昨日に引き続き、216日(日)に京都で開かれた彩ふ読書会の様子を振り返っていきたいと思います。昨日は午前の部=「推し本披露会」の様子を紹介しました。この記事では、午後の部=「課題本読書会」の様子について見ていきたいと思います。

 今回の課題本は、カズオ・イシグロさんの小説『わたしを離さないで』でした。主人公は「提供者」と呼ばれる人たちを世話する職業「介護人」に就くキャシー・H。間もなくその仕事を終えようとしている彼女が、これまでの人生を振り返る形で、物語は進みます。生まれ育った「ヘールシャム」という施設での思い出。とりわけ、ヘールシャム以来の親友であるトミーとルースとの思い出や、「保護官」たちのこと。ヘールシャムを出た後のこと、そして、介護人になってからのこと。淡々とした語りが進むにつれ、彼女たちやヘールシャム、そして提供の秘密が明らかになっていきます。それと共に、読み手である僕らは、生きる意味とは何か、人間らしさとは何か、さらには、何が幸せかといった、様々なテーマについて考えを巡らすようになりました。

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 作品の醍醐味(とりわけ初読時の醍醐味)の1つは、読み進めながら上述の秘密を少しずつ解き明かしていくことにあるのですが、ネタバレを避けてしまうと感想や考察が何も語れなくなってしまいますので、今回はネタバレ全開でお送りしたいと思います。読みたいけど読んでいないという方は特にご注意ください。

 さて、課題本読書会は1340分頃に始まり、1時間半ほど続きました。今回の読書会には24人の参加者がいらっしゃいましたので、3つのグループに分かれて座り、自己紹介ののち、本の感想などを話し合いました。15時を過ぎたところで、グループでの話し合いは終了し、各グループの代表者が他のグループに向けて話し合いの内容を紹介する全体発表が行われました。その後、今後の読書会や部活動の告知を経て、読書会は終了となりました。

 僕は会場の一番奥のテーブルを囲むCグループに参加しました。メンバーは全部で8人。そのうち3人が初参加で、あとのメンバーは僕のほか、SFファンの女性、現在古典作品に挑戦中のベテラン男性、いつも鋭い発言で課題本読書会を盛り上げてくださるベテラン女性、哲学カフェでよくご一緒する男性という顔ぶれでした。

 グループの進行役は僕が担当しました。最近の僕は、参加者に順番に感想などを話してもらうのでも、考えてきたことなどを付箋に書き出してから話してもらうのでもなく、挙手制にして話したい人に話してもらうというスタイルを採っています。全員に同じように話してもらうよりも、話したい人は話し、聞きたい人は聞くというやり方にしたほうが、無理がないような気がするからです。今回について言えば、完全にお任せで話を進めた結果、本の概要をおさらいすることなく感想・考察の応酬になったので、些か「しまった!」という思いもあります。一方で、だからこそ聞くことのできた興味深い話もあったように思います。

 ともあれ、グループでの話し合いの様子をご覧いただくことにしましょう。

◆課題本を読んだ感想から

 Cグループの話し合いは、課題本を読んだ感想を雑駁に話すところから始まりました。自己紹介の途中から本の感想を一言話すのがお決まりのような流れが出来上がっていたので、自然な形で感想の話し合いに移っていくことができました。

 感想は大きく言うと、「面白かった」というものと、「しんどかった」というものに分かれていました。「面白かった」という意見のほうは、実際には様々なタイプに分かれていました。主な意見を紹介すると、「元々ミステリーが好きなので、(主人公の)淡々とした語りが進むにつれて謎が明かされていく感じがいいなと思った」というもの、「ラストの謎が一気に解けるところで、色々考えさせられた」というもの、はんたいに「綿密な語りで進む前半が良かった。ラストでは視野が急に広くなってガクンとした」というものがあったように思います。

 一方、「しんどかった」という意見の方は、「細かい描写が沢山あって、色んな出来事が描かれても、結局最後に向かって物語が進んで行くというのがしんどかった」と話していました。重大なネタバレになりますが、『わたしを離さないで』の主人公であるキャシーや、その友だちであるトミー・ルースたちは、クローン人間であり、病気になった人間のために臓器を提供することが使命となっています。運命が予め決められており、夢を持つことも、遠いどこかへ行って暮らすこともできません。臓器提供による死という決められた未来に向けて一直線に物語が進んで行くのは、確かにしんどいと感じることかもしれません。

