識としてあるからだという話もありました(もちろん、埼玉がネタにされやすく、また埼玉出身者に地元をディスる傾向があるというローカルな事情もあるでしょうが)。
さて、言うまでもないことでしょうが、「あるある」を共有できる範囲には限りがあります。ここで、笑いは国境を越えられないという話が思い出されます。日本に住む人の「あるある」と、アメリカに暮らす人の「あるある」は違います。アメリカの人が『翔んで埼玉』を見ても何のことかわからないでしょうし、M-1優勝ネタでお馴染みのコーンフレークも、オートミールをネタにしないと彼らは笑えないかもしれません(これも実際に出た例です)。笑いが国境を越えられないのは、それぞれの国・地域の「あるある」を背景に成り立っているからだということが、ここから伺えます。
更に、時代によっても「あるある」は変化します。「昔の漫才を見ても何が面白いのかわからない」という意見が途中で出ましたが、それは、笑いの基盤となっている常識が、今と昔では異なるからです。わかりやすいのは時事ネタを盛り込んだお笑いです(その意味では、『翔んで埼玉』だのコーンフレークだのと書き散らしているこの文章も、寿命が知れている感じがします)。また、昔は面白いとされていたネタだけれど、今見ると不謹慎だと眉をひそめずにはいられないということもあるかもしれません。「笑いは時代的なもの」と断言した参加者もいたほどでした。
このように見ていくと、笑いというのは基本的に内向きの現象なのだということがわかります。いま・ここで、認識を共有している者同士が同じ事柄で笑う、これが笑いの基本なのです。劇場のような密閉空間の中で、観客の笑いが増幅されていくことがあるのは、笑いが限られた場所の中で起こることを端的に物語っているといえるでしょう。
ここまではそれでも、1つの国・1つの時代である程度共有できるであろう笑いを扱ってきましたが、「あるある」が共有される範囲というのはもっと狭い場合もあります。どんどん狭くしていくと、遂には仲間内でしか共有できない笑い、いわゆる「内輪ネタ」に行き着きます(例えば、会社の上司の悪口ですね)。
内輪ネタについては諸般の事情により別稿で丁寧に取り上げようと思うのですが、ここで1つだけ補足しておきたいことがあります。僕はしばしば、自分の近くを通り過ぎていく集団が大きな笑い声を立てた時にイラッとすることがあるのですが、その理由について「自分が孤立していると感じるからじゃない?」という意見が寄せられました。笑っている人たちの間で連帯や仲間意識が生まれている。その時、蚊帳の外にいる自分は、別にその集団に加わりたいと思っているわけじゃないけれど、ふと、あぁ俺はひとりだと感じるんじゃないかというのです。確かにそうかもしれません。ともあれ、笑いは内向きのものであり、不可避的に線引きを伴うものであるということが、ここからも見えてくるように思います(周りで人が笑っていても気にならないという人にとっては、何のことだかわからないかもしれませんが)。
◆②笑いとは、緊張の緩和である
ここまで、「あるある」がベースになって起きる笑いの話をしてきました。哲学カフェの中ではもう1つ、話題になった笑いがありました。それは、緊張の緩和としての笑いというものです。これは桂枝雀という落語家が唱えた説のようです。
緊張の緩和とはこういうことです。理解の枠外にあるヘンなこと・意外なことが起こった時、我々は「え、いま何が起こったの!?」という緊張状態に置かれます(恐怖や不安ということもできそうですが、いずれも力を込めて身構えるという要素を持ち合わせていますので、以下では緊張という言葉で統一します)。この緊張が緩んだ時、その快感から人は笑うというのです。漫才でいうと、ボケがおかしなことを言うことで、「あれ、どうした!?」という緊張が生まれ、そこへツッコミが常識に基づいた返しをすることで、緊張が緩和され笑いが起こるということです(ここから、笑いにおいて重要なのはボケではなくむしろツッコミだということが見えてきます。これには僕も含め、何人かが驚いていました)。
哲学カフェの中で出た他の話を、緊張の緩和との関連で見てみましょう。例えば、「お笑いとホラーは似ている」という話がありました。両者とも話の要素は似ていて、オチがつくかつかないかというところから違いが生まれるというのです。確かに、落語の中には怪談話がありますし、お笑い芸人のコントの中にもホラーテイストの強いものがあるそうですから、両者は近しいものなのかもしれません。
