ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年11月

 遂に独房の暖房のスイッチを入れてしまった。ここまで何とか暖房を使わずに凌いできたのだが、今日はもう耐えられなかった。もっとも、一日で気温が5℃も下がったのである。適応しきれないのも無理はない。問題は、いずれここから更に気温が下がるであろうということだ。その時に、外を出歩けるように、今の気温にある程度慣れないといけないのではないか。そんな気がしてならないのだが、発想として正しいのだろうか。

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 先日少し紹介した『東京の空間人類学』であるが、「そうなのか!」と思う知見がたくさん載っていて、とても面白い。特に、江戸の下町の経済・流通・宗教・娯楽などのあらゆる面と、川・堀・海・池などの〈水〉との関係を解き明かす第2章は、全てのページに付箋を貼りたいくらい面白かった。それに続く第3章は、明治の東京の街が、近世の江戸のまちに近代的要素をどのように取り入れていったかを考察する章で、まだ全部読めたわけではないが、ここもあちこちに付箋をベタベタ貼りたくなってくる。

 面白いと感じる一番の理由は、都市の空間構造を読み解こうという試みの中から、そこに生きる人間の姿が浮かび上がってくることである。例えば、江戸の盛り場は都市周縁部の〈山の辺〉か〈水の辺〉に立地し、さらに寺社の近くにできることが多かったという話が出てくるのだが、ここからは、そこに住む人が各々の内に籠るエネルギーを発散する場が日常生活から離れた「ハレ」の空間にあったということ、したがって、人々にとって娯楽や解放もまた、日常生活の場を離れた場所にあるものとして想起されたことが伺える。日々の生活の中でくすぶっている何かを、日常生活を離れたどこかで発散させたいという気持ちは僕も持っているのだけれど、上の一節を読んでいると、そんな自分の心情と、都市の要素の空間配置に関する話とに、関係があるような気がしてくるのだ。空間を読むことが人を見ることにつながるのだということが、この本を読んでいるとよくわかる。それが、ただ空間を読む以上の面白さにつながっているように、僕には思えるのだ。

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 とはいうものの、ずっと東京の空間構造の話ばかりに触れているとだんだん疲れてくるのもまた事実である。僕はだいたい、一度に一冊しか読まない人なのだけれど、読書仲間には、複数の本を同時に読み進めるという人も少なくない。実際、1つのことに囚われるのがイヤな人は、こういう読み方のほうが向いているんだろうなあと思う。それを言うと僕も同時進行派のはずなのだけれど、遅読が祟っているのか、一度に一冊という読み方が基本になっている。

 しかし、今日ばかりは、さすがの僕も別の本を手に取りたくなった。もとより、読まないといけない本もある。近々会社の部署内勉強会で、段取り力について話すことになっている。決して僕が段取り上手だからではない。むしろ逆で、段取り下手だからこそ、自分のために買った段取り力の鍛え方に関する本を、この機会にちゃんと読もうと思い、話してみますと申し出たのだ。そんなわけで、段取り力に関する本を手に取ってみたのだが、ハウツー本あるあるでとにかく目次が長いので、それを見たところで本を閉じてしまった。

 もっとも、本を閉じた理由の中には、目次をみているうちに、いまそれを読むより先にやるべきことがあるような気がしてきたからというのが3割ほど含まれる。果たしてその後幾つかの雑事を済ませた。ちょっとだけ、物事が捗ったような気分になった。

 沈静期間に入るというのは、あくまで気持ちのうえで大人しくするという意味だったのだが、ブログの更新さえ途絶えさせてしまいそうな勢いで昨日はのんびりしてしまった。やれやれ、ま、いっか。

 週末のやらかしを経て、いま僕は沈静モードに入っている。自己嫌悪の情が抜け切っていないのだろう、とにかく、威勢良くなどとてもなれない状況である。もっとも、これを機に、何かと予定が立て込んでいたり、色んなことを書き出すのに追われたりで、どこか余裕がなかった気持ちを落ち着け、立て直そうという思いもある。だから、自分を無理に励ましたり、空元気を吹かしたりせず、暫く大人しくしているつもりである。

 いやむしろ、文章を書いたり気持ちの整理をしている時くらい、大人しくした方がいいにちがいない。僕は元来強がりで、日中は平気な風を装っていたり、かえっていつも以上に真面目に仕事をしたりしてしまうから、そのうちまたどこかでポキリと折れてしまう気がしてならないのである。考えすぎかもしれないけれど、考えてしまうのが僕である。ともあれ、暫く大人しくする。

