知らなかったことに出会うのは、とても難しいことだ。例えばここで、最近起きた出来事や目にしたものについて考えを巡らしたとする。ある程度考えていれば、漫然とそれらを眺めていただけでは分からなかったことが見えてくる。しかし、そこで見えてくるものは、大抵の場合、知らなかったことではなく、知っていたことだ。もう少し正確に言うなら、知っていたけれど意識しないでいたことだ。僕らは詰まるところ、自分に見えている世界しか見ることができない。紙に滲むインクのシミが文字や数字に見えるのが、僕らがそれらを字として知っているからであるのと同じように。僕らは簡単には、自分の世界から抜け出すことができない。

 自分が知らないことと言うのは、自分の理解の及ばない何か難しいものであるような気がする。少なくとも僕はそうである。だから、出会った事柄を振り返る時、僕はいつも、それらの出来事の奥にある意味を見つけ出そうと、難しく考え込んでしまう。しかし、その尖った思考の先に見えるのは、既知の概念で埋め尽くされた味気ない事柄でしかない。そして、自分の知らなかったことと言うのは、上記のような考えが取りこぼしてしまったとても素朴な事柄のうちにある。それは、我々をすぼまった思考へと誘うべくきゅっと締まった肩の、その力を抜いた時に初めて見えてくるものだ。

 先日読書ノートをつけたことを書いた。そしてそこに、自分が発見したと信じたもののことを書いた。物語の主軸とディテールの関係がどうとか、面白いプロットのテンプレはどういうものだとか。けれども、それらは発見というにはあまりにお粗末な代物だった。そのことを無意識のうちに感じ取っていたがために、僕は却ってお粗末な思考の残骸に縋りついたのかもしれない。

 その時振り返っていたのは、ある知り合いの方から借りた、祭りをテーマにした短編集だったのだけれど、僕がこの短編集から得た一番大きな発見は“祭りが嫌いな人もいる”ということだった。僕は雰囲気に流されやすい人間で、祭りの日になれば自然にテンションが上がり、内でくすぶっていたエネルギーを発散させる。けれども、祭りが持っているその熱量を嫌う人や苦手とする人も世の中にはいる。考えてみれば、中高時代、文化祭や体育祭をイヤイヤこなしていたヤツは少なくなかったし、大学時代について言えば、僕だって、自分の大学も含めおよそ世の中で行われている学祭というものを疎んじていた。それなのに、祭りが嫌いな人もいるという、単純極まりない事実に、僕は全く気付かないでいた。そして、単純すぎるがゆえに、一度気付いてしまうと、それはとてもちゃんとした形で、自分の内に根付いたように思えた。

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 自分が本当に思っていることを表現するのも、これまた難しいことだ。これが難しいのは、自分が本当は何を思っているのかに気付くこと自体が難しいからだ。僕らはその時々の身の回りの出来事や状況に左右されて、早まった決断をしてしまうことがある。けれども、そこで考えていることというのは、本心とあべこべだったりするのだ。

 疲れてきたので詳しくは書かないが、僕はここ数日、この早とちりにより随分苦しめられてきた。冷静になったと思っても、また気が立ってしまったり、つまらない言動に走ったりしてしまった。その度になんだかイヤな気分になった。けれども、そこで終わっていけなかった。じゃあどうしたかったのか。大切なのはそこだった。そして、それを考え、己の本心に気付くと、やるべきことは自ずと見える気がした。

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 ここ数日、何度も気の滅入りを感じながら、僕はいつになく真面目なことを考えていた。もちろん、それは立派な事でもなんでもない。ただ、そういう時も、人には必要というだけのことだ。