ホラーは恐怖を引き起こすものですから、当然緊張のもとになります。この緊張が高まった状態でオチをつければ、落差の大きな弛緩につながるため、爆発的な笑いが生まれます。緊張をもたらすホラーは、笑いと相性がいいのです(ちなみに、ホラーの方は、話が続くうちは緊張が続きますが、話が終わったり本を閉じたりして現実に戻ることで緊張が緩和し快感が得られる、というメカニズムになっているようです)。
また、「絶望的な状況に陥ると、笑うしかねえという気分になりますよね」という話がありました。これも、なす術のないような緊張状態から逃れようとするところで笑いが生じているわけですから、緊張の緩和が笑いをもたらすことの例とみることができます。笑ってはいけない状況で笑ってしまったり、タブーを破る人が出てきた時に笑いが起きたりするという事例も話し合いの中で出てきましたが、同様のものと考えていいでしょう。
ただし、笑いと緩和が起きる順番は時と場合によって異なります。怪談話にオチがついて笑いが生じるという例では、緊張状態が緩和したことにより笑いが起きるというように、緩和が笑いに先行しています。これに対し、絶望的な状況下で笑うという例では、笑うことによって、緊張状態を積極的に緩めようとしていることが伺えます。つまり、笑いが緩和より先にあるのです。現実を読み換え心の安定を図るために笑いを利用するという現象について、哲学カフェの中では「笑いを道具として利用している」という言い方をしていました。
このように、幾つかパターンはあるものの、緊張の緩和と笑いの間には深い関わりがあるように思います。もちろん、笑いは緊張の緩和であるというのは、あらゆる笑いを説明するロジックではありません(「あるある」に共感して笑いが増幅していくという場面では、そもそも緊張が生じていません)。ですが、数ある笑いのある部分の説明として、とても説得力があると感じられるものでした。
少し話が逸れますが、以上の内容に関連して、同じ出来事をどのような距離感で眺めるかによって、笑いが生まれるか笑えない話になるかが変わるのではないかという話をしておきたいと思います。「人生は近くでみると悲劇だが、遠くからみれば喜劇だ」という言葉があります(喜劇王チャップリンの言葉だそうです)。卑近な例ですが、自分や親しい人が足を滑らせて転ぶのは辛いことだけれど、通りすがりの人が同じように転ぶのは滑稽だというのを考えるとわかりやすいでしょう。同じ出来事でも、自分の身に迫る出来事としてみれば深刻なものになるけれど、他人事になってしまうと面白おかしい出来事になるというわけです。桂枝雀も、他人のちょっとした困り事は笑いになると言っていたそうです。
絶望的な状況において笑いが漏れるという話をしていた時、「それは自分事じゃないと考えて距離を置こうとしているんじゃないでしょうか」と話した方がいました。これは大いにありうることだと思います。この時人は、目の前の出来事を自分の身に降りかかる問題ではないと考えることで緊張状態を緩めようとしているわけですが、それが同時に現実から身を引かせるという現象を伴っているのは興味深いことだと思います。
これらの話を踏まえると、笑いは対象と距離を置くことによって生まれるというまた新たな側面が見えてきます。既に述べたように、それは緊張を緩和させる手法の1つでもありますが、それ以上の意味も含んでいるのではないかという気がするので、敢えて別立てで書き留めておこうと思います。
◆③笑いとは力である
前段の中で、笑いを道具として利用する事例を紹介しました。緊張を緩和させるため、意図的に笑うというのがその事例でした。このことは、笑いには、笑った人に現実を読み換えさせる効果があるということを示唆しています。
もしかすると、その笑いは、当人の気持ちを変化させるだけでなく、彼/彼女と対面している人の気持ちにも影響を及ぼすかもしれません。接客業に就いている参加者から、「仕事柄、お客さんの前では笑うことが多い」という話がありました。笑顔をつくることには、口角を上げることで当人の緊張感を和らげると同時に、相手に好印象を与えクレームを防止する効果があるそうです。この例では、ワタシが笑うことが相手にも影響を及ぼし、ひいてはそれが、ワタシが仕事をスムーズに進める=思い通りに事を運ぶことにつながっていることが伺えます。「笑いは支配である」という言葉があるようですが、ここではまさに、店員がお客を支配していると見ることができるでしょう。