 普段と違って、あれをやろう、これをやろうと思うものがない分、そして、日記もまた長くて面白いものを書いてやろうなどと意気込まない分、読書に力を割くつもりである。今週に入り、陣内秀信の『東京の空間人類学』を読み始めた。その名の通り、東京という都市の成り立ちを、古地図を紐解きまちを歩きながら歴史的に解き明かそうとする書物であり、中には具体的な地名がたくさん出てくる。僕は今、暇に任せて、グーグルマップを都度見ながら、この本をのんびりと読んでいる。地図を見たくらいじゃイメージしきれない内容もあるが、一方で、学生時代に通った道のことなどを思い出すと「なるほど、これがそうなのか」と思えてくる内容もあり、面白い時間を送っている。不慣れなジャンルなので気を抜くと寝てしまうのが厄介であるが、本に罪はない。だからといって、僕にも罪はない。誰も悪くなくても困ったことが起きるのは、世の常と知れ……こんな教訓めいたことを書いたのは本当にオレか?

 前回に引き続き、1117日(日)に「イロソフィア」主催で実施した哲学カフェに関連して記事を書いていこうと思います(哲学カフェや「イロソフィア」の概要については前回の記事にまとめていますので、そちらをご覧ください)。



 この日の哲学カフェのテーマは「自信はどうやったらつくの?」でした。話し合いの中では、自信のつけ方に限らず、「自信がない」という言葉をどういう風に使っているか、新しいことを始めるにあたって自信は必要かなど、様々な観点から自信を問い直す議論が展開し、開催時間の2時間はあっという間に過ぎてしまったものでした。前回の記事では、それらの話の中から特に印象に残った内容を取り上げ、紹介しました。詳しくは前回の記事をご覧いただきたいのですが、要点だけ抜き出しておきたいと思います。

 ▶①自信の有無を考えないという人から、自分は何についてどこまでできるのかを客観的に把握するよう努めているという話があった。〈自信のなさ〉とは、漠然とした「できない」という感覚に由来するものであり、客観的かつ具体的に自分の能力や状況を知ることでその感覚は薄らぐのではないかと、僕はそこから考えた。

 ▶②「今度のテスト自信がない」というように、「自信がない」という言葉はしばしば、結果の見通しが立たない場面で万一失敗しても傷つかないよう、自分を守るために用いられる。ただし、この言い回しの背後にある、結果がわからないことや失敗の可能性があることへの不安は確かな感情である。

 ▶③新しいことを始めたり何か行動を起こしたりする際に自信は本当に必要なのか、という疑問が出された。また、自信をつける目的は安定を得ることにあるはずなのに、自信があると、新しいことを始めるといったように進んで不安定な状態に行こうとするのは不思議だという意見もあった。自信と行動力の関係についてはよく考えてみる必要がある。

 ▶④「自信は一人では身に付けられない」という意見が哲学カフェの最終盤で注目を集めた。ある時には環境の力を借りることで、またある時には周りの人から「あなた自信あるよね」と言われることで、人は自信溢れる行動を取れるようになる。自分自身の経歴や体験の積み重ねだけで自信が身に付くわけではない。

 今回の記事では、以上の話を踏まえ、自信について更に考察を深めていきたいと思います。「そんなの、もう哲学カフェ関係ないじゃない」と思う方がいるかもしれません。確かに、参加レポートとしての性格はほぼないと言っていいでしょう。ただ僕は、哲学カフェでのやりとりを踏まえ、そこから考えを進めることに意味があると思っているので、ここまでまとめて哲学カフェの振り返りにしたいと思います。それでは、考察に入りましょう。

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◆①「自信がない」とはどういうことか?

 まず、「自信がない」とはどういうことか考えてみたいと思います。今回の哲学カフェのテーマ「自信はどうやったらつくの?」を提案したのは僕でした。そして、僕がこのような問いを立てた背景には、自分に自信がないことへの悩みがあったように思います。冴えない人を見下したり、才能あふれる人に嫉妬したり、行動を起こす前にモジモジしてしまったり……そんな自分のダメな部分が全て自信のなさから来ているような気がしていたのです。そんなわけですので、まずは〈自信のなさ〉をどう捉え直したらいいのか、そして、それを克服するためにどんな手が考えられるかについて考えてみることにしましょう。

 哲学カフェのやり取りを思い返してみると、「自信がない」という自己認識は、つまるところ、不安の表れなのだろうという気がします。ここでいう不安には様々なものが含まれます。何かができないということに対する不安もあれば、結果(成否)がわからないことに対する不安もあるでしょう。正解がわからないことに対する不安もあるかもしれません。いずれにせよ、自信のなさの根底にあるのは、胸中を渦巻く幾多の不安なのであろうと、僕は思います。

