2020年の日記にも、早くも活動レポートが登場です。

 15日、新年最初の日曜日、今年最初の彩ふ読書会が大阪で開催されました。そして、その夕方には、読書会の会場であるレンタルスペース・オックスフォードクラブにおいて、彩ふ読書会哲学カフェ研究会、改め“イロソフィア”の主催により、今年最初の哲学カフェが行われました。僕は読書会には参加しなかったのですが、哲学カフェには進行役の立場で参加しました。というわけで、今回より、この哲学カフェの振り返りをしたためていこうと思います。

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 その前に、哲学カフェとイロソフィアについてザッと説明しておきます(以前の活動レポートでもだいたい同じようなことを書いているので、読み飽きている人はすっ飛ばしてください)。

 哲学カフェとは、テーマを決めてみんなで考える集まりのことです。「友だち」「お金」「嫉妬」「知らんけど」など、テーマを1つ決めて参加者同士で話し合い、考えを広めたり深めたりします。哲学カフェにおいては、正しい考えと間違った考えを区別したり、1つの結論を出すべく考えをまとめたりするようなことはありません。出てきた意見に耳を傾け、そこから考えを進めることを大切にしています。「哲学カフェは突然始まり突然終わる」ということばしばしば言われますが(僕も説明の時によくこの言葉を借ります)、実際参加してみると、めいっぱい色んな意見を出し合い、時間が来れば文字通り“お開き”になることばかりです。言い換えれば、そうしたオープンな雰囲気の中で、面白いと思った話や気になる話を見つけ出し、自分の中で考えるのが哲学カフェだということもできるでしょう。したがって、哲学カフェでは様々な意見が次々に出てきますが、「色んな意見の人がいて面白かった」で終わらせることなく、そこから自分なりに考えることもまた大切だといえます。

 イロソフィアは、そんな哲学カフェに興味を持った彩ふ読書会のメンバーによって作られました。彩ふ読書会は文字通り読書会ですが、参加メンバーに多趣味な人が多かったこともあり、1年少し前から読書会以外の活動として“ブカツ”というものを行っています。イロソフィアも元々は「哲学カフェ研究会」という名前のブカツの1つで、読書会メンバーを対象にお手製哲学カフェを楽しむ集まりでした。しかし、哲学カフェ研究会の発起人であるちくわ会長は、そのスタイルに甘んじることなく、読書会内外から参加者を広く募って哲学カフェをやりたいという夢を強くお持ちでした。

 発足から約1年が経った昨年11月、哲学カフェ研究会は遂に、読書会以外の方も交えた形での哲学カフェを実現します。その時は京都会場のヒミツキチ(読書会後のフリータイム枠)を借り、「自信はどうやったらつくの?」というテーマで2時間の哲学カフェを行いました(その際のレポートは次の通りです)。これを機に、哲学カフェ研究会は「イロソフィア」と名を改めます。これは「彩ふ読書会」の「いろ」と、哲学を意味する「フィロソフィア」とを組み合わせた言葉で、ちくわ会長の案に部員が賛成する形で決定しました。

 この第1回イロソフィアを経て、ちくわ会長はまさに自信をつけたのでしょう。「哲学カフェはとにかく数をこなしましょう!」と言うが早いか、今年の奇数月に関西の彩ふ読書会会場を順に巡りながら哲学カフェを開催する計画をどんどん進めていきました。現在イロソフィアの部長は僕なのですが、進行役というオイシイところだけひょいとつまみ残りはグウタラしている僕を尻目に、CEOちくわ氏は驚きの速さで年間計画を立てる。そのスピードにやっとこさ追い付いたと思った時には、年が明け、次のイロソフィアの日が来ていたのでありました。

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 15日のイロソフィアの振り返りに入るとしましょう。今回のテーマは「あぁ、忙しい!」でした。なんとなくキャッチーな言葉にしようとした結果、変わったテーマになってしまいましたが、詰まるところ、われわれはどうして「忙しい」と感じているのかについて考えるのが、この日の大きなポイントになりました。ちなみに、テーマの発案者はちくわ会長で、そこにひねりを加えたのが僕でした。

 会は1610分ごろに始まり、途中10分程度の休憩を挟みつつ1815分過ぎまで続きました。参加者は全部で11名。男性6名、女性5名という構成でした。なお、会場にはこの他に読書会メンバーが2名残っており、哲学カフェには参加しなかったものの、至近距離でラジオを聴くように我々のやり取りを楽しんでいたようです。

 それでは、「忙しい」を巡りどんな話が出たのか、見ていくことにしましょう。ここから先は、僕にとって印象深かった話を拾いあげる形で振り返りを進めていこうと思います。

◆「忙しい」の種類と、いま問題になっていること

 僕が進行役を務める哲学カフェでは、まずテーマの発案者に話を振ることが殆どです。今回も、最初はちくわ会長に話を振り、「忙しい」というテーマを選んだ理由などについて話していただきました。「最近みんな忙しくなっていると思うんですけど、その理由はなんだろう、っていうのが気になってるんですね。部屋でじっとしていられないというか、忙しくしていなきゃいけないのかな? という感じがするんですけど、それはどうしてなんだろうっていうことですね」ちくわさんはそのようなことを話しておられました。

