ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2020年02月

 たいへんお待たせいたしました。先日予告した通り、内輪ネタに走る心理とはどのようなものか、そして、それを克服するにはどうすればよいのかについて、考えたことを書き出していこうと思います。

 既に何度か書いていることですが、これからお送りしようとしている内輪ネタに関する考察は、222日(土)に行った「笑い」をテーマにした哲学カフェに関連して書くことになったものです。笑いについて話し合う中で、会社内や知人友人の間だけなど、限られた範囲でだけ通じる笑いのことが何度か話題にのぼりました。また、そのような笑いを好んで取りたがるのはどのような人かについても話が及びました。その際、内輪ネタに走る人のひとりとして、僕の名前が挙がりました。哲学カフェの場において、自分個人に焦点が当たるのを避けたかった僕は、「すいませんけど、内輪ネタについては僕個人の問題として持ち帰らせてもらっていいですか?」と申し出ました。こうしてその場は収まりましたが、同時に僕は、今まで参加した哲学カフェの中で一番重い宿題を持ち帰ることになったのでした。

 考察は次の順序で書き進めたいと思います。まず、哲学カフェの中で挙げられた「内輪ネタに走る理由」を振り返り、僕なりに整理します。この作業は僕自身のダメな部分を炙り出すようなものなので、ここで終わったのでは書き手として後味が悪すぎます。そこで続いて、哲学カフェ後に僕が考えた「内輪ネタの良い点」について書くことにしたいと思います。これは僕が内輪ネタを繰り返している“積極的な理由”とも関わるポイントだと思いますので、その意味でも見ておくことは重要でしょう。しかし、もちろんこの“良さ”には限界があります。その限界を踏まえたうえで、最後に、内輪ネタばかり繰り出さないためにどうすればいいのか、考察を進めたいと思います。

◆①なぜ、内輪ネタに走るのか?

 内輪ネタに走る心理とはどのようなものでしょうか。哲学カフェの中では、この点について4つの意見が挙がりました。1つ目は、広く笑いを取ることに自信がないのだろう、というもの。2つ目は、いまある関係を大切にしたい、あるいは壊したくないと思っているのだろう、というもの。3つ目は、特定の集団でネタに精通していることを示し、優越感に浸りたいのだろうというもの。そして4つ目は、繊細で外からの攻撃に弱いからだろう、というものでした。

 いずれの意見にも共通して見られるのは、〈内輪ネタに走る人は、臆病で不安を抱えている〉という認識ではないかと思います。臆病だから、その人は今ある関係の外へ一歩踏み出すことができない。外からの攻撃が怖いというより、自分が手にしている世界の外側全てが怖いといった方が適切かもしれません。まして、外へ出て広く笑いを取ることなんて考えられないでしょう。ですから、その人は、いま自分が手にしている関係に固執することになります。この関係は同時に、周囲に対し怯えきっているその人に、一定程度の安心感を与えるものになります。したがって、その人は、不安の反動で傍若無人な振舞いをするようになるのでしょう(優越感に浸りたいのだろうという見立ては、実際にその人が優越感に浸っているかどうかはともかく、その人が集団の中で我が物顔で振舞っていることに対する評価なのだろうと僕は思います)。

 考えれば考えるほど気が滅入ってきます。何しろこれらの分析は僕にダイレクトに跳ね返ってくるのですから。2日前、僕はこの分析を書いている途中で、あまりに辛くなってしまって、筆を置いてしまいました。暫く時間を置き、自分を引いて見るようにして、やっとこの考察は書けるようになったのです。

◆②僕が内輪ネタを好む理由

 内輪ネタを繰り返す理由が性格的な弱さにあるのは確かなことでしょう。しかし、少なくとも僕の場合、ただそれだけが内輪ネタに走る理由ではないような気がします。では、なぜ僕は内輪ネタが好きなのか。

 結論から言えば、内輪ネタが〈根拠のある笑い〉だからです。

 内輪ネタには必ず根拠があります。仲間の見た目の特徴やヘンな癖・性格的な特徴、あるいは、以前に起きた出来事といった、直接的な根拠を持ちます。だからこそ、僕は内輪ネタに面白みを感じやすいのだと思います。

 このことに気付けたのは、哲学カフェの中で、内輪ネタと社交的な笑いの対比があったからでした。全く主観的で申し訳ないのですが、僕はこの社交における笑いにあまり良い印象がありません。聞いていると、中身のないことを調子よくシャアシャアと言いやがってという気持ちになります。これは嫉妬ではないと思います。人と話したいと思っても、僕は同じ手を使おうとしないでしょうから。ただ単純に、言葉の軽薄さにイライラしているのだと思います。

 もちろん、冷静に考えれば、社交的な笑いの軽薄さを叩くのは無茶苦茶なことだとわかります。社交的な笑いが、経験という根拠を持ちえないのは当然のことです。なにしろ、そこにいるのはお互いほぼ面識のない人だけですから。何が面白いと言えるのかわからない状態で、それでも何かを生もうとして出てくるもの、社交的な笑いとはそういうものなのでしょう。

 そもそも、この笑いは、僕がいまこだわっていた“面白さ”とは別のところに生まれてくる笑いかもしれません。哲学カフェで出た言葉を用いて言うと、社交的な笑いというのは、緊張の緩和による笑いの一種なのだと思います。見知らぬ人同士が出会って不安な中で、「私はあなたに危害を加えるつもりはありませんよ」というメッセージを送る、そこから笑いが生まれるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、社交的な笑いが、相手との関係における共通の経験を土台として生まれる笑いでないのは明白です。仕方のないことだとさえ言えます。しかし、僕はそれを中身のない軽薄な笑いだと思っていました。そして、経験に裏打ちされた根拠のある面白さに身を委ねて、これまでやってきたのでした。

◆③自分にとっての面白さを、人と共有するということ

 経験的な根拠があることが、僕が内輪ネタを繰り返してしまう理由であるということを、前段で見てきました。自分が面白いと感じたことについて人に話したいという気持ち自体は、別段おかしなことでもないように思います。しかし、ここからが問題です。自分が面白いと思っていることを、そっくりそのまま話しても、その面白さは伝わらない。これがここでのポイントになります。

