前回に引き続き、1月5日に行いました、彩ふ読書会哲学カフェ研究会、改め「イロソフィア」が主催した哲学カフェの模様を振り返りたいと思います。今回のテーマは、「あぁ、忙しい!」私たちはどうして忙しいのか。その理由を探るべく、2時間たっぷり話し合いました。会場は、彩ふ読書会の大阪会場でもあるレンタルスペース・オックスフォードクラブ。参加メンバーは男性6名・女性5名の計11名でした。

 振り返りの前編は下記のリンクからご覧ください。もっとも、今回は全編の内容を踏まえつつ話を進めたいと思っていますので、以下に要点を抜粋しておこうと思います。

 ▶いま、僕らが抱えている忙しさの問題とは、やることが多すぎて、あるいは絶えず何かやっていなきゃいけないような気がして、心の余裕がなくなっているというものである。

 ▶情報社会の進展により、スキマ時間もスマホを通じて情報に触れたり誰かとつながったりすることが可能になった。これにより、絶えず何かできる状態が実現したのが、忙しさの理由の1つとして考えられる。

 ▶ただし、日本にいると海外にいるときよりもせわしないと感じることが多いという意見もあった。情報化の進展具合が同じであっても、心の余裕の有無は国や地域によって異なる可能性がある。であるならば、時代の変化とは別に忙しさの理由を探る必要があるのではないか。

(詳しくはこちらから)


 この最後の問いを念頭に置きつつ、後編では〈なぜ私たちは忙しくなってしまうのか〉について、更に考えを進めていくことにしましょう。

◆私たちは、忙しくなることを欲している

 私たちは、実は自ら進んで忙しくなろうとしているのではないか。そんな意見を紹介するところから、後編を書き起こすことにしましょう。思いがけない感じがしますが、哲学カフェの中では意外にも何度かこのような話が登場しました。

 例えば、ある参加者はワーカホリック(仕事中毒)の例を挙げながら、自分の能力を発揮する感覚は楽しいものであり、忙しさは時に快楽につながるという話をしていました。もちろん、働き過ぎることが心身を蝕むことにつながるのは問題ですが、ここでは、やることがあり、その中で自分の能力や才能を活かせるのは楽しいということ、そして、その楽しさを求めて、僕らは進んで忙しい環境に身を置きうるということの方を見ておきましょう。

 また、先に触れたスマホの話に絡めて、情報から刺激を得るというのは魅力的なエンタメだという話もありました。暇な時間にもスマホをいじり、絶えず情報に接することにより、我々は忙しくなっているのだというのが前編での議論でしたが、この話を踏まえると、我々はただ情報技術に踊らされているのではなく、むしろ情報化の進展した世界で積極的に踊っているのだ、ということになりそうです。

 これらの話を聞いていると、仕事であれ娯楽であれ、刺激的な環境に身を置くことは楽しいことのように思えます。そして、その快楽を求める結果、僕らは進んで忙しくなっていくのだということが、ここから伺えます。

 思い起こせば、僕自身、去年はまさにそんな1年だったような気がします。仕事だけでなく、趣味の世界でも未だかつてないほど予定に満ちた日々を送り、楽しかった半面、だんだん時間に追われるようになり気持ちがいっぱいいっぱいになってしまっていました。さらに言えば、一目散に駆け抜けてしまったがために、結局この1年はなんだったのだろう、という虚しい気分を味わうことさえありました。「心」を「亡」くすと書いて「忙しい」と読むという話を前編でも紹介しましたが、ひたすら楽しいことをしていても、僕らは心をなくしてしまうのかもしれません。何はともあれ、楽しさを追い求める余り、時に余裕を失ったり、虚しさに囚われたりするという厄介な性を、我々は負っているようです。

 「忙しいというのは、自分の欲からくる」そう喝破した参加者がおりました。金が欲しい、楽しみたい、誰かとつながりたい。そんな様々な欲の果てに、僕らは忙しくなっていくのです。この発言を引き継ぐようにして、「時間は有限だけれど、欲は無限」とおっしゃった参加者もいました。無限の欲を限られた時間の中に詰め込もうとするから無理が祟る。本当に厄介な話です。

◆忙しさのウラにある不安

 前節では、僕らは進んで忙しくなろうとしているのだという話を紹介しました。しかし、もちろんこれは事の一面に過ぎません。不安に駆られ、やむにやまれず忙しくなっていくことも、往々にしてあるということを、ここでは見ていきましょう。

 「ヒマにしていると勿体ないと感じる」そんな話がありました。確かに、何もせずボーッとしていると、時間を無駄にしているような気がして焦りを覚えることがあります。本当は何もしない時間も大切なはずなのですが、僕らはしばしば、その時間を放棄し、やるべきことを見つけようと躍起になるのです。

 また、「人からヒマそうに見られるのは気が引ける」という話もありました。これも頷ける気がします。何もしないでいると、つまらないヤツだと思われるんじゃないかと心配になってくる。それで何とかして予定を入れようとしてしまうのです。