 であるならば、自信のなさを克服するために必要なことは、その不安を取り除いてやることにほかならない。これが僕の考えです。哲学カフェの中で紹介された、自分には何がどこまでできるのか(そしてどこからはできないのか)を具体的に把握するというのは、不安を取り除くやり方とみることができます。すなわち、ある物事について、漠然と「できない」という思いに打ちひしがれるのではなく、どこまではできるのか、どこからはできないのかを明確にしていく。これだけでも、不確かなものがぐっと減り、心が安定していくように僕には思えます。

 7月に、哲学カフェ研究会の活動の一環として「あきらめる」というテーマで哲学カフェをやったことがありました。その中で、「あきらめる」は「明らめる」とも書けるという発見がありました。「あきらめる」という言葉を使うとなんだか色がついて見えるけれど、要は選択の問題であり、その過程で、自分は何を大切にしたいのか、何がやりたいのか、どこまでならできるのかということが見えてくる。これが「明らめる」ということの含意だったわけですが、今回自信について話し合っているうちに、僕は何度も、この「明らめる」を巡る話し合いのことを思い出していました。どちらの話にも共通する部分があります。それは、自分のことをどれだけ知っているかが大事ということです。

 自分を知るということは案外難しいことです。知っているようで案外何も知らないのが自分というものだと言っても過言ではないでしょう。だからこそ、それは時に意識的にやるべきことなのかもしれないなと、僕は思います。

 さて、ここまではこの文章を書く前からある程度考えをまとめていたことなのですが、いまこれを書きながら、さらにこれができたらいいんだろうなあということが1つ出てきました。それは、どうしても気になってしまう人についても、その人がどんな人なのか、わかる範囲で分析してみることです。最初に書いたように、僕は人と自分を比較してみてしまうきらいがある。それ自体どうにかすべきことなのかもしれませんが、他人に対し無関心になり超然と振舞えるようになるには、それこそ途方もない時間がかかってしまうに違いありません。であるならば、無用の優劣意識に苛まれないようにするためには、当面の間は、他人についても客観的な事実を積み上げていき、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせておくことが重要ではないかと思います。人間観察の精度を高めると言ってもいいでしょう。言うは易く行うは難しという気がしますが、そこは気まぐれにやっていけたらと思います。

◆②「自信がある」とはどういうことか?

 続いて、「自信がある」とはどういうことか、について考えてみましょう。

 さて、皆さん既にお気づきかもしれませんが、ここまでの考察の中で、僕は「自信のなさを克服する方法」には言及してきましたが、「自信のつけ方」については一切触れてきませんでした。考察の中で僕がやってきたことは、「自信がない」という自己認識を不安の表れと読み換え、その不安を軽減させる方法について考えることでした。つまり、問いの立て方自体を変えていたのです。

 それには理由があります。哲学カフェの一連のやり取りを振り返る中で、「自信がある」という言葉は、自分に対して向ける言葉というより、他人に対して向ける言葉のような気がしてきたからです。いや、これはちょっと表現が悪かったかもしれません。言い換えましょう。すなわち、僕らが普段「自信がある」という言葉で言い表そうとしていることの中身は、僕らが自分以外の誰かを見て「あの人は自分に自信があるんだろうなあ」と感じる時の、その相手の振舞いの中にあるように僕には思えるのです。

 堂々とした立ち居姿の人を見た時や、落ち着きのある人を見た時、更には迷いなく行動できる人を見た時、僕らは「ああ、あの人は自信に満ちているなあ」と感じます。実は、自信という言葉の中身は、このように他人を羨むまなざしの内にしかないのではないかと、僕は考えました。先に僕は、周りから「あなた自信あるよね」と言われることで、自信のあるその人が生まれてくると書きました。しかし、それはたぶん違うのです。自信のあるその人というのは、本来存在しない。ただ、その人は自信のある人だと思っている我々がいるだけなのです。自信は一人で身に付けられるものではない、という話を、僕は噛み砕き直して、このように理解し直しました。

 そして、ここから、自信と行動力の結びつきを読み解く手掛かりも得られるように思います。不安に怯えず次々に色んなことをやってのける人を見た時に、僕らは「あの人は自信があるなあ」と感じる。それを僕らが勝手に、自信が行動の原動力なのだと読み換えているだけなのではないか。そんな風に思えるのです。

