前回に引き続き、1117日(日)に「イロソフィア」主催で実施した哲学カフェに関連して記事を書いていこうと思います(哲学カフェや「イロソフィア」の概要については前回の記事にまとめていますので、そちらをご覧ください)。



 この日の哲学カフェのテーマは「自信はどうやったらつくの?」でした。話し合いの中では、自信のつけ方に限らず、「自信がない」という言葉をどういう風に使っているか、新しいことを始めるにあたって自信は必要かなど、様々な観点から自信を問い直す議論が展開し、開催時間の2時間はあっという間に過ぎてしまったものでした。前回の記事では、それらの話の中から特に印象に残った内容を取り上げ、紹介しました。詳しくは前回の記事をご覧いただきたいのですが、要点だけ抜き出しておきたいと思います。

 ▶①自信の有無を考えないという人から、自分は何についてどこまでできるのかを客観的に把握するよう努めているという話があった。〈自信のなさ〉とは、漠然とした「できない」という感覚に由来するものであり、客観的かつ具体的に自分の能力や状況を知ることでその感覚は薄らぐのではないかと、僕はそこから考えた。

 ▶②「今度のテスト自信がない」というように、「自信がない」という言葉はしばしば、結果の見通しが立たない場面で万一失敗しても傷つかないよう、自分を守るために用いられる。ただし、この言い回しの背後にある、結果がわからないことや失敗の可能性があることへの不安は確かな感情である。

 ▶③新しいことを始めたり何か行動を起こしたりする際に自信は本当に必要なのか、という疑問が出された。また、自信をつける目的は安定を得ることにあるはずなのに、自信があると、新しいことを始めるといったように進んで不安定な状態に行こうとするのは不思議だという意見もあった。自信と行動力の関係についてはよく考えてみる必要がある。

 ▶④「自信は一人では身に付けられない」という意見が哲学カフェの最終盤で注目を集めた。ある時には環境の力を借りることで、またある時には周りの人から「あなた自信あるよね」と言われることで、人は自信溢れる行動を取れるようになる。自分自身の経歴や体験の積み重ねだけで自信が身に付くわけではない。

 今回の記事では、以上の話を踏まえ、自信について更に考察を深めていきたいと思います。「そんなの、もう哲学カフェ関係ないじゃない」と思う方がいるかもしれません。確かに、参加レポートとしての性格はほぼないと言っていいでしょう。ただ僕は、哲学カフェでのやりとりを踏まえ、そこから考えを進めることに意味があると思っているので、ここまでまとめて哲学カフェの振り返りにしたいと思います。それでは、考察に入りましょう。

◇     ◇     ◇

◆①「自信がない」とはどういうことか?

 まず、「自信がない」とはどういうことか考えてみたいと思います。今回の哲学カフェのテーマ「自信はどうやったらつくの?」を提案したのは僕でした。そして、僕がこのような問いを立てた背景には、自分に自信がないことへの悩みがあったように思います。冴えない人を見下したり、才能あふれる人に嫉妬したり、行動を起こす前にモジモジしてしまったり……そんな自分のダメな部分が全て自信のなさから来ているような気がしていたのです。そんなわけですので、まずは〈自信のなさ〉をどう捉え直したらいいのか、そして、それを克服するためにどんな手が考えられるかについて考えてみることにしましょう。

 哲学カフェのやり取りを思い返してみると、「自信がない」という自己認識は、つまるところ、不安の表れなのだろうという気がします。ここでいう不安には様々なものが含まれます。何かができないということに対する不安もあれば、結果(成否)がわからないことに対する不安もあるでしょう。正解がわからないことに対する不安もあるかもしれません。いずれにせよ、自信のなさの根底にあるのは、胸中を渦巻く幾多の不安なのであろうと、僕は思います。

 であるならば、自信のなさを克服するために必要なことは、その不安を取り除いてやることにほかならない。これが僕の考えです。哲学カフェの中で紹介された、自分には何がどこまでできるのか(そしてどこからはできないのか)を具体的に把握するというのは、不安を取り除くやり方とみることができます。すなわち、ある物事について、漠然と「できない」という思いに打ちひしがれるのではなく、どこまではできるのか、どこからはできないのかを明確にしていく。これだけでも、不確かなものがぐっと減り、心が安定していくように僕には思えます。

 7月に、哲学カフェ研究会の活動の一環として「あきらめる」というテーマで哲学カフェをやったことがありました。その中で、「あきらめる」は「明らめる」とも書けるという発見がありました。「あきらめる」という言葉を使うとなんだか色がついて見えるけれど、要は選択の問題であり、その過程で、自分は何を大切にしたいのか、何がやりたいのか、どこまでならできるのかということが見えてくる。これが「明らめる」ということの含意だったわけですが、今回自信について話し合っているうちに、僕は何度も、この「明らめる」を巡る話し合いのことを思い出していました。どちらの話にも共通する部分があります。それは、自分のことをどれだけ知っているかが大事ということです。

 自分を知るということは案外難しいことです。知っているようで案外何も知らないのが自分というものだと言っても過言ではないでしょう。だからこそ、それは時に意識的にやるべきことなのかもしれないなと、僕は思います。