 先に述べたように、この〈どうして最近みんな忙しいのか?〉というのが、今回の哲学カフェを貫く大きな問いになります。が、いきなりこの問いに向き合う前に、ここで問題になっている「忙しい」というのがどういう状況なのかについて、哲学カフェで出た話を参考にしつつ整理してみようと思います。

 ある参加者から、「忙しい」は物理的な部分と精神的な部分に分けて考えることができるという話がありました。“物理的に忙しい”というのは、スケジュール帳が予定でびっしりと埋まっているように、やることが沢山ある状態のことをいいます。他方、“精神的に忙しい”というのは、心の余裕のない状態のことを指しています。「忙しい」は「心」を「亡」くすと書くとしばしば言われますが、精神的に忙しいというのは、まさに心をなくしてしまっている状態のことです。

 〈どうして最近みんな忙しいのか?〉と問う際、特に問題になっているのは、心に余裕がなくなること、つまり精神的に忙しくなることの方だと僕は思います。この精神的な忙しさというのは、必ずしも物理的な予定の多さに比例するわけではありません。先日段取り力に関する自己啓発本を読んでいたのですが、そこに、スケジュールを埋めるほど余裕が生まれるということが書いてありました。予定が沢山あったとしても、いつ何をやる必要があるか、そして、いつどこに空きがあるかがわかれば、心にはむしろ余裕が生まれてくるということが、ここから伺えます。ですから、問題の核心は、やることが多いということではなく、心に余裕がなくなっていることの方だと、僕は思います。

 そうは言うものの、現実に起きているのは、やることが多すぎて、あるいは絶えず何かやっていなきゃいけないような気になって、心の余裕を失うという事態でしょう。では、なぜそのような事態が生まれてしまっているのでしょうか。

◆僕らが「忙しい」のは、情報社会化が原因!?

 やることが多すぎて、絶えず何かをやっていなきゃいけない気がして、心の余裕を失っていく。そのような事態を象徴する1つの現象として、「ヒマな時間にスマホを見てしまう」ことが挙げられました。空き時間があっても、それは余裕を生み出す時間にはならず、情報の波の中に自らを叩き込む時間となる。確かにそれは余裕をなくす大きな理由になるように思えます。

 この話に限らず、哲学カフェの中では、情報社会の進展と忙しさを関連付けた話が沢山出されました。僕らは絶えず情報に晒されており、心を休めるヒマがない。ニュースサイトやツイッターで新たな情報に触れたり、メールやラインの返信にあくせくしたり、そうしたことが、新たな“やること”として、僕らの日常に定着してしまっている。そのことが、余裕を失い、常に忙しい気になってしまう理由ではないかという話は、かなりの説得力をもって響いてきました。

 「技術の発達のおかげで、スキマ時間にも色んなことができるようになってしまった。ついついできるからこそ、情報を見てしまうし、わからないことを調べてしまう。誰かとつながってしまう。できるからこそ、やりたいことも増える。今までやっていたことをやめられないまま、新しくやりたいことが増えてくる。その結果、僕らは忙しくなってしまってるんじゃないでしょうか」そんな話がありました。技術が、社会が、開いた可能性に乗っかって、僕らはやることを増やし、そして忙しくなっていったのだ——正直な話、僕は一度、これで答えは出たと思いました。僕らが忙しくなっていることと、情報社会の進展とは、深い関わりがある。時代の変化の中で、僕らは忙しくなっているのだ、と。

 ところが、これだけではどうにも説明のつかない話が出てきます。

◆「日本に帰ってくると、せわしないと感じる」

 今回の哲学カフェの参加者の中に、普段は海外に暮らしているという方がおりました——なぁんてシラジラしい書き方をするとムズムズするのでちゃんと書いておきますが、その人は僕の友人で、かねてより哲学カフェに興味を持っていたので、帰国しているタイミングを見計らって参加しないかと声を掛けたのでした。忙しさと情報社会とを関連づける話が続き、収まりを見せた頃になって、友人は不意に口を開きました。

「私いま海外に住んでるんですけど、日本に帰ってくるたびにせわしないなぁと感じるんです」

 友人が暮らしている場所は、日本と同じように情報社会化が進みつつある地域のはずです(勝手な想像だけれど、きっとそんなに間違っていない)。少なくとも、パソコンやスマホがあり、常時情報が見られ誰かとつながりうる環境にあることは間違いありません。であるならば、情報化の進展が同じ程度であっても、国や地域によって忙しいという感覚には差が出るということになります。国民性という言葉に落とし込むのはなるべく避けたいと思うものの、知らず知らずのうちに抱いてしまっているものの見方や考え方が、とりわけ僕らを忙しいという気持ちに駆り立てているのではないかという気がしてなりません。

 では、僕らを忙しい方へと駆り立てるものはどこにあるのか。

 続きは次回お送りしたいと思います。

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 ここまでみてきたように、今回の哲学カフェでは、僕らが忙しいと感じている理由を、情報化の進展や、国や地域の差による問題といった、社会的な側面と結びつけて考えようという意見が沢山出ました。それは、これまで参加した哲学カフェではあまり経験してこなかった展開で、とても新鮮であり、かつ刺激的でした。

 以上でみてきたことを踏まえつつ、次の記事では、自らを忙しい状態に置いてしまう理由に心の動きの面からアプローチしていこうと思います。できることなら、最終的には、個々人の内と外にある要因を繋ぎ合わせ、忙しいと感じる理由について考えを深めていきたいと思います。皆さま、次回もどうぞご期待ください。