 もっとも、「面白かった」という人も、主人公たちの運命を少しずつ知りながら、様々なことを考えていたのでしょうから、皆さん注目するポイントはよく似ていたのではないかと思います。違ったのは、そのポイントの受け止め方だったのでしょう。

 さて、雑駁に感想を話し合う中で、「教育によって人はこんなに変わるんだと思った」という意見が出てきました。その後の話し合いの中でも、主人公たちが教育を受ける意味、或いは主人公たちに教育を施そうとする先生たちのことが、しばしば話題になりました。というわけで、続いて「教育」の話に移ることにしたいと思います。

◆『わたしを離さないで』と、教育の問題

 先述の通り、物語の主要人物であるキャシーたちは、臓器提供という運命を定められたクローンですが、一方で彼女たちは子ども時代を「ヘールシャム」という全寮制の学校のような場所で過ごしており、一定の教育を受けています。「ヘールシャム」はクローンを生育させる施設の1つですが、中でもとりわけ、クローンを人間と同様に扱おうと尽力する人々によって運営されていたことが、作中の記述から伺えます。

 『わたしを離さないで』における教育というテーマで話をした時、まず話題になったのは、「臓器を提供するために教育は必要なのか」という問いでした。また、教育がクローンたちを人間らしくするためのものだったことを踏まえ、「人間とはどう生きるのか?」という問いも出てきました。もっとも、これらの問いはあまりに大きなものだったので、問いが出たきり話が続かなくなってしまいました(工夫次第でもっとこの点について話ができたのではないかと今になって思います……)。

 続いて、教育の中で自らの使命を刷り込まれて行くことの巧妙さが話題にのぼりました。大々的に話すのではなく、他の話に紛れ込ませ小出しに話しながら、使命を印象付けていくという手法が『わたしを離さないで』の中で紹介されていましたから、おそらくこれが印象に残ったのでしょう。

 この点に関連付ける形で、教育を巡る話し合いの中で最も深く掘り下げられた内容を紹介しましょう。それは、キャシーたちを教育した先生たちの間にあった方針の対立を巡るやり取りでした。ヘールシャムを振り返る話の中には何人かの先生が登場しますが、その中に、ルーシー先生という、他とは異なる先生が1人居ます。ルーシー先生は、「皆さんは教えられているようで教えられていない」と言って、クローンたちを待つ運命について正直に話したり、他の先生がクローンたちに推奨する絵画や詩について「無理に書く必要はない」と説明したりしています。話し合いの中では、そんなルーシー先生と他の先生を対比させて考える一幕がありました。

 どの先生も子どもたちに幸せになって欲しいと感じている点では同じだけれど、ルーシー先生はいかに残酷であっても真実を教えた方が子どもたちのためになると考えており、他の先生たちは残酷な真実を教えるくらいなら子どもたちを守ってあげるべきだと考えているのではないか——そんな意見がありました。どちらの先生も根底では同じ考えをもっている筈だけれど、表に現れるものを見るとこれだけ変わってくるのかと気付かされる意見でした。

 また、ルーシー先生が一番、クローンたちを人間として扱っていたのではないかという意見がありました。真実をこっそり含ませながら話すのではなく、正面きって話そうとするのは、クローンで、かつ子どもであるキャシーたちを対等な人間として扱おうとしていたから。絵画や詩を強要しなかったのは、表現物を個々人の魂の写し鏡として特別視することなく、一人ひとりの得意不得意を見抜き、あるがままの存在の中にそれぞれの人間性を見出そうとしていたから。ルーシー先生こそ、クローンを人間として扱おうとしていた人だという意見に立つと、先の対比は今述べた形で読めるようになると思います。

 この意見は、僕にとっては非常に納得のいくものでした。もっとも、僕はきっと、必要なウソというものについてあまりよく考えず、物事は何であれなるべく隠さず明かした方がよいと考えるタイプの人間なのでしょう。ここはおそらく意見の分かれるポイントだったろうと思います。ルーシー先生派か、他の先生派か。包み隠さず真実を語ることを是とするか、時に残酷な真実から身を守ることを是とするか。もっともっと掘り下げたかったなあと、今更のように思います。

◆なぜ、クローンたちは反逆しないのか?