 それはなぜかについては、改めて説明するまでもないでしょう。僕と僕以外の人は別の人間だからです。その笑いにいくら根拠があったとしても、それはあくまで僕個人の内にある根拠に過ぎません。僕の中では面白いことであっても、他の人が同じように面白いと感じてくれるという保証はない。僕が日頃おざなりにしていたのは、このごく当たり前の事実に注意を払うことだったのでしょう。

 ですから、僕にとってまず必要なのは、僕と僕以外の人は違う人だということを意識したうえで話をする、この基本的なことについていま一度考えることではないかと思います。笑いに引き付けて言い換えるなら、〈自分にとっての面白さを、人と共有するにはどうしたらいいか〉を考えることが必要になるわけです。

 学生時代のバイトでお世話になった方の中に、僕も含め従業員全員から面白いと言われていた人がいたのですが、この方はある時様々なコンビの漫才やコントを観て、受け答えの仕方や間の取り方を研究したと話していたことがありました。僕が「どのコンビが一番参考になると思いましたか」と尋ねると、「そんなのはないよ。それぞれに違う面白さがあるから。あとはその場その場で『あ、今これ使えるな』と思ったものを真似するだけ」という答えが返ってきました。この方ほど研究するかは別にして、ある程度の研究は必要だろうと思います。

◆補論:内輪ネタと社交的笑いの比較から見えてくるもの

 内輪ネタに走る理由と、内輪ネタ依存からの脱却に直接関係する話は以上になりますが、一連の考察を進める中で、もう1つ、自分なりに考えておきたいテーマが出てきましたので、補論という形で、その内容にも触れておこうと思います。

 先ほど僕は、内輪ネタと社交的な笑いとを対比的に見てきました。内輪ネタが、経験的根拠に基づく笑いであるのに対し、社交的な笑いは、経験の蓄積の無いもの同士が、互いに安心感を抱けるように働きかける笑いだというのが、そこで見てきたことでした。これを、笑いを起こそうとする側からみると、次のように言えると思います。前者は笑わせるという行為に先立って“面白さ”という理由を求めている。他方後者は、笑わせるという行為によって、安心感などの結果を生み出そうとしていると。出来事が先か、行為が先かという点において、両者は正反対の様相を呈しています。

 このように見ていくと、内輪ネタに走る人というのは、行為の根拠を常に外に求める受け身の人なのではないか、という気がしてきます。自分の外で起きている出来事に身を任せ、もみくちゃにされ続けている人だと言っていいかもしれません。この文章の最初の方で、内輪ネタに走る人は臆病で不安を抱えがちだという話をしましたが、その臆病さや不安は、自分自身のことよりも周りの出来事の方にばかり目が向く結果なのかもしれません。

 そうであるならば、ひたすら受け身になるのではなく、自分から周りに働きかけてみようと考え方や行動パターンを変えてみることも、内輪ネタ依存の脱却に遠くから影響してくるのではないかという気がします。明確な理由や動機などなくていい、とにかくまず動いてみる。「ちょっとこれをやってみたらどうなるか?」という実験を、日々の生活の中に入れていく。そんなところからも、人は案外変われるのではないかと、僕はいま期待を寄せています。

◇     ◇     ◇

 以上、内輪ネタを巡って、哲学カフェ以来考えてきたことをまとめてみました。まだまだ拙い考えかもしれませんが、今回はひとまずこの辺で筆を置くことにしようと思います。

 先日予告していた「内輪ネタ」に関する記事を書き始めた。が、思った以上に精神的負担が激しく、最後まで書き切ることはできなかった。そもそも、僕が「内輪ネタ」について丁寧に論じることになったのは、哲学カフェの中で内輪ネタに走りやすい人について話し合った際、代表例として僕の名前が挙がったことがきっかけである。哲学カフェの場で僕を話題の中心にすることは避けたかったので、内輪ネタ問題自体を宿題として持ち帰ることを自ら申し出たのだ。

 自分から言った以上、内輪ネタについて考える時間をちゃんと持ち、成果を文章にまとめようと思ったところまでは良かった。しかし、いざ書き出してみると、自分の悪い部分を列挙するような形になってしまい、腹の中を掻きむしりたいような落ち着かない気持ちになった。早々に筆が止まった。蒲団に潜りこんでから、自分自身から距離を取って書けば、自分としても楽だし、文章の重さも緩和されることに気付いたが、日付が変わっていたこともあり、再び書き始めようという気にはなれなかった。

 そんなわけで、内輪ネタの話は暫く待っていただきたい。内容の整理だけでなく、気持ちの整理も進めないと、この話は書けそうにない。日記を初めて1年4ヶ月になるが、これほど苦渋するネタに遭遇するとは思ってもみなかった。

 ただ、書き切りたいという思いはある。ポジティブな結論も見えていて、考え自体はまとまっている。あとは気持ちが沈まないように気を付けながら書くだけである。

 ちょうど1年ほど前から、タイムズカーシェアで車を借りてひとりでドライブに出掛けるというのを、月に2回くらいのペースでやっている。今日ちょうど行ってきたので、たまにはその記録をつけてみようと思う。

 タイムズカーシェアの料金は、ガソリン代込みで15220円である。ただし、4時間45分以上6時間未満の場合は、4,290円で均一料金となっている。6時間以上利用する場合は、時間料金と別に距離料金が加算される。これに該当すると1回当たりの利用料がとんでもないことになるので(大勢で出掛けるならまだしも、1人ならかなりの贅沢だ)、カーシェアドライブに出掛ける時はいつも、6時間以内に帰ってこられるように行き先を考える(昨年9月までは6時間パックというプランがあって、このプランを適用し、返却時間の延長申請をすると、パック料金+時間料金だけで7時間くらい利用できたが、10月に料金の改定があって、この手は使えなくなってしまった)。

 そして、これも経費を抑えるためであるが、有料道路はなるべく使わないようにしている。したがって、基本的に一般道を利用し、6時間以内に帰ってこられるようにするという制約のもと、行き先やルートを選ぶことになる。