いま述べたような話から見えてくるのは、笑いとは一種の力であるということです。笑いには、自分や他人の心理に影響を及ぼし、ものの見方に変化をもたらす力が秘められているのです。
笑いとは、そもそもエネルギッシュなものです。本稿の前半で、近くにいる集団がドッと笑うとイラッとするという話をしましたが、哲学カフェの中でこの話をした際には、孤独を感じるからではないかという意見の他に、「その人たちに働きかけることができないまま、ただただ勢いに圧倒されてしまうからではないか」という話がありました。上に挙げた2つとはまた違う例ですが、笑いには力があると思わせる好例であるように思います。
笑いが生む力を巧みに利用している人の話を聞くこともできました。ある参加者は、会社などでパワハラ・セクハラに近い発言が出ると、わざと大声で笑いながら、真顔で相手を見つめ返すのだと話していました。普通なら緊張が続きそうな場面で敢えて笑うことで空気を変えつつ、表情で真意を伝えるというのは、かなりの高等テクニックですし、真意がわかるだけに恐ろしいものですから、笑われた側は相当堪えるんじゃないかと思います。実際、この方法は相当有効とのことでした。
ともあれ、確認しておきたいことは、笑いは力であるということです。普段面白いことや楽しいことで笑うことばかり考えている僕からすると、これもなかなか衝撃的な発見でした。
◆まとめ——人が笑うのはどういう時か?
以上、「笑い」をテーマにした哲学カフェの内容を振り返ってきました。最後に、以上で見てきたことを僕なりに整理して、本稿を締めくくりたいと思います。
今回の哲学カフェを通じて、僕らは笑いのパターンのうち、少なくとも2つについて考えを進めることができました。1つは、「あるある」をベースとする共感に基づく笑いであり、もう1つは、緊張の緩和がもたらす笑いでした。両者は違う性質のものだと僕は思いますが、その一方、振り返りを進める中で、2つに共通する要素もあるのではないかと考えるようにもなりました。
結論からいうと、人が笑うのは、その人が安全圏にいることの証明か、もしくは、安全圏に至ろうという意思の表れだということです。
緊張の緩和がもたらす笑いについては、この点について改めて述べる必要はないでしょう。まさに、緊張状態を脱して安心感を得ることで(或いは、緊張状態を脱して安心感を得るために)笑いが生じるわけですから。
では、「あるある」への共感に基づく笑いの方はどうか。少し考えてみると、この笑いの根底にあるのも安心感であることが見えてきます。なぜなら、彼/彼女は、自分が知っていることに基づいて笑っているからです。価値観や判断基準が揺らぐ心配はそこにはありません。自身が変わる必要がないという意味において、その人は安全なのです。さらに言えば、それがみんなの「あるある」なのですから、他の人の輪に入ることができているという安心感も得られるにちがいありません。
このように考えていくと、笑いの根源にあるのは、自分の身の安全なり安心だということが見えてきます。それらが保障されているから、或いは保障されたいから、人は笑うのです。
そのような笑いを生み出すことによって、人は自他に影響を及ぼしていきます。特に笑いを道具的に使う場合には、場を支配することだってできるかもしれません。その支配には、ショップ店員さんのプライスレス・スマイルのように、「私はあなたを怖がってなどいませんよ=安心していますよ」という態度によって場を穏やかにするものもあるでしょう。一方で、映画などの悪役が浮かべる不敵な笑みのように、「あいつはすっかり安心しきっているらしい=ということは俺たちに何が待っているっていうんだ!?」と相手を恐れさせ場の中で優位に立つことを可能にするものもあるでしょう。この力を状況によって自在に使い分ける人が身近にいたら、緊張しっ放しで笑うどころじゃないなあと、今更ながら思います。防衛策を考えないといけないかもしれませんが、それは今の僕の手に余る仕事ですので、気が向いたら考えることにします。
以上で哲学カフェ「笑い」の大まかな振り返りは締めくくりたいと思います。もっとも、僕には1つ大きな課題が残っています。文中でも触れましたが、「内輪ネタ」の問題について丁寧に考えるという課題です。なぜこれが大きな課題なのか、その辺りの事情も含め、「内輪ネタ」をテーマにした記事を1本、別に書きたいと思います。次回か、遅くとも次々回にはアップします。気が向いたら見に来てください。それでは!
