皆さま、ご無沙汰しております。ひじきでございます。約1週間、ブログを放置しておりましたが、ここで久しぶりに記事を更新することにいたしましょう。

 1215日・日曜日、京都の北山にあるSAKURA CAFÉにて、今月の京都・彩ふ読書会が開催されました。例によって、午前の部・午後の部の二部構成で読書会は進行しました。今回は趣向を変えて、午前の部が「課題本読書会」、午後の部が「推し本披露会」という、普段と逆の順序での進行となりました。

 そして、午後の部が終わった後、夕方16時半からは、彩ふ読書会京都会場の1周年を記念する特別イベントが開催されました。30人余りの方が集まり、宅配の食事を摂り、買ってきたお酒を飲みながら、催し物に興じ、トークに花咲かせていて、まさに大盛況という言葉がぴったりの会でした。

 というわけで、読書会、そして1周年イベントの模様を、これから順番にお伝えしていきたいと思います。まずこの記事では、午前の部=課題本読書会の振り返りをお送りしましょう。

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 「課題本読書会」とは、その名の通り、決められた課題本を予め読んできて、感想や意見を話し合う会です。今回は25名の方が参加し、3つのグループに分かれて話し合いをお行いました。また、他のグループで出た意見も聞けるよう、グループ代表1名による全体発表の時間も設けられていました。会は1040分に始まり、総合司会から会の進め方や注意事項についての説明を経て、各グループでの話し合いに移りました。そして、12時頃に全体発表に移り、最後に総合司会から今後の活動予定についての説明があって、終了、という流れでした。

 今回の課題本は、遠藤周作の小説『沈黙』でした。17世紀、キリスト教が禁止され、隠れキリシタンが迫害に遭っていた長崎の地。棄教したと噂の恩師を探しにやって来たポルトガルの宣教師・ロドリゴが、日本におけるキリスト教を巡る現実の過酷さ、あまりにもむごたらしい拷問・極刑の有様を目の当たりにし、また自身も迫害され拷問を受け、その果てに“転向”するまでを描いた作品です。タイトルの「沈黙」は、神の沈黙を指しています。信者が、そして自分自身が、これほど過酷な状況に置かれているにもかかわらず、なぜ神は「沈黙」しているのか。その問いに苛まれた一人の宣教師の姿を描くことによって、信仰とは何か、人間の生き様とはどのようなものかといった問いを突き付ける物語、『沈黙』とはそのような小説だと言うこともできるでしょう。

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 それでは、『沈黙』を巡ってどのような話が展開したのか、ご紹介することにしましょう。僕が参加したグループには7名の参加者がおりました。そのうちお一人は初参加で、あとの方は既に何度も参加されている方でした。そして、このグループには、彩ふ読書会において“遠藤周作の人”の通り名をもつ玄人がいらっしゃいました。この方が色々と話をしてくださったお陰で、作品についてより深く理解することができ、たいへん有意義な話し合いになったと、僕は感じています。

 話し合ったことを全て書き出すと大変なことになってしまいますので、以下では2つのトピックについて特に詳しく見ることにし、それ以外の話については簡単に紹介する形で話を進めたいと思います。

◆「暗い」「重い」「胸くそ悪い」~そこから見える人間の〈悪〉~

 読書会に参加された方の中には、『沈黙』という題名は知っていたけれど読むのは初めてだったという方も少なくありませんでした。そうした方々がいるほど、素朴かつ率直な意見が出やすくなり、話し合いが盛り上がることがしばしばあります。今回の読書会はまさにそのような回で、なおかつ、そこに玄人目線が加わることによって、素朴な感想がその奥に隠された重要なテーマに昇華されていくまでを短時間に経験できる貴重な回となりました。というわけで、まずはその話をしましょう。