 今回僕は行き先を、ざっくり京奈和道に定めた。京奈和道とは、その名の通り、京都から奈良を経由して和歌山まで通じる自動車専用道路である(一部未開通区間あり)。そして、なんとも嬉しいことに、奈良の郡山南インターと和歌山の岩出根来インターの間は無料区間となっている。山あいのため景観が綺麗で、信号等によるストレスもなく、しかも無料という三拍子揃ったこの道路は、ドライブにはうってつけである。

 京奈和道を目指して車を走らせたことは、過去にも何度かあるが、それらはいずれも阪奈道路を経て奈良側から京奈和道に入り、かつらぎ西インターで降りて、国道480号や泉北1号を通って大阪へ戻ってくるというルートだった。今回は反対に、りんくうタウンの方を回って岩出根来インターに到達し、奈良方面へ車を走らせて戻ってくるというプランを立てた。和歌山側がいつもより大回りになるため、阪奈道路まで北上せず、橿原高田インターで降りた後、南阪奈道路を使って帰ってくることにした。全線通っても690円なので、それくらいなら有料道路を使うことにしたのである。

◇     ◇     ◇

 さて、10時前に家を出て、歩いて10分ほどの駐車場から車に乗った。今回乗ったのはブルーのスイフトである。その色の車に乗りたい気分だったのだ。

 京奈和道に至る道の半分以上を占める大阪府道29号線は、阪神高速湾岸線に沿って走る片側23車線の大きな道で、大阪臨海線という名前を持つ。もっとも、高速の高架や臨海部の工場群などに遮られて海はあまり見えない。昨年2月にレンタカーで和歌浦まで出掛けたことがあり、その際に往復していたので、今回は景観にがっかりすることもなく、むしろ大きな道路を大きな気持ちで走る気分の良さに浸ることができた。この道は信号もそれなりに多いが、1年前ほど信号でモタつくこともなく、覚悟を決めていた僕は、コイツはありがたいとばかりに、ますます軽快に車を走らせた。

 りんくうタウン駅前の高架を潜り抜けたところで、道は府道63号線に変わる。ここから先にある臨海部の2本の橋は、泉佐野から和歌山へ至る海岸線がよく見える貴重なスポットだ。

 そのスポットを前に、コンビニで一度休憩を取り、さらに少し寄り道して、りんくうマーブルビーチというところに出た。マーブルビーチは、りんくうアウトレットの南に位置する人口浜で、白色の丸い石がびっしり敷き詰められている(手で握ってちょうど良いくらいの大きさの石だったから、上を歩くのは少々しんどかった)。その白色の浜辺からは、関西国際空港や関空連絡橋が海越しに一望でき、タイミング良く飛行機が飛び立つ様子も目撃できた。青と白のコントラストが美しいうえ、眺望を遮るものも何もないわけで、すごく開放的な気分になれた。ここに腰を落ち着けてビールやチューハイを飲みながらぼんやりしたらさぞ楽しかろうと思ったが、生憎僕は車で来ているし、時間に追われている身でもあるので、写真を数枚撮るとすぐさまビーチを後にした。

 府道63号線は、海を眺める橋を越えると、程なくして海岸線に別れを告げ、和歌山との県境にある山へ向かって伸びていく。これも非常に走りやすい道であった。マーブルビーチを出てから20分も経たないうちに、僕はトンネルを抜けて和歌山県に入り、岩出根来インターから京奈和道に乗っていた。

 この時点で時刻は12時半であった。そろそろお昼の時間である。

 京奈和道をドライブする時、お昼はいつも、かつらぎ西パーキングエリアのフードコートで食べている。食べるものもいつも決まっていて、和歌山ラーメン・チャーハンセット(1,100円)である。小さなパーキングエリアにある、収容人数30名ほどの小さな食堂のラーメンだが、これがどうも美味い。ここのラーメン食べたさにカーシェアドライブを敢行したこともあったほどだ。和歌山ラーメンは豚骨醤油系のスープのはずだが、ここのラーメンは味噌ラーメンを彷彿とさせるようなマイルドさがあって、それが麺ともよく合っている。セットのチャーハンも、胡椒がよくきいていて美味しい。紅生姜の代わりに福神漬が添えられているのも、僕は好きだ。

◇     ◇     ◇

 お昼を食べ終えたところで、時刻は1310分になっていた。車の返却まではあと2時間50分である。最短経路で帰るならともかく、これから京奈和道を大回りすることを考えれば、時間にそれほど余裕はない。食後すぐの運転はなるべく避けたかったが、ルートを確認したうえで、1320分前にかつらぎ西パーキングエリアを出発した。

 最初にも書いたように、カーシェアドライブには利用時間という制約がある。延長申請は可能だが、利用開始から6時間を超えると距離料金が加算されるため、僕の中で6時間というリミットはかなり重要だ。こんな風に絶えず返却時間を気にしなければならないため、着いた先でのんびりしようという気にはどうもなれない。

 カーシェアは観光地や名所を巡るのには向いていないと僕は思う。実際、カーシェアについて説明した文章を読んでみると、レンタカーより手軽にちょっとだけ乗りたいという時に便利なサービスだと書いてあるから、大きな買い物などで少し離れたところまで出掛けるような場面で使うことが想定されているのだろう。僕の使い方は邪道なのかもしれない。ともあれ、旅先をゆっくり見て回りたかったら、電車を使う方がずっと良い。カーシェアドライブのメインは観光ではなく、移動である。

 そんな忙しない娯楽に、それでも手を伸ばしてしまうのは、自分の技能を使って、スピードを体感しながら、自分の足だけではいけないところへ行ってみたいという思いが時々湧き起こってくるからなのだろう。車を運転するようになるまではなかったであろう欲だが、一度ドライブの旨味を覚えてしまうと、容易には手放せないのだから、性質が悪い。性質が悪いと言いつつ、その欲を飼い慣らすどころか放し飼いにしている僕は、もっと性質が悪いにちがいない。

 ふと、学生の頃に、よく自転車で河川敷をただただ走っていたことを思い出した。考えてみれば、あの時も、どこかへ行こうとして自転車を走らせていたわけではなく、河川敷を走ることそのものが目的だった。社会人になって自転車を手放し、代わりに自動車の運転習慣を身に着けた僕は、自分が心地良いと感じる場所をひたすら走るという娯楽を、よりハイスピードかつ贅沢な形で再現しただけなのかもしれない。そう考えると、自分はまるで変わっちゃいないのだなあと思う。