哲学カフェとは、テーマを決めてみんなで一緒に考える集まりのことです。多くの場合、「お金はどうして大事なの?」「友だちって何?」「自信はどうやったら身につくの?」といった身近なテーマを取り上げて話し合います。要するに、日々の生活の中で“わかったつもり”になっていたり受け流してしまっていることについて、立ち止まって考えてみる、それも何人かで一緒に考えてみる場が、哲学カフェです。
今回の哲学カフェのテーマは「笑い」でした。「笑い」について哲学的に考えたのは初めてのことでした。読書会のメンバーの中にはお笑いが好きな人が一定数いて、読書会の前後の時間に芸人の話やバラエティー番組の話に花が咲くことがままありますし、お笑いに詳しいわけではないけれど笑うことが好きだという人も多いように思います。しかし、今回目指したのは、お笑い論に走ったり、笑い話を共有したりすることではなく、「笑い」そのものについて考えることでした。どんな話題が出てくるのか、そしてどのように話が広がっていくのか、全くわからないまま、当日を迎えました。
今回の会場は、大阪駅から東通り商店街の方へ歩いて15分ほどのところにある「NANA会議室」というレンタルスペースでした。繁華街の外れにある雑居ビルの地下室という、いかにも隠れ家といった雰囲気の場所へ、夜19時過ぎ、8人の読書会メンバーが集まり、2時間話し合いを行いました。彩ふ読書会では昨年の暮れから、読書会の内外を問わず広く参加者を募る形の哲学カフェも開催していますが、この日は4ヶ月ぶりに、読書会メンバーに参加者を限定して開催しました。
それでは、話し合いの内容をみていくことにしましょう。
◆①「あるある」が笑いを生む
「笑いは国境を越えられないという話を聞いたことがあるんですが、例えばアメリカのお笑いで皆さんは笑えますか?」この発言から、「笑い」を巡る話し合いは始まりました。「笑えないですね」「逆に、日本の漫才も海外には出て行かないですね」といった発言が続きました。国や民族、文化によって何が笑えるかは違うのではないか、ということが、ここから見えてきました。
この話は以上で途切れてしまうのですが、暫くして「あるあるネタは笑える」という話の中で思い出されることになります。あるあるネタは確かに笑えます。そのネタについて自分が知っていて、共感できるために、笑いが生まれてくるのでしょう。具体例として、『翔んで埼玉』が面白いのは、東京が日本の中心にして頂点に君臨するものであり、他の地域の人々は東京に対して劣等感を抱いたうえで、互いにどちらがまだマシかで小競り合いをしているということが、日本人の共通認識としてあるからだという話もありました(もちろん、埼玉がネタにされやすく、また埼玉出身者に地元をディスる傾向があるというローカルな事情もあるでしょうが)。
さて、言うまでもないことでしょうが、「あるある」を共有できる範囲には限りがあります。ここで、笑いは国境を越えられないという話が思い出されます。日本に住む人の「あるある」と、アメリカに暮らす人の「あるある」は違います。アメリカの人が『翔んで埼玉』を見ても何のことかわからないでしょうし、M-1優勝ネタでお馴染みのコーンフレークも、オートミールをネタにしないと彼らは笑えないかもしれません(これも実際に出た例です)。笑いが国境を越えられないのは、それぞれの国・地域の「あるある」を背景に成り立っているからだということが、ここから伺えます。
更に、時代によっても「あるある」は変化します。「昔の漫才を見ても何が面白いのかわからない」という意見が途中で出ましたが、それは、笑いの基盤となっている常識が、今と昔では異なるからです。わかりやすいのは時事ネタを盛り込んだお笑いです(その意味では、『翔んで埼玉』だのコーンフレークだのと書き散らしているこの文章も、寿命が知れている感じがします)。また、昔は面白いとされていたネタだけれど、今見ると不謹慎だと眉をひそめずにはいられないということもあるかもしれません。「笑いは時代的なもの」と断言した参加者もいたほどでした。
このように見ていくと、笑いというのは基本的に内向きの現象なのだということがわかります。いま・ここで、認識を共有している者同士が同じ事柄で笑う、これが笑いの基本なのです。劇場のような密閉空間の中で、観客の笑いが増幅されていくことがあるのは、笑いが限られた場所の中で起こることを端的に物語っているといえるでしょう。