 「みんな何かやっているのに、自分だけ何もやっていないのは怖い」という意見もありました。誰もがボーッと過ごしていれば、自分がボーっとしていても、それほど焦りを覚えることはない。けれども、誰かがどこかで今この瞬間も、勉強して自分を高めたり、イベントに参加して楽しい時間を過ごしたりしているかもしれない。そう思うと、何もしていない自分だけ周りから取り残されてしまうような気分になってくるのです。この不安もまた、自ら何かをやろうとする理由として見逃せないものでしょう。

 これらの話からは、僕らが不安から忙しさを求めてしまう姿が浮かび上がってくるように思います。先にみたように、楽しさを追求して忙しくなる中でも、僕らは心身を壊してしまう可能性があります。まして、不安という負の感情に突き動かされ、忙しくしようと躍起になるところから、健康的な生活が生まれて来ようとは思われません。忙しくしていないと不安だという思いに何とか切り込んでいけないものか。そう思いたくなるのも自然なことでしょう。

 ここで1つ注目したいのは、他人の目を気にしたり、他人と自分を比較したりするところから、ヒマな自分に対する不安が生まれがちだということです。この問題について、更に突っ込んで考えてみましょう。

◆〈平均的人間〉への強迫、そして〈平均+αの人間〉への競争

 「今の社会で一番忙しいのは、子持ちのお母さんですよね」哲学カフェの後半でそんな話が出てきました。「育児マニュアルが増えて、それらがすぐに調べられるようになったことで、ますます首を絞められているのかもしれませんね」「子どもが悪い育ち方をすると母親の責任が問われますから、手が抜けないというのもありそうですね」そんなやり取りを重ねていく中で、ある参加者から次のような発言がありました。

「近所の〇〇ちゃんはできるのに自分の子はできないことがあると、“なんでできないの”と叱ってできるようにしていく。そのうえで、みんなより1つでも多くのことができるように子どもを育てようとするのが親じゃないですかね。習い事に通わせるとかまさにそうですけど」

 この発言の直後、僕はすぐさま、「みんなより1つでも多くのことができる」という言葉の意味を探るべく質問を挟みます。そして見えてきたのは次のことでした。すなわち、その方が言おうとしていたのは、子育てにおいては、まず子どもを同じ共通のベースまで育てたうえで、周りの子との違いを生むべく、ベース+αの何かができるようにしていく競争が発生しているのではないか、ということです。

 これは学校教育をイメージすればわかりやすいと思うのですが、成長の過程で僕らは、できるようになるべき事柄の共通のパッケージを見せられ、まずそれができるか/できないかでふるいにかけられます。誰もがまず、この共通の事柄ができるようになる地平へ向けて駆り立てられていくのです。それはあたかも、〈平均的人間〉になることを、人生の入口で求められているようなものです。その上さらに、平均に埋没しないように、そこから一歩抜き出るための競争へと、僕らは駆り立てられる。この二重の駆り立ての中に僕らは立たされているのではないか。

 ここまでは育児との関連の中で、平均になるように求められること、そして、平均+αの要素を身に付けるための競争が展開することをみてきました。しかし、これらの駆り立ては子ども時代に特有のことではないと僕は思います。いくつになっても、僕らはまずできるようになるべきことのパッケージを見せられ、まずそれに追い付き、さらにそこから一歩抜きん出ることを求められる。数多のマナーを叩き込み、“一人前の社会人”になったところで、+αの趣味を尋ねられるといったようにです。

 ところで、僕は先ほど〈平均的人間〉という言葉を使いました。しかし、これは正確な表現ではないのかもしれません。実際に僕らが求められている水準は、〈平均〉ではなく、むしろ〈理想的人間〉というべきものではないでしょうか。先のマナー1つとってもそうですが、何でもできるように求められていく(それができないと「失礼」とみなされる)。つまり、そもそも達成すべき共通のハードルが高すぎるのです。それでもできないと困るので、多かれ少なかれみんな必死にしがみついていくのですが、それには相当の労力がかかります。

 〈平均〉の名を借りた〈理想〉を要求するまなざし。それを誰もが持っていて、他人を品定めするために、また、他人と比較して自分はどういう人間かを計測するために日々駆使している。さらに、僕らは、その〈理想〉のさらに上を目指して、他人にはないものを身につけるべく競争を展開する。これがせわしなくてなんだろうという気がします。

 日本に帰ってくるとせわしなくなると感じるという友人が、何かのタイミングでぽつりと呟いていました。「日本だと、趣味1つ取っても詳しいことが求められるからしんどい。大事なのは自分がいま何に興味をもって、どんなことをしてるかだけのはずなのに。始めたばかりのことに詳しいわけないじゃない」何事にもおいても高水準でできることが求められ、誰もがその水準に縛られている。これが僕らの余裕のなさの背景にある事態なのかもしれません。

◆我慢比べの世界

 誰もがあらゆる物事について高い水準にあることを要求され、その水準との差分の中で苦しんでいる。これが僕らの心を摩滅させているものの正体ではないかというのが、上段で見てきたことでした。ここで更に、僕らの心がすり減ってしまう原因を1つ想像してみたいと思います。端的に言えば、ポイントは「我慢」です。