◇     ◇     ◇

 京奈和道を40kmほどひた走る。その時のことを振り返ろうとしても、書くべきことはこれといって思い当たらない。僕の心中を占めているのは、快適な道をひたすら速く移動していく快感だけであったのかもしれない。

 目が疲れたのか、黙っていると瞼が下がってきそうだったので、とりあえず歌を口ずさんでいた。歌を歌うのも、カーシェアドライブ中によくやることの1つだ。そして、これもまた快感のもとである。ただただリラックスを続ける阿呆を乗せて、車は和歌山から奈良に入り、京奈和道を北上した。

 橿原高田インターを降りたところで、左折して大和高田バイパスに入った。この道に至っては、片側2車線で高速道路さながらの格好をした、とにかく走るに快適な道という以外、本当に何の説明のしようもないような道であった。そのまままっすぐ進むと、南阪奈道路が始まった。ここから有料区間である。名前の通り、大阪と奈良の境を越えていく道であるが、先にも述べたように両者の間には山が連なっているので、南阪奈道路は府県境に向かってひたすら上り、その後ひたすら下るという道である。その限りにおいては、他の一般道と何ら変わるところはないのだけれど、南阪奈道路もまた、とてつもなく快適な道であった。やはり有料道路はいいものだと思った。

 元々は美原インターで一般道へ降りる予定だったが、万一を考え、阪和道の長原インターまで高速を走った。その先は、府道2号線、いわゆる中央環状線をひたすら走っていった。中環を走っているとよく渋滞に引っ掛かるのだが、今日は驚くほど軽快に車を走らせることができた。NHKラジオから流れてくる、子ども科学相談スペシャルの中継を聞き流しながらひた走ると、思っていたよりもずっと早く帰り着くことができた。

◇     ◇     ◇

 以上が今回のカーシェアドライブの記録である。終わりが近づくにつれて快適以外に感想のない、実にいい加減な記録になってしまった。しかし、記録としてはともかく、経験そのものを振り返るなら、これはこれで良かったのだと思う。空っぽの経験でありながら満ち足りた感じがするというのは、なんだか不思議である。

 222日(土)の夜に、彩ふ読書会のメンバーで哲学カフェを行いました。折角ですので、その振り返りをつけてみようと思います。

 哲学カフェとは、テーマを決めてみんなで一緒に考える集まりのことです。多くの場合、「お金はどうして大事なの?」「友だちって何?」「自信はどうやったら身につくの?」といった身近なテーマを取り上げて話し合います。要するに、日々の生活の中で“わかったつもり”になっていたり受け流してしまっていることについて、立ち止まって考えてみる、それも何人かで一緒に考えてみる場が、哲学カフェです。

 今回の哲学カフェのテーマは「笑い」でした。「笑い」について哲学的に考えたのは初めてのことでした。読書会のメンバーの中にはお笑いが好きな人が一定数いて、読書会の前後の時間に芸人の話やバラエティー番組の話に花が咲くことがままありますし、お笑いに詳しいわけではないけれど笑うことが好きだという人も多いように思います。しかし、今回目指したのは、お笑い論に走ったり、笑い話を共有したりすることではなく、「笑い」そのものについて考えることでした。どんな話題が出てくるのか、そしてどのように話が広がっていくのか、全くわからないまま、当日を迎えました。

 今回の会場は、大阪駅から東通り商店街の方へ歩いて15分ほどのところにある「NANA会議室」というレンタルスペースでした。繁華街の外れにある雑居ビルの地下室という、いかにも隠れ家といった雰囲気の場所へ、夜19時過ぎ、8人の読書会メンバーが集まり、2時間話し合いを行いました。彩ふ読書会では昨年の暮れから、読書会の内外を問わず広く参加者を募る形の哲学カフェも開催していますが、この日は4ヶ月ぶりに、読書会メンバーに参加者を限定して開催しました。

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(画像は会議室のサイトからお借りしました)

 それでは、話し合いの内容をみていくことにしましょう。

◆①「あるある」が笑いを生む

 「笑いは国境を越えられないという話を聞いたことがあるんですが、例えばアメリカのお笑いで皆さんは笑えますか?」この発言から、「笑い」を巡る話し合いは始まりました。「笑えないですね」「逆に、日本の漫才も海外には出て行かないですね」といった発言が続きました。国や民族、文化によって何が笑えるかは違うのではないか、ということが、ここから見えてきました。

 この話は以上で途切れてしまうのですが、暫くして「あるあるネタは笑える」という話の中で思い出されることになります。あるあるネタは確かに笑えます。そのネタについて自分が知っていて、共感できるために、笑いが生まれてくるのでしょう。具体例として、『翔んで埼玉』が面白いのは、東京が日本の中心にして頂点に君臨するものであり、他の地域の人々は東京に対して劣等感を抱いたうえで、互いにどちらがまだマシかで小競り合いをしているということが、日本人の共通認識としてあるからだという話もありました(もちろん、埼玉がネタにされやすく、また埼玉出身者に地元をディスる傾向があるというローカルな事情もあるでしょうが)。

 さて、言うまでもないことでしょうが、「あるある」を共有できる範囲には限りがあります。ここで、笑いは国境を越えられないという話が思い出されます。日本に住む人の「あるある」と、アメリカに暮らす人の「あるある」は違います。アメリカの人が『翔んで埼玉』を見ても何のことかわからないでしょうし、M-1優勝ネタでお馴染みのコーンフレークも、オートミールをネタにしないと彼らは笑えないかもしれません(これも実際に出た例です)。笑いが国境を越えられないのは、それぞれの国・地域の「あるある」を背景に成り立っているからだということが、ここから伺えます。

 更に、時代によっても「あるある」は変化します。「昔の漫才を見ても何が面白いのかわからない」という意見が途中で出ましたが、それは、笑いの基盤となっている常識が、今と昔では異なるからです。わかりやすいのは時事ネタを盛り込んだお笑いです(その意味では、『翔んで埼玉』だのコーンフレークだのと書き散らしているこの文章も、寿命が知れている感じがします)。また、昔は面白いとされていたネタだけれど、今見ると不謹慎だと眉をひそめずにはいられないということもあるかもしれません。「笑いは時代的なもの」と断言した参加者もいたほどでした。