ここまではそれでも、1つの国・1つの時代である程度共有できるであろう笑いを扱ってきましたが、「あるある」が共有される範囲というのはもっと狭い場合もあります。どんどん狭くしていくと、遂には仲間内でしか共有できない笑い、いわゆる「内輪ネタ」に行き着きます(例えば、会社の上司の悪口ですね)。
内輪ネタについては諸般の事情により別稿で丁寧に取り上げようと思うのですが、ここで1つだけ補足しておきたいことがあります。僕はしばしば、自分の近くを通り過ぎていく集団が大きな笑い声を立てた時にイラッとすることがあるのですが、その理由について「自分が孤立していると感じるからじゃない?」という意見が寄せられました。笑っている人たちの間で連帯や仲間意識が生まれている。その時、蚊帳の外にいる自分は、別にその集団に加わりたいと思っているわけじゃないけれど、ふと、あぁ俺はひとりだと感じるんじゃないかというのです。確かにそうかもしれません。ともあれ、笑いは内向きのものであり、不可避的に線引きを伴うものであるということが、ここからも見えてくるように思います(周りで人が笑っていても気にならないという人にとっては、何のことだかわからないかもしれませんが)。
◆②笑いとは、緊張の緩和である
ここまで、「あるある」がベースになって起きる笑いの話をしてきました。哲学カフェの中ではもう1つ、話題になった笑いがありました。それは、緊張の緩和としての笑いというものです。これは桂枝雀という落語家が唱えた説のようです。
緊張の緩和とはこういうことです。理解の枠外にあるヘンなこと・意外なことが起こった時、我々は「え、いま何が起こったの!?」という緊張状態に置かれます(恐怖や不安ということもできそうですが、いずれも力を込めて身構えるという要素を持ち合わせていますので、以下では緊張という言葉で統一します)。この緊張が緩んだ時、その快感から人は笑うというのです。漫才でいうと、ボケがおかしなことを言うことで、「あれ、どうした!?」という緊張が生まれ、そこへツッコミが常識に基づいた返しをすることで、緊張が緩和され笑いが起こるということです(ここから、笑いにおいて重要なのはボケではなくむしろツッコミだということが見えてきます。これには僕も含め、何人かが驚いていました)。
哲学カフェの中で出た他の話を、緊張の緩和との関連で見てみましょう。例えば、「お笑いとホラーは似ている」という話がありました。両者とも話の要素は似ていて、オチがつくかつかないかというところから違いが生まれるというのです。確かに、落語の中には怪談話がありますし、お笑い芸人のコントの中にもホラーテイストの強いものがあるそうですから、両者は近しいものなのかもしれません。
ホラーは恐怖を引き起こすものですから、当然緊張のもとになります。この緊張が高まった状態でオチをつければ、落差の大きな弛緩につながるため、爆発的な笑いが生まれます。緊張をもたらすホラーは、笑いと相性がいいのです(ちなみに、ホラーの方は、話が続くうちは緊張が続きますが、話が終わったり本を閉じたりして現実に戻ることで緊張が緩和し快感が得られる、というメカニズムになっているようです)。
また、「絶望的な状況に陥ると、笑うしかねえという気分になりますよね」という話がありました。これも、なす術のないような緊張状態から逃れようとするところで笑いが生じているわけですから、緊張の緩和が笑いをもたらすことの例とみることができます。笑ってはいけない状況で笑ってしまったり、タブーを破る人が出てきた時に笑いが起きたりするという事例も話し合いの中で出てきましたが、同様のものと考えていいでしょう。
ただし、笑いと緩和が起きる順番は時と場合によって異なります。怪談話にオチがついて笑いが生じるという例では、緊張状態が緩和したことにより笑いが起きるというように、緩和が笑いに先行しています。これに対し、絶望的な状況下で笑うという例では、笑うことによって、緊張状態を積極的に緩めようとしていることが伺えます。つまり、笑いが緩和より先にあるのです。現実を読み換え心の安定を図るために笑いを利用するという現象について、哲学カフェの中では「笑いを道具として利用している」という言い方をしていました。