 高水準の人間へと駆り立てるまなざしの交錯に、僕らはしんどさを覚えながら、それでもこの世界で生きていくために、ある程度その水準を引き受けて生きようとする。それには相当の我慢が必要なはずです。僕らは誰しも、程度の多少はあれ我慢して生きている。すると、同じように我慢しないで生きている人間を見ると、やれ怠惰だ、やれ甘えだといって糾弾したくなるのではないでしょうか。自分だけがイヤな目に遭うのは割が合わないから、誰もが同じように苦しむことを、否が応にも求めてしまう。こうして、他の人にも同じように我慢することを強いてしまうのではないか。そんな気がするのです。

 日本人は時間に正確だとしばしば言われます。だから、時間にルーズな人がいると許せなくなる。自分はきっちり時間を守ったのに、どうしてあなたは違うんだというように。また、無職の人に対するバッシングがネットなどでしばしば見受けられますが、これも、働かざる者食うべからずという観念の皮を剥いていけば、結局のところ、自分はつらいことがあっても働いているのに、どうしてアイツは働いていないんだ、という感情に行き着くような気がします。自分は頑張って色んなことをやっている。しんどいことやトラブルがあっても、時間は守るし、仕事をする。もしかしたら、それは楽しいことではないかもしれない(というより、自分の仕事に強い誇りを持っているという人に、僕はあまり出会った気がしないし、電車やバスに乗り合わせたサラリーマン風の人を見ていて、ああこの人は楽しそうだと思うことはあまりない)。それでも自分はやっている。そこから、やらざる者を非難しようという気持ちは生まれてくるのではないでしょうか。

 僕らの周りにはまだまだ、我慢や忍耐を美徳とする考え方が根強くあります。もちろん、人生の中でそれらが必要な場面が出てくることもあるでしょう。しかし、過度な我慢はそれぞれが余裕を失い、不寛容になり、互いの余裕を奪い合うもとになりかねない。この悪循環を断ち切るところから、忙しさへの対処法は生まれてくるのではないか。そういう風に僕は思います。

◆まとめ

 そろそろ全体のまとめに入ることにしましょう。今回の哲学カフェでは〈私たちはどうして忙しいのか?〉という問いが大きなテーマになっていました。やることが多すぎて、心の余裕さえなくなってしまう、その背景には何があるのでしょうか。最初に話題になったのは、情報社会の進展により、スキマ時間にできることが増えたことでした。しかし、情報化の進展度合が同じであっても、国や地域によって忙しさの程度は違うのではないかという話が出てきたことにより、流れは変わっていきます。技術をどのように活用するかというのは、使い手側の問題に他ならない。スキマ時間を埋めてしまおうとする理由は、僕らの側にも存在するはずなのです。

 更に話を進める中で見えてきたのは、次のようなことでした。まず、僕らには、刺激的で楽しい生活を求める結果、やることを増やそうとする傾向があるということ。快楽への欲求が、自分自身を進んで忙しい状況へ追いやってしまうことがここから伺えます。一方で、僕らは必ずしも進んで忙しくなろうとしているわけではない、むしろ不安に駆られながら、忙しくしなきゃと思いがちなのだということも、やり取りの中から見えてきました。何もせずボーッとしていると、時間を無駄にしている気がする、やることのないツマラナイ奴だと思われる、周りに取り残される気がする——そんな数多の不安に駆り立てられて、僕らはやるべきことを増やしているのかもしれません。

 さらに、みんなに置いて行かれるのが不安という気持ちの背景には、僕らを〈平均的人間〉へと駆り立てる空気があるのではないか、ということにも話が及びました。現実には、それは〈平均〉という名を借りた〈理想像〉であること、その高いハードルを突破し、さらにその先で、〈平均〉に埋没せず個性を発揮するための競争が展開することなども、話の中から見えてきました。

 ここからは僕の意見になりますが、人としてまず達成すべき共通事項に向けて駆り立てられ、さらにその先で個性を発揮するための競争を強いられるというのは、相当程度苦しいことだろうと思います。その中で、僕らは程度の差こそあれ、我慢している。そうなると、自分と同程度の我慢をつい他人にも求めるようになるのではないか。忍耐・我慢が不寛容につながり、ちゃんとしなさいの大合唱の中で、僕らのやるべきことは増え、そして、余裕は失われていく。そんなことが起きているように、僕には思えます。

 改めて書き出してみると、まだまだ考えの足りないところもあるなあと感じたので、今後も考えを深める必要はありそうですが、とりあえず、今回の哲学カフェを通じて僕が考えたのは以上のようなことでした。

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 というわけで、哲学カフェ「あぁ、忙しい!」の振り返りを締めくくろうと思います。今回は内容が多岐にわたり、とても面白い回になりました。これに負けず劣らず面白い議論を、たくさん積み重ねていきたいと思います……なあんて書いている間に、また別の哲学カフェにも参加したんですけどね。その話はまたいつか。

 今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。