 このように見ていくと、笑いというのは基本的に内向きの現象なのだということがわかります。いま・ここで、認識を共有している者同士が同じ事柄で笑う、これが笑いの基本なのです。劇場のような密閉空間の中で、観客の笑いが増幅されていくことがあるのは、笑いが限られた場所の中で起こることを端的に物語っているといえるでしょう。

 ここまではそれでも、1つの国・1つの時代である程度共有できるであろう笑いを扱ってきましたが、「あるある」が共有される範囲というのはもっと狭い場合もあります。どんどん狭くしていくと、遂には仲間内でしか共有できない笑い、いわゆる「内輪ネタ」に行き着きます(例えば、会社の上司の悪口ですね)。

 内輪ネタについては諸般の事情により別稿で丁寧に取り上げようと思うのですが、ここで1つだけ補足しておきたいことがあります。僕はしばしば、自分の近くを通り過ぎていく集団が大きな笑い声を立てた時にイラッとすることがあるのですが、その理由について「自分が孤立していると感じるからじゃない?」という意見が寄せられました。笑っている人たちの間で連帯や仲間意識が生まれている。その時、蚊帳の外にいる自分は、別にその集団に加わりたいと思っているわけじゃないけれど、ふと、あぁ俺はひとりだと感じるんじゃないかというのです。確かにそうかもしれません。ともあれ、笑いは内向きのものであり、不可避的に線引きを伴うものであるということが、ここからも見えてくるように思います(周りで人が笑っていても気にならないという人にとっては、何のことだかわからないかもしれませんが)。

◆②笑いとは、緊張の緩和である

 ここまで、「あるある」がベースになって起きる笑いの話をしてきました。哲学カフェの中ではもう1つ、話題になった笑いがありました。それは、緊張の緩和としての笑いというものです。これは桂枝雀という落語家が唱えた説のようです。

 緊張の緩和とはこういうことです。理解の枠外にあるヘンなこと・意外なことが起こった時、我々は「え、いま何が起こったの!?」という緊張状態に置かれます(恐怖や不安ということもできそうですが、いずれも力を込めて身構えるという要素を持ち合わせていますので、以下では緊張という言葉で統一します)。この緊張が緩んだ時、その快感から人は笑うというのです。漫才でいうと、ボケがおかしなことを言うことで、「あれ、どうした!?」という緊張が生まれ、そこへツッコミが常識に基づいた返しをすることで、緊張が緩和され笑いが起こるということです(ここから、笑いにおいて重要なのはボケではなくむしろツッコミだということが見えてきます。これには僕も含め、何人かが驚いていました)。

 哲学カフェの中で出た他の話を、緊張の緩和との関連で見てみましょう。例えば、「お笑いとホラーは似ている」という話がありました。両者とも話の要素は似ていて、オチがつくかつかないかというところから違いが生まれるというのです。確かに、落語の中には怪談話がありますし、お笑い芸人のコントの中にもホラーテイストの強いものがあるそうですから、両者は近しいものなのかもしれません。

 ホラーは恐怖を引き起こすものですから、当然緊張のもとになります。この緊張が高まった状態でオチをつければ、落差の大きな弛緩につながるため、爆発的な笑いが生まれます。緊張をもたらすホラーは、笑いと相性がいいのです(ちなみに、ホラーの方は、話が続くうちは緊張が続きますが、話が終わったり本を閉じたりして現実に戻ることで緊張が緩和し快感が得られる、というメカニズムになっているようです)。

 また、「絶望的な状況に陥ると、笑うしかねえという気分になりますよね」という話がありました。これも、なす術のないような緊張状態から逃れようとするところで笑いが生じているわけですから、緊張の緩和が笑いをもたらすことの例とみることができます。笑ってはいけない状況で笑ってしまったり、タブーを破る人が出てきた時に笑いが起きたりするという事例も話し合いの中で出てきましたが、同様のものと考えていいでしょう。

 ただし、笑いと緩和が起きる順番は時と場合によって異なります。怪談話にオチがついて笑いが生じるという例では、緊張状態が緩和したことにより笑いが起きるというように、緩和が笑いに先行しています。これに対し、絶望的な状況下で笑うという例では、笑うことによって、緊張状態を積極的に緩めようとしていることが伺えます。つまり、笑いが緩和より先にあるのです。現実を読み換え心の安定を図るために笑いを利用するという現象について、哲学カフェの中では「笑いを道具として利用している」という言い方をしていました。

 このように、幾つかパターンはあるものの、緊張の緩和と笑いの間には深い関わりがあるように思います。もちろん、笑いは緊張の緩和であるというのは、あらゆる笑いを説明するロジックではありません(「あるある」に共感して笑いが増幅していくという場面では、そもそも緊張が生じていません)。ですが、数ある笑いのある部分の説明として、とても説得力があると感じられるものでした。

 少し話が逸れますが、以上の内容に関連して、同じ出来事をどのような距離感で眺めるかによって、笑いが生まれるか笑えない話になるかが変わるのではないかという話をしておきたいと思います。「人生は近くでみると悲劇だが、遠くからみれば喜劇だ」という言葉があります(喜劇王チャップリンの言葉だそうです)。卑近な例ですが、自分や親しい人が足を滑らせて転ぶのは辛いことだけれど、通りすがりの人が同じように転ぶのは滑稽だというのを考えるとわかりやすいでしょう。同じ出来事でも、自分の身に迫る出来事としてみれば深刻なものになるけれど、他人事になってしまうと面白おかしい出来事になるというわけです。桂枝雀も、他人のちょっとした困り事は笑いになると言っていたそうです。

 絶望的な状況において笑いが漏れるという話をしていた時、「それは自分事じゃないと考えて距離を置こうとしているんじゃないでしょうか」と話した方がいました。これは大いにありうることだと思います。この時人は、目の前の出来事を自分の身に降りかかる問題ではないと考えることで緊張状態を緩めようとしているわけですが、それが同時に現実から身を引かせるという現象を伴っているのは興味深いことだと思います。