このように、幾つかパターンはあるものの、緊張の緩和と笑いの間には深い関わりがあるように思います。もちろん、笑いは緊張の緩和であるというのは、あらゆる笑いを説明するロジックではありません(「あるある」に共感して笑いが増幅していくという場面では、そもそも緊張が生じていません)。ですが、数ある笑いのある部分の説明として、とても説得力があると感じられるものでした。
少し話が逸れますが、以上の内容に関連して、同じ出来事をどのような距離感で眺めるかによって、笑いが生まれるか笑えない話になるかが変わるのではないかという話をしておきたいと思います。「人生は近くでみると悲劇だが、遠くからみれば喜劇だ」という言葉があります(喜劇王チャップリンの言葉だそうです)。卑近な例ですが、自分や親しい人が足を滑らせて転ぶのは辛いことだけれど、通りすがりの人が同じように転ぶのは滑稽だというのを考えるとわかりやすいでしょう。同じ出来事でも、自分の身に迫る出来事としてみれば深刻なものになるけれど、他人事になってしまうと面白おかしい出来事になるというわけです。桂枝雀も、他人のちょっとした困り事は笑いになると言っていたそうです。
絶望的な状況において笑いが漏れるという話をしていた時、「それは自分事じゃないと考えて距離を置こうとしているんじゃないでしょうか」と話した方がいました。これは大いにありうることだと思います。この時人は、目の前の出来事を自分の身に降りかかる問題ではないと考えることで緊張状態を緩めようとしているわけですが、それが同時に現実から身を引かせるという現象を伴っているのは興味深いことだと思います。
これらの話を踏まえると、笑いは対象と距離を置くことによって生まれるというまた新たな側面が見えてきます。既に述べたように、それは緊張を緩和させる手法の1つでもありますが、それ以上の意味も含んでいるのではないかという気がするので、敢えて別立てで書き留めておこうと思います。
◆③笑いとは力である
前段の中で、笑いを道具として利用する事例を紹介しました。緊張を緩和させるため、意図的に笑うというのがその事例でした。このことは、笑いには、笑った人に現実を読み換えさせる効果があるということを示唆しています。
もしかすると、その笑いは、当人の気持ちを変化させるだけでなく、彼/彼女と対面している人の気持ちにも影響を及ぼすかもしれません。接客業に就いている参加者から、「仕事柄、お客さんの前では笑うことが多い」という話がありました。笑顔をつくることには、口角を上げることで当人の緊張感を和らげると同時に、相手に好印象を与えクレームを防止する効果があるそうです。この例では、ワタシが笑うことが相手にも影響を及ぼし、ひいてはそれが、ワタシが仕事をスムーズに進める=思い通りに事を運ぶことにつながっていることが伺えます。「笑いは支配である」という言葉があるようですが、ここではまさに、店員がお客を支配していると見ることができるでしょう。
いま述べたような話から見えてくるのは、笑いとは一種の力であるということです。笑いには、自分や他人の心理に影響を及ぼし、ものの見方に変化をもたらす力が秘められているのです。
笑いとは、そもそもエネルギッシュなものです。本稿の前半で、近くにいる集団がドッと笑うとイラッとするという話をしましたが、哲学カフェの中でこの話をした際には、孤独を感じるからではないかという意見の他に、「その人たちに働きかけることができないまま、ただただ勢いに圧倒されてしまうからではないか」という話がありました。上に挙げた2つとはまた違う例ですが、笑いには力があると思わせる好例であるように思います。
笑いが生む力を巧みに利用している人の話を聞くこともできました。ある参加者は、会社などでパワハラ・セクハラに近い発言が出ると、わざと大声で笑いながら、真顔で相手を見つめ返すのだと話していました。普通なら緊張が続きそうな場面で敢えて笑うことで空気を変えつつ、表情で真意を伝えるというのは、かなりの高等テクニックですし、真意がわかるだけに恐ろしいものですから、笑われた側は相当堪えるんじゃないかと思います。実際、この方法は相当有効とのことでした。
ともあれ、確認しておきたいことは、笑いは力であるということです。普段面白いことや楽しいことで笑うことばかり考えている僕からすると、これもなかなか衝撃的な発見でした。
◆まとめ——人が笑うのはどういう時か?