 さて、ここまではこの文章を書く前からある程度考えをまとめていたことなのですが、いまこれを書きながら、さらにこれができたらいいんだろうなあということが1つ出てきました。それは、どうしても気になってしまう人についても、その人がどんな人なのか、わかる範囲で分析してみることです。最初に書いたように、僕は人と自分を比較してみてしまうきらいがある。それ自体どうにかすべきことなのかもしれませんが、他人に対し無関心になり超然と振舞えるようになるには、それこそ途方もない時間がかかってしまうに違いありません。であるならば、無用の優劣意識に苛まれないようにするためには、当面の間は、他人についても客観的な事実を積み上げていき、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせておくことが重要ではないかと思います。人間観察の精度を高めると言ってもいいでしょう。言うは易く行うは難しという気がしますが、そこは気まぐれにやっていけたらと思います。

◆②「自信がある」とはどういうことか?

 続いて、「自信がある」とはどういうことか、について考えてみましょう。

 さて、皆さん既にお気づきかもしれませんが、ここまでの考察の中で、僕は「自信のなさを克服する方法」には言及してきましたが、「自信のつけ方」については一切触れてきませんでした。考察の中で僕がやってきたことは、「自信がない」という自己認識を不安の表れと読み換え、その不安を軽減させる方法について考えることでした。つまり、問いの立て方自体を変えていたのです。

 それには理由があります。哲学カフェの一連のやり取りを振り返る中で、「自信がある」という言葉は、自分に対して向ける言葉というより、他人に対して向ける言葉のような気がしてきたからです。いや、これはちょっと表現が悪かったかもしれません。言い換えましょう。すなわち、僕らが普段「自信がある」という言葉で言い表そうとしていることの中身は、僕らが自分以外の誰かを見て「あの人は自分に自信があるんだろうなあ」と感じる時の、その相手の振舞いの中にあるように僕には思えるのです。

 堂々とした立ち居姿の人を見た時や、落ち着きのある人を見た時、更には迷いなく行動できる人を見た時、僕らは「ああ、あの人は自信に満ちているなあ」と感じます。実は、自信という言葉の中身は、このように他人を羨むまなざしの内にしかないのではないかと、僕は考えました。先に僕は、周りから「あなた自信あるよね」と言われることで、自信のあるその人が生まれてくると書きました。しかし、それはたぶん違うのです。自信のあるその人というのは、本来存在しない。ただ、その人は自信のある人だと思っている我々がいるだけなのです。自信は一人で身に付けられるものではない、という話を、僕は噛み砕き直して、このように理解し直しました。

 そして、ここから、自信と行動力の結びつきを読み解く手掛かりも得られるように思います。不安に怯えず次々に色んなことをやってのける人を見た時に、僕らは「あの人は自信があるなあ」と感じる。それを僕らが勝手に、自信が行動の原動力なのだと読み換えているだけなのではないか。そんな風に思えるのです。

 「自分に自信がない」ということに拘泥していた僕は、「あの人は自信がある」というもう1つの視線の存在に全く気付くことができませんでした。しかし、「自信がある」ということの意味を考える時に肝心なのは、この相手に向かう視線だったのです。

 もちろん、この2つの視線はてんでバラバラというわけではありません。自分の心に不安が宿っていればそれは「自信のなさ」につながり、誰かの振舞いの中に不安の影が見られなければその人は「自信がある」人になるというように、〈不安の有無〉という部分で2つの視線はつながっています。ただ、ここで重要なのは、自分に視線が向かう時は内なる〈不安の有無〉そのものが問題になるけれど、相手に視線が向かう時は、あくまで〈不安がありそうかなさそうか〉というレベルでしかものを見ることができないということです。したがって、周りからは堂々として見られているけれど、当人は内心不安でいっぱいということもあるし、周りからは危なっかしいように見られているけれど、当人は至って平然としているということもあるというように、自信というテーマには常に、この見た目と内心のズレという問題が付きまとうことになります。

 なんだかややこしい話になってきたので、これ以上はやめておこうと思います。そもそも僕の考察の狙いは、あくまで、自信を巡り、自分に向かう視線と、他人に向かう視線を分けて考えるところにあったので、この辺りで考察を止めておこうと思います。

 最後に1つだけ。自信にまつわる問題のうち、見た目の問題として片づけられる部分があるならば、その点についてはある程度テクニック的に解決が図れるのではないかということを書き留めておこうと思います。姿勢を整えたり、話し方を調整したりすることで、自信があるように見えてくるのだとしたら、そこら辺は技術を身に付けることで解決してもいいのではないかと僕は思います。もちろん、僕はそれが自信問題の全てだと言っているわけではありません。むしろ、内面の問題、すなわち不安というものとどう向き合うかという問題の方が余程難解なわけですが、それについてはいずれ更に考察が深まった時に述べることにいたしましょう。

◇     ◇     ◇

 といったところで、哲学カフェの参加レポート、並びに、その内容を振り返っての考察を締めくくりたいと思います。最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。