 「自分に自信がない」ということに拘泥していた僕は、「あの人は自信がある」というもう1つの視線の存在に全く気付くことができませんでした。しかし、「自信がある」ということの意味を考える時に肝心なのは、この相手に向かう視線だったのです。

 もちろん、この2つの視線はてんでバラバラというわけではありません。自分の心に不安が宿っていればそれは「自信のなさ」につながり、誰かの振舞いの中に不安の影が見られなければその人は「自信がある」人になるというように、〈不安の有無〉という部分で2つの視線はつながっています。ただ、ここで重要なのは、自分に視線が向かう時は内なる〈不安の有無〉そのものが問題になるけれど、相手に視線が向かう時は、あくまで〈不安がありそうかなさそうか〉というレベルでしかものを見ることができないということです。したがって、周りからは堂々として見られているけれど、当人は内心不安でいっぱいということもあるし、周りからは危なっかしいように見られているけれど、当人は至って平然としているということもあるというように、自信というテーマには常に、この見た目と内心のズレという問題が付きまとうことになります。

 なんだかややこしい話になってきたので、これ以上はやめておこうと思います。そもそも僕の考察の狙いは、あくまで、自信を巡り、自分に向かう視線と、他人に向かう視線を分けて考えるところにあったので、この辺りで考察を止めておこうと思います。

 最後に1つだけ。自信にまつわる問題のうち、見た目の問題として片づけられる部分があるならば、その点についてはある程度テクニック的に解決が図れるのではないかということを書き留めておこうと思います。姿勢を整えたり、話し方を調整したりすることで、自信があるように見えてくるのだとしたら、そこら辺は技術を身に付けることで解決してもいいのではないかと僕は思います。もちろん、僕はそれが自信問題の全てだと言っているわけではありません。むしろ、内面の問題、すなわち不安というものとどう向き合うかという問題の方が余程難解なわけですが、それについてはいずれ更に考察が深まった時に述べることにいたしましょう。

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 といったところで、哲学カフェの参加レポート、並びに、その内容を振り返っての考察を締めくくりたいと思います。最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。

 遅くなりましたが、1117日(日)に開催した哲学カフェのことを振り返っていこうと思います。同日夕方、京都・彩ふ読書会が開催された後、会場をそのまま利用して、読書会哲学カフェ研究会、改め「イロソフィア」の主催で、哲学カフェを行いました。

 哲学カフェとは、テーマを1つ決めて、みんなでともに考える集まりのことです。すなわち、「友だちって何?」「お金ってどれくらい大事?」「許すってどういうこと?」など、身近なテーマを扱い、日常の言葉を使って考えを深めていくという集まりです。いわゆる「哲学」の知識は一切必要ありません。大切なのは、自分の考えを表に出すことであり、他の参加者の考えを聴くことであり、それらを通じて、テーマを巡る考えを整理したり、新たな気付きを得たりすることです。

 彩ふ読書会哲学カフェ研究会、改め「イロソフィア」は、そんな哲学カフェに興味を持った読書会メンバーが集まり、1年前に読書会の部活動として誕生しました。最初のうちはメンバーが個々に参加した各地の哲学カフェの様子を紹介し合うばかりでしたが、今年の4月から自分たちでも哲学カフェをやろうということになり、読書会メンバーを対象にした哲学カフェをこれまでに4回開いてきました。そして今回、1117日夕方、満を持して、読書会の内外を問わず広く参加者を募集しての哲学カフェを開くことになったのでした。

 なあんて、随分カッコよく書いてしまいましたが、今回の哲学カフェは、イロソフィアの創設者かつ会長であるちくわ大先生の尽力により実現したものです。僕は当日の進行役を務めた以外特に何をやったわけでもないので、デカい面をひっさげなどせず、細々と振り返り記事をしたためることにしようと思います。

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 今回の哲学カフェのテーマは、「自信はどうやったらつくの?」です。テーマを提案したのは僕でした。端的に言って、僕は自分に自信がありません。「もっと自信をもてばいいのに」学生の頃から何度もそう言われ続けてきましたが、これという自信を持つことができないまま、僕は今に至っています。冴えない感じのする人を見下したり、才能溢れる人に嫉妬したり、思い切った行動を取れずにモジモジしたり……日々繰り返すそれらの行動は、つまるところ、自分に自信がないところから来るのではないか。そんなことを心のどこかで思っていたことが、今回のテーマ選定につながったような気がします。ともあれ、上のような問いを掲げたうえで、自信をテーマに哲学カフェをやるというのが、今回の目