 話し合いの中で、このような疑問が飛び出す一幕がありました。これも僕にとっては非常に印象深い一幕でした。なにしろ、キャシーたちが反逆する可能性を僕は全く考えていませんでしたから。キャシーたちは、臓器提供により生涯を終えるという運命を素直に受け入れていました(寿命を意識してもいないのではないか、という意見もありました)。僕もまた、運命に流されて生きていく彼女たちのことを素直に受け入れていました。しかし中には、他人の道具にされて死んでいく運命や、そのような運命を作り出している環境に反逆を試みないのはおかしいじゃないかと考える人もいるのです。これは新鮮な発見でした。

 その後、キャシーたちが反逆しない理由探しを進める形で、話し合いは進みました。子ども時代のキャシーたちはヘールシャム以外の世界を知らないし、教育の影響もあるので、自分たちが不幸な運命を背負っていることに気付いていないのではないか、という意見がありました。また、ヘールシャムを卒業した後のことについても、一度「介護人」になってしまえば、旧友とのたまの再会を喜ぶ余裕もないほど働きづめになるので、反逆行為に割ける時間や力が残らないのではないか、という意見が出ました。

 一方、ある参加者からは、数年前に放送されたテレビドラマ版『わたしを離さないで』では、クローンたちが自分たちの存在を知ってもらおうとビラ配りをするシーンが追加されていたことが紹介されました。また、仲間の1人は演説中の政治家のマイクを奪って訴えを起こしたあと、自ら命を絶っていたということも紹介されました。なぜドラマ版でこのようなシーンが追加されたのかはわかりませんでしたが、小説に描かれた従順すぎる世界とは違う世界もあるのだということを、ひしひしと感じる話し合いになりました。

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 この他にも、主要登場人物であるキャシーやトミー、ルースの性格や三者の関係性に関わる話が出たり、キャシーは誰に向けて語っているのかという問いが発せられたりと、幾つか展開はありましたが、特に印象的だった部分については以上でまとめた通りですので、これにて午後の部=課題本読書会の振り返りを締めくくろうと思います。ちなみに、全体発表で聞いた他のグループで出た意見の中には、「人間の条件について、考えることができれば人間ではないか」というものや、「クローンへの教育は、彼らの犠牲の上に健康を享受してきた人間の罪滅ぼしなのではないか」というものがあり、それぞれ面白いなあと思いました。

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 さて、普段であればここからもう1つ記事を分けて、課題本読書会後に設けられているメンバー同士の交流の時間、通称「ヒミツキチ」について筆を奮うところですが、この日のヒミツキチでは『わたしを離さないで』の映画版の上映会が行われ、残った全員がそれに参加していたので、課題本読書会の振り返りに続ける形で、この上映会について簡単に触れておこうと思います。

 参加したメンバーは全部で8人。会場の備品であるプロジェクターをお借りし、壁に立てかけられた白い板の上に映像を映し出す形で上映会は開かれました。最初パソコンとプロジェクターの接続が上手くいかず、企画者であるちくわさんが奮闘する場面がありましたが、その後無事映像が映り、上映会は淡々と進行していきました。

 映画版は400ページにわたる小説を100分に圧縮したものでした。大まかな筋書きは原作通りなので、特に目新しい発見もなく、原作との違いや俳優の演技について幾つかの感想を交すうち、上映会はあっさりと終わってしまいました。ちなみに、その時出た感想は、「クローンを巡る核心の部分をもっと丁寧に描いてほしかった」「キャシー、トミー、ルースの三角関係に焦点が当たりすぎてた」「ヘールシャム時代の描き方は良かった」「運命に抗えないと知った時のトミーの叫びは演技も相まって原作以上の出来だった」といったものでした。

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(上映会中の1コマ)

 上映会が終わると、時間はもう18時近くなっていました。他に予定があったり、家路を急いでいたりで、参加者は次々に会場を後にし、最後まで残っていた人はほんの僅かでした。その後、確認に来たオーナーの方から、会場の成り立ちの話などを聞き、静かな興奮を覚えたところで、僕らも会場を後にすることになったのでした。

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 というわけで、以上をもちまして、216日の京都・彩ふ読書会の振り返り、全編を締めくくろうと思います。ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。