 これらの話を踏まえると、笑いは対象と距離を置くことによって生まれるというまた新たな側面が見えてきます。既に述べたように、それは緊張を緩和させる手法の1つでもありますが、それ以上の意味も含んでいるのではないかという気がするので、敢えて別立てで書き留めておこうと思います。

◆③笑いとは力である

 前段の中で、笑いを道具として利用する事例を紹介しました。緊張を緩和させるため、意図的に笑うというのがその事例でした。このことは、笑いには、笑った人に現実を読み換えさせる効果があるということを示唆しています。

 もしかすると、その笑いは、当人の気持ちを変化させるだけでなく、彼/彼女と対面している人の気持ちにも影響を及ぼすかもしれません。接客業に就いている参加者から、「仕事柄、お客さんの前では笑うことが多い」という話がありました。笑顔をつくることには、口角を上げることで当人の緊張感を和らげると同時に、相手に好印象を与えクレームを防止する効果があるそうです。この例では、ワタシが笑うことが相手にも影響を及ぼし、ひいてはそれが、ワタシが仕事をスムーズに進める=思い通りに事を運ぶことにつながっていることが伺えます。「笑いは支配である」という言葉があるようですが、ここではまさに、店員がお客を支配していると見ることができるでしょう。

 いま述べたような話から見えてくるのは、笑いとは一種の力であるということです。笑いには、自分や他人の心理に影響を及ぼし、ものの見方に変化をもたらす力が秘められているのです。

 笑いとは、そもそもエネルギッシュなものです。本稿の前半で、近くにいる集団がドッと笑うとイラッとするという話をしましたが、哲学カフェの中でこの話をした際には、孤独を感じるからではないかという意見の他に、「その人たちに働きかけることができないまま、ただただ勢いに圧倒されてしまうからではないか」という話がありました。上に挙げた2つとはまた違う例ですが、笑いには力があると思わせる好例であるように思います。

 笑いが生む力を巧みに利用している人の話を聞くこともできました。ある参加者は、会社などでパワハラ・セクハラに近い発言が出ると、わざと大声で笑いながら、真顔で相手を見つめ返すのだと話していました。普通なら緊張が続きそうな場面で敢えて笑うことで空気を変えつつ、表情で真意を伝えるというのは、かなりの高等テクニックですし、真意がわかるだけに恐ろしいものですから、笑われた側は相当堪えるんじゃないかと思います。実際、この方法は相当有効とのことでした。

 ともあれ、確認しておきたいことは、笑いは力であるということです。普段面白いことや楽しいことで笑うことばかり考えている僕からすると、これもなかなか衝撃的な発見でした。

◆まとめ——人が笑うのはどういう時か?

 以上、「笑い」をテーマにした哲学カフェの内容を振り返ってきました。最後に、以上で見てきたことを僕なりに整理して、本稿を締めくくりたいと思います。

 今回の哲学カフェを通じて、僕らは笑いのパターンのうち、少なくとも2つについて考えを進めることができました。1つは、「あるある」をベースとする共感に基づく笑いであり、もう1つは、緊張の緩和がもたらす笑いでした。両者は違う性質のものだと僕は思いますが、その一方、振り返りを進める中で、2つに共通する要素もあるのではないかと考えるようにもなりました。

 結論からいうと、人が笑うのは、その人が安全圏にいることの証明か、もしくは、安全圏に至ろうという意思の表れだということです。

 緊張の緩和がもたらす笑いについては、この点について改めて述べる必要はないでしょう。まさに、緊張状態を脱して安心感を得ることで(或いは、緊張状態を脱して安心感を得るために)笑いが生じるわけですから。

 では、「あるある」への共感に基づく笑いの方はどうか。少し考えてみると、この笑いの根底にあるのも安心感であることが見えてきます。なぜなら、彼/彼女は、自分が知っていることに基づいて笑っているからです。価値観や判断基準が揺らぐ心配はそこにはありません。自身が変わる必要がないという意味において、その人は安全なのです。さらに言えば、それがみんなの「あるある」なのですから、他の人の輪に入ることができているという安心感も得られるにちがいありません。

 このように考えていくと、笑いの根源にあるのは、自分の身の安全なり安心だということが見えてきます。それらが保障されているから、或いは保障されたいから、人は笑うのです。

 そのような笑いを生み出すことによって、人は自他に影響を及ぼしていきます。特に笑いを道具的に使う場合には、場を支配することだってできるかもしれません。その支配には、ショップ店員さんのプライスレス・スマイルのように、「私はあなたを怖がってなどいませんよ=安心していますよ」という態度によって場を穏やかにするものもあるでしょう。一方で、映画などの悪役が浮かべる不敵な笑みのように、「あいつはすっかり安心しきっているらしい=ということは俺たちに何が待っているっていうんだ!?」と相手を恐れさせ場の中で優位に立つことを可能にするものもあるでしょう。この力を状況によって自在に使い分ける人が身近にいたら、緊張しっ放しで笑うどころじゃないなあと、今更ながら思います。防衛策を考えないといけないかもしれませんが、それは今の僕の手に余る仕事ですので、気が向いたら考えることにします。

 以上で哲学カフェ「笑い」の大まかな振り返りは締めくくりたいと思います。もっとも、僕には1つ大きな課題が残っています。文中でも触れましたが、「内輪ネタ」の問題について丁寧に考えるという課題です。なぜこれが大きな課題なのか、その辺りの事情も含め、「内輪ネタ」をテーマにした記事を1本、別に書きたいと思います。次回か、遅くとも次々回にはアップします。気が向いたら見に来てください。それでは!