 話し合いの中でよく出た感想の1つに、『沈黙』という作品の暗さや重さを指摘するものがありました。「初めて読んだんですけど、暗い話で読むのがしんどかった」(参加4回目の男性)、「重くてしんどいと思った」(参加10回目の男性)、「端的に言って、胸くそ悪かったです」(京都会場副リーダーのゆうさん)そんな声が次々に挙がりました。『沈黙』についての最も素朴で率直な感想は、きっとこういうものになるのだろうと僕は思います。かくいう僕自身、3年ほど前に初めて読んだ時には、話があまりに重すぎて全然好きになれなかったものでした。

 既に書いた通り、『沈黙』の舞台はキリスト教徒が迫害され拷問を受けている江戸時代初期の長崎なわけですが、この作品では拷問や処刑の様子がかなり克明に描かれています。海中に立てた柱に人を括りつけ、波と干満差による体力の消耗を利用して緩やかに人を処刑する水磔の描写。身体を簀巻きにされ海に沈められる信者の描写。うっ血を防ぐため耳元にわざと傷をつけたうえで、自ら掘った穴の中へ逆さ吊りにされる穴吊りの刑の描写。残酷な刑罰の描写を見せられ読者はただでさえ参ってしまうのですが、さらに苦しいのは、それを傍観者の視点で眺めなければならないということです。宣教師ロドリゴはこれらの拷問を直接受けているわけではなく、これらの拷問・処刑を受ける人びとの様子をなす術もなく見させられている。その上で、「お前が転ばぬから死ぬ者が増えるのだ」「お前は何もせず自分が助かることばかり考えているではないか」という言葉を浴びせられているのです。そのロドリゴと同じ視点に読者は立たされる。物語世界を本の対岸から傍観することしかできない読者を、それ故に追い詰めるのが、『沈黙』という小説の最も残忍な特徴と言えるかもしれません。

「どうしてこんなものを長々と描写する必要があるのか」ある参加者の口から、堪りかねたかのようにそんな質問が出ました。確かに、それはどうしてだったのでしょうか。

 この問いを解く鍵が、“遠藤周作の人”(以下、玄人氏)のコメントの中にあったと、僕は考えています。話し合いの終盤で、この方はこう教えてくださいました。

「若い頃の遠藤周作の作品には、人間は基本的に悪だという考え方が強く表れているんです」

 身の毛もよだつような拷問手段を考え出す。苦しむ者を前にただその様を眺め続ける。苦しむ者を追い詰めるべくさらに非難を浴びせかける。そんな様々な人間の悪、残忍さを描き出すこと。それが、『沈黙』という作品の1つのテーマだったのではないかという気が僕はしています。

 さらに言えば、棄教という選択を取るような、結果的に己の信念を曲げる者についても、遠藤は批判の対象にしていたようです。玄人氏によれば、遠藤自身、ロドリゴは卑怯者だと述べているといいます。自分の考えを曲げてしまう者、折れやすい人間への批判は、僕自身、『海と毒薬』など他の遠藤作品を読んでいて感じていたことでもありました。ここにも、人間の悪に対し容赦ない目を向けようという意志が感じられると、僕は思います。

 ともあれ、ここでは、『沈黙』という作品についての「暗い」「重い」といった感想が、〈人間の悪〉というテーマへと昇華されていくプロセスを追ってきました。このように、様々な感想・意見が混交していく中で、率直な感想がだんだん広がりや深みをもちうるというのは、大勢で考えること醍醐味の1つだと、僕は思っています。

◆信仰と教義の葛藤~僕らが求めるものは何か?

 話し合いで繰り返し浮上したテーマで特に重要だと感じたものがもう1つありました。それは、信仰と教義の葛藤というテーマです。ここでは、読書会での話の展開をなぞりながら、この問題に迫っていくことにしようと思います。

 『沈黙』について、何人かの参加者が同じように口にした感想がありました。それは、「自分ならすぐに踏絵を踏んだにちがいない」というものです。形だけでもいいから、踏絵を踏んで迫害を逃れる道を選ぶことに、僕らはためらいがない。一方、『沈黙』に登場する殉教者たちは、形だけの踏絵さえ頑なに拒み続けていました。そこから、彼らがそれほど強い信仰心を抱いていたのはどうしてなのか、という疑問が浮かんできました。

 この問いに対する答えは、文中に示されています。ロドリゴが出会った信徒たちは、皆「貧しい百姓たち」で、なおかつ「苛酷な税」に苦しめられており、「牛馬のように働き、牛馬のように死んでいった」。そんな彼らを初めて「人間として取り扱ってくれ」たのが、キリスト教の教えであり、また、布教に来た司祭だったのです(p.45、新潮文庫改版)。戦国時代が明けて間もない混乱した世の中で、身分秩序のために軽んじられた彼らの生は、社会の既存の枠組みでは全うに掬い上げられない。だからこそ、外部から来た教えが心の拠り所となったのだ。——先述の問いへの回答はこれで完結したとみて間違いないでしょう。

 しかし、ここに別の問題が生じます。それは、彼らが苦しい生活からの救いを求めてすがったキリスト教と、宣教師が布教を試みようとしたキリスト教とは、食い違っているという問題です。「ほんと、この世は苦患ばかりじゃけねえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」と言う百姓に向かって、ロドリコが「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言おうとして口を噤む場面(p.129、同上)などに、この問題は端的に表れています。節の冒頭で指摘した〈信仰と教義の葛藤〉とは、このような事態を意味する言葉として使ったものです。

 率直な感想を述べれば、苦しい生活からの脱出や救いを求めキリスト教にすがる信徒たちの姿の方が、人間として自然な感情の在り様であるように、僕には思えます。そして、それを夢見がちで浅薄な見方だと指弾する教義は、堅くて理屈っぽく、人間存在そのものから離れてしまっているような気がします。しかし、教義は教義であり、それが正統とされるものなのだろうということも、理屈ではわかる。それだけに、両者の葛藤をどのように考えればいいのかということが、僕にとって重大な問題として浮かび上がってきました。

 この問いを解決する導き手を差し伸べてくださったのは、やはり玄人氏でした。玄人氏によれば、遠藤周作は信仰を個人的なものとして考えるべきだと主張していたそうです。信仰とは、個々人がその経験などに基づき、直接的に見出すものである。その主張は『沈黙』にもみられるといいます。つまり、『沈黙』においては、個々人が見出す信仰により比重が置かれているということなのでしょう。

 それは、ロドリゴが苦悶の末に踏絵を踏むところからもわかります。神の沈黙に耐え兼ねた彼は、最終的に、数多の奇跡を起こし劇的な人生を送ったキリストではなく、人々と共に苦しみ、救いの手を差し出すキリストを見出す。ここに彼の信仰の誕生が見られるのだと指摘した参加者も2名ほどいらっしゃいました。

 以上で見てきたことを踏まえると、信仰心についての僕らの当初の疑問が次のように変容するのではないかと、僕は思います。すなわち、僕らは一人ひとり信仰の問題をどのように考えればよいのかという自分自身への問いがここから生まれてくるのではないかと思うのです。ここでいう信仰の問題というのをさらに言い換えると、僕らは何をいま生きている自らの拠り所にしていくのかという問いになると僕は思っています。その拠り所は、僕らにとってはキリスト教ではないのでしょう(だからこそ、“信心深い”登場人物たちの行動に僕らは疑問を抱いたのです)。しかし、キリスト教が拠り所になりえなかったとしても、僕らには別の拠り所がきっと必要なのだと僕は思います。以前の記事で取り上げた話ですが、人間は自分の意志で生まれてくるわけではない。明確な存在理由を欠いている我々は、その埋め合わせを求めて生きているにちがいないのです。

 この節では、登場人物たちの信仰心の強さに関する疑問から話をはじめ、信仰と教義の葛藤という問題を経由しながら、我々の“信仰”の問題、すなわち、いま・ここに生きている自分たちの生の拠り所を巡る問いかけを導き出すというところまで、話を一気に展開してきました。終盤の論の展開は僕の解釈が過剰に入っていますが、信仰と教義の葛藤を巡る話までは、読書会の中で実際に出た話をなぞりながら構成したつもりです。

◆その他の話

 さて、ここでは、今まで展開してきた話ほど長くは書けないけれど、話し合いで出た意見で印象的だったものを2つほど取り上げたいと思います。

 〇キチジローへの共感——『沈黙』の登場人物の一人に、キチジローという男がいます。彼は元々長崎の出身で、キリシタンだった人物ですが、迫害を恐れ踏絵を踏み、逃亡。その後マカオに滞在していたところ、ロドリゴたちの案内役として雇われ、物語に深く関わるようになります。卑屈な笑みを浮かべてちょこちょこ動き回るキチジローは、ロドリゴを隠れキリシタンの集落へ連れて行くと英雄的に得意がり、しかし迫害が強化されると再び踏絵を踏んで逃亡します。その後、ロドリゴを裏切って奉行に差し出すよう仕向けますが、それに罪の意識を感じたのか、最後までロドリゴの後を追い続けます。

 話し合いの中では、このキチジローに対する共感の声が幾つも挙がりました。「キチジローは裏切り者じゃなくて、普通の人間だと思う。自分も同じ立場だったら踏絵を踏んでしまうと思ったし、一番感情移入しやすい人物だった」(参加10回目の男性)。「キチジローへの共感は凄く感じました。自分も同じことしちゃうだろうなぁと」(玄人氏)。こうしたキチジローへの共感には、強い信仰心への違和感の裏返しという面もありました。ですから、実際には先の信仰の話とも深く関わるのですが、僕自身、キチジローを目立たせたいという思いがあったので、敢えて別立てで書いてみました。

 なお、玄人氏は上の話に続けてこんな指摘をしていました。「最後にロドリゴとキチジローが和解する場面はとても重要で、弱い人間と弱い人間が底辺で結びつくところに救いがあるというメッセージがここに込められていると思います」

 〇文体の変化とその効果——僕が参加したグループに初参加の方が1人いたことは最初に書いた通りですが、この方からは『沈黙』の文章表現についてユニークな感想が飛び出ました。『沈黙』は、歴史的背景を説明する「まえがき」から始まります。その後、本編の最初の方はロドリゴの書簡という体裁を取り一人称で文章が綴られますが、中盤から文章は三人称に変化します。初参加の女性の方は、この一人称から三人称へ視点が変化するところで、物語世界が一気に突き放されたような気がして「緊張感」を味わったと話しておられました。これは僕には全くなかった感覚で、とても新鮮でした。

 更にこの方は、最後に付された「切支丹屋敷役人日記」という候文の一節を取り上げ、これがあるために、「ちゃんと読めたのだろうか」という読後感が拭えなかったと話していました。このため僕らは暫く最後の候文の効果について話し合うことになります。よりいっそう突き放された印象を生むといった効果を指摘する意見があったり、ロドリゴの棄教という長く分厚い出来事も、傍から見れば日記に短く認められる物事のようなもので、より大きな日常に呑み込まれて行くのだということを意味しているのではないかという意見が出たり、予想外に面白い展開となりました。

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 以上で、午前の部=課題本読書会の振り返りを締めくくろうと思います。いつもはここで全体発表の内容を紹介するのですが、キチジローへの共感や、弱い人を描いた物語だという指摘、ロドリゴのことは批判的に読んでしまうという意見の紹介など、被る内容が多かったので、これくらいの記述に留めておこうと思います。ただ1つ、正論でありながら誰も斬り込まなかったタイプの非常にインパクトの強い意見が出ていましたので、それだけちゃんと書いておこうと思います。曰く、「神が沈黙しているのは当たり前じゃないか」——もっとも、それが現実とわかってなお、神の声を聞こうとするのが人間だと僕は思いますが(であればこそ、拠り所の話を書いたのです)。

 本当は、一連のやり取りを踏まえたうえでの僕の事後的な感想まで書きたかったのですが、そこまでやると話が進まない気がしたので、割愛します。さて、読書会の振り返りはこの後、午後の部=推し本披露会編へと続きます。どうぞご期待ください。