以上、「笑い」をテーマにした哲学カフェの内容を振り返ってきました。最後に、以上で見てきたことを僕なりに整理して、本稿を締めくくりたいと思います。
今回の哲学カフェを通じて、僕らは笑いのパターンのうち、少なくとも2つについて考えを進めることができました。1つは、「あるある」をベースとする共感に基づく笑いであり、もう1つは、緊張の緩和がもたらす笑いでした。両者は違う性質のものだと僕は思いますが、その一方、振り返りを進める中で、2つに共通する要素もあるのではないかと考えるようにもなりました。
結論からいうと、人が笑うのは、その人が安全圏にいることの証明か、もしくは、安全圏に至ろうという意思の表れだということです。
緊張の緩和がもたらす笑いについては、この点について改めて述べる必要はないでしょう。まさに、緊張状態を脱して安心感を得ることで(或いは、緊張状態を脱して安心感を得るために)笑いが生じるわけですから。
では、「あるある」への共感に基づく笑いの方はどうか。少し考えてみると、この笑いの根底にあるのも安心感であることが見えてきます。なぜなら、彼/彼女は、自分が知っていることに基づいて笑っているからです。価値観や判断基準が揺らぐ心配はそこにはありません。自身が変わる必要がないという意味において、その人は安全なのです。さらに言えば、それがみんなの「あるある」なのですから、他の人の輪に入ることができているという安心感も得られるにちがいありません。
このように考えていくと、笑いの根源にあるのは、自分の身の安全なり安心だということが見えてきます。それらが保障されているから、或いは保障されたいから、人は笑うのです。
そのような笑いを生み出すことによって、人は自他に影響を及ぼしていきます。特に笑いを道具的に使う場合には、場を支配することだってできるかもしれません。その支配には、ショップ店員さんのプライスレス・スマイルのように、「私はあなたを怖がってなどいませんよ=安心していますよ」という態度によって場を穏やかにするものもあるでしょう。一方で、映画などの悪役が浮かべる不敵な笑みのように、「あいつはすっかり安心しきっているらしい=ということは俺たちに何が待っているっていうんだ!?」と相手を恐れさせ場の中で優位に立つことを可能にするものもあるでしょう。この力を状況によって自在に使い分ける人が身近にいたら、緊張しっ放しで笑うどころじゃないなあと、今更ながら思います。防衛策を考えないといけないかもしれませんが、それは今の僕の手に余る仕事ですので、気が向いたら考えることにします。
以上で哲学カフェ「笑い」の大まかな振り返りは締めくくりたいと思います。もっとも、僕には1つ大きな課題が残っています。文中でも触れましたが、「内輪ネタ」の問題について丁寧に考えるという課題です。なぜこれが大きな課題なのか、その辺りの事情も含め、「内輪ネタ」をテーマにした記事を1本、別に書きたいと思います。次回か、遅くとも次々回にはアップします。気が向いたら見に来てください。それでは!
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