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(当日の話し合いメモはこんな感じ)

 昨日に引き続き、216日(日)に京都で開かれた彩ふ読書会の様子を振り返っていきたいと思います。昨日は午前の部=「推し本披露会」の様子を紹介しました。この記事では、午後の部=「課題本読書会」の様子について見ていきたいと思います。

 今回の課題本は、カズオ・イシグロさんの小説『わたしを離さないで』でした。主人公は「提供者」と呼ばれる人たちを世話する職業「介護人」に就くキャシー・H。間もなくその仕事を終えようとしている彼女が、これまでの人生を振り返る形で、物語は進みます。生まれ育った「ヘールシャム」という施設での思い出。とりわけ、ヘールシャム以来の親友であるトミーとルースとの思い出や、「保護官」たちのこと。ヘールシャムを出た後のこと、そして、介護人になってからのこと。淡々とした語りが進むにつれ、彼女たちやヘールシャム、そして提供の秘密が明らかになっていきます。それと共に、読み手である僕らは、生きる意味とは何か、人間らしさとは何か、さらには、何が幸せかといった、様々なテーマについて考えを巡らすようになりました。

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 作品の醍醐味(とりわけ初読時の醍醐味)の1つは、読み進めながら上述の秘密を少しずつ解き明かしていくことにあるのですが、ネタバレを避けてしまうと感想や考察が何も語れなくなってしまいますので、今回はネタバレ全開でお送りしたいと思います。読みたいけど読んでいないという方は特にご注意ください。

 さて、課題本読書会は1340分頃に始まり、1時間半ほど続きました。今回の読書会には24人の参加者がいらっしゃいましたので、3つのグループに分かれて座り、自己紹介ののち、本の感想などを話し合いました。15時を過ぎたところで、グループでの話し合いは終了し、各グループの代表者が他のグループに向けて話し合いの内容を紹介する全体発表が行われました。その後、今後の読書会や部活動の告知を経て、読書会は終了となりました。

 僕は会場の一番奥のテーブルを囲むCグループに参加しました。メンバーは全部で8人。そのうち3人が初参加で、あとのメンバーは僕のほか、SFファンの女性、現在古典作品に挑戦中のベテラン男性、いつも鋭い発言で課題本読書会を盛り上げてくださるベテラン女性、哲学カフェでよくご一緒する男性という顔ぶれでした。

 グループの進行役は僕が担当しました。最近の僕は、参加者に順番に感想などを話してもらうのでも、考えてきたことなどを付箋に書き出してから話してもらうのでもなく、挙手制にして話したい人に話してもらうというスタイルを採っています。全員に同じように話してもらうよりも、話したい人は話し、聞きたい人は聞くというやり方にしたほうが、無理がないような気がするからです。今回について言えば、完全にお任せで話を進めた結果、本の概要をおさらいすることなく感想・考察の応酬になったので、些か「しまった!」という思いもあります。一方で、だからこそ聞くことのできた興味深い話もあったように思います。

 ともあれ、グループでの話し合いの様子をご覧いただくことにしましょう。

◆課題本を読んだ感想から

 Cグループの話し合いは、課題本を読んだ感想を雑駁に話すところから始まりました。自己紹介の途中から本の感想を一言話すのがお決まりのような流れが出来上がっていたので、自然な形で感想の話し合いに移っていくことができました。

 感想は大きく言うと、「面白かった」というものと、「しんどかった」というものに分かれていました。「面白かった」という意見のほうは、実際には様々なタイプに分かれていました。主な意見を紹介すると、「元々ミステリーが好きなので、(主人公の)淡々とした語りが進むにつれて謎が明かされていく感じがいいなと思った」というもの、「ラストの謎が一気に解けるところで、色々考えさせられた」というもの、はんたいに「綿密な語りで進む前半が良かった。ラストでは視野が急に広くなってガクンとした」というものがあったように思います。

 一方、「しんどかった」という意見の方は、「細かい描写が沢山あって、色んな出来事が描かれても、結局最後に向かって物語が進んで行くというのがしんどかった」と話していました。重大なネタバレになりますが、『わたしを離さないで』の主人公であるキャシーや、その友だちであるトミー・ルースたちは、クローン人間であり、病気になった人間のために臓器を提供することが使命となっています。運命が予め決められており、夢を持つことも、遠いどこかへ行って暮らすこともできません。臓器提供による死という決められた未来に向けて一直線に物語が進んで行くのは、確かにしんどいと感じることかもしれません。

 もっとも、「面白かった」という人も、主人公たちの運命を少しずつ知りながら、様々なことを考えていたのでしょうから、皆さん注目するポイントはよく似ていたのではないかと思います。違ったのは、そのポイントの受け止め方だったのでしょう。

 さて、雑駁に感想を話し合う中で、「教育によって人はこんなに変わるんだと思った」という意見が出てきました。その後の話し合いの中でも、主人公たちが教育を受ける意味、或いは主人公たちに教育を施そうとする先生たちのことが、しばしば話題になりました。というわけで、続いて「教育」の話に移ることにしたいと思います。

◆『わたしを離さないで』と、教育の問題

 先述の通り、物語の主要人物であるキャシーたちは、臓器提供という運命を定められたクローンですが、一方で彼女たちは子ども時代を「ヘールシャム」という全寮制の学校のような場所で過ごしており、一定の教育を受けています。「ヘールシャム」はクローンを生育させる施設の1つですが、中でもとりわけ、クローンを人間と同様に扱おうと尽力する人々によって運営されていたことが、作中の記述から伺えます。

 『わたしを離さないで』における教育というテーマで話をした時、まず話題になったのは、「臓器を提供するために教育は必要なのか」という問いでした。また、教育がクローンたちを人間らしくするためのものだったことを踏まえ、「人間とはどう生きるのか?」という問いも出てきました。もっとも、これらの問いはあまりに大きなものだったので、問いが出たきり話が続かなくなってしまいました(工夫次第でもっとこの点について話ができたのではないかと今になって思います……)。

 続いて、教育の中で自らの使命を刷り込まれて行くことの巧妙さが話題にのぼりました。大々的に話すのではなく、他の話に紛れ込ませ小出しに話しながら、使命を印象付けていくという手法が『わたしを離さないで』の中で紹介されていましたから、おそらくこれが印象に残ったのでしょう。

 この点に関連付ける形で、教育を巡る話し合いの中で最も深く掘り下げられた内容を紹介しましょう。それは、キャシーたちを教育した先生たちの間にあった方針の対立を巡るやり取りでした。ヘールシャムを振り返る話の中には何人かの先生が登場しますが、その中に、ルーシー先生という、他とは異なる先生が1人居ます。ルーシー先生は、「皆さんは教えられているようで教えられていない」と言って、クローンたちを待つ運命について正直に話したり、他の先生がクローンたちに推奨する絵画や詩について「無理に書く必要はない」と説明したりしています。話し合いの中では、そんなルーシー先生と他の先生を対比させて考える一幕がありました。

 どの先生も子どもたちに幸せになって欲しいと感じている点では同じだけれど、ルーシー先生はいかに残酷であっても真実を教えた方が子どもたちのためになると考えており、他の先生たちは残酷な真実を教えるくらいなら子どもたちを守ってあげるべきだと考えているのではないか——そんな意見がありました。どちらの先生も根底では同じ考えをもっている筈だけれど、表に現れるものを見るとこれだけ変わってくるのかと気付かされる意見でした。

 また、ルーシー先生が一番、クローンたちを人間として扱っていたのではないかという意見がありました。真実をこっそり含ませながら話すのではなく、正面きって話そうとするのは、クローンで、かつ子どもであるキャシーたちを対等な人間として扱おうとしていたから。絵画や詩を強要しなかったのは、表現物を個々人の魂の写し鏡として特別視することなく、一人ひとりの得意不得意を見抜き、あるがままの存在の中にそれぞれの人間性を見出そうとしていたから。ルーシー先生こそ、クローンを人間として扱おうとしていた人だという意見に立つと、先の対比は今述べた形で読めるようになると思います。

 この意見は、僕にとっては非常に納得のいくものでした。もっとも、僕はきっと、必要なウソというものについてあまりよく考えず、物事は何であれなるべく隠さず明かした方がよいと考えるタイプの人間なのでしょう。ここはおそらく意見の分かれるポイントだったろうと思います。ルーシー先生派か、他の先生派か。包み隠さず真実を語ることを是とするか、時に残酷な真実から身を守ることを是とするか。もっともっと掘り下げたかったなあと、今更のように思います。

◆なぜ、クローンたちは反逆しないのか?

 話し合いの中で、このような疑問が飛び出す一幕がありました。これも僕にとっては非常に印象深い一幕でした。なにしろ、キャシーたちが反逆する可能性を僕は全く考えていませんでしたから。キャシーたちは、臓器提供により生涯を終えるという運命を素直に受け入れていました(寿命を意識してもいないのではないか、という意見もありました)。僕もまた、運命に流されて生きていく彼女たちのことを素直に受け入れていました。しかし中には、他人の道具にされて死んでいく運命や、そのような運命を作り出している環境に反逆を試みないのはおかしいじゃないかと考える人もいるのです。これは新鮮な発見でした。

 その後、キャシーたちが反逆しない理由探しを進める形で、話し合いは進みました。子ども時代のキャシーたちはヘールシャム以外の世界を知らないし、教育の影響もあるので、自分たちが不幸な運命を背負っていることに気付いていないのではないか、という意見がありました。また、ヘールシャムを卒業した後のことについても、一度「介護人」になってしまえば、旧友とのたまの再会を喜ぶ余裕もないほど働きづめになるので、反逆行為に割ける時間や力が残らないのではないか、という意見が出ました。

 一方、ある参加者からは、数年前に放送されたテレビドラマ版『わたしを離さないで』では、クローンたちが自分たちの存在を知ってもらおうとビラ配りをするシーンが追加されていたことが紹介されました。また、仲間の1人は演説中の政治家のマイクを奪って訴えを起こしたあと、自ら命を絶っていたということも紹介されました。なぜドラマ版でこのようなシーンが追加されたのかはわかりませんでしたが、小説に描かれた従順すぎる世界とは違う世界もあるのだということを、ひしひしと感じる話し合いになりました。

◇     ◇     ◇

 この他にも、主要登場人物であるキャシーやトミー、ルースの性格や三者の関係性に関わる話が出たり、キャシーは誰に向けて語っているのかという問いが発せられたりと、幾つか展開はありましたが、特に印象的だった部分については以上でまとめた通りですので、これにて午後の部=課題本読書会の振り返りを締めくくろうと思います。ちなみに、全体発表で聞いた他のグループで出た意見の中には、「人間の条件について、考えることができれば人間ではないか」というものや、「クローンへの教育は、彼らの犠牲の上に健康を享受してきた人間の罪滅ぼしなのではないか」というものがあり、それぞれ面白いなあと思いました。

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 さて、普段であればここからもう1つ記事を分けて、課題本読書会後に設けられているメンバー同士の交流の時間、通称「ヒミツキチ」について筆を奮うところですが、この日のヒミツキチでは『わたしを離さないで』の映画版の上映会が行われ、残った全員がそれに参加していたので、課題本読書会の振り返りに続ける形で、この上映会について簡単に触れておこうと思います。

 参加したメンバーは全部で8人。会場の備品であるプロジェクターをお借りし、壁に立てかけられた白い板の上に映像を映し出す形で上映会は開かれました。最初パソコンとプロジェクターの接続が上手くいかず、企画者であるちくわさんが奮闘する場面がありましたが、その後無事映像が映り、上映会は淡々と進行していきました。

 映画版は400ページにわたる小説を100分に圧縮したものでした。大まかな筋書きは原作通りなので、特に目新しい発見もなく、原作との違いや俳優の演技について幾つかの感想を交すうち、上映会はあっさりと終わってしまいました。ちなみに、その時出た感想は、「クローンを巡る核心の部分をもっと丁寧に描いてほしかった」「キャシー、トミー、ルースの三角関係に焦点が当たりすぎてた」「ヘールシャム時代の描き方は良かった」「運命に抗えないと知った時のトミーの叫びは演技も相まって原作以上の出来だった」といったものでした。

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(上映会中の1コマ)

 上映会が終わると、時間はもう18時近くなっていました。他に予定があったり、家路を急いでいたりで、参加者は次々に会場を後にし、最後まで残っていた人はほんの僅かでした。その後、確認に来たオーナーの方から、会場の成り立ちの話などを聞き、静かな興奮を覚えたところで、僕らも会場を後にすることになったのでした。

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 というわけで、以上をもちまして、216日の京都・彩ふ読書会の振り返り、全編を締めくくろうと思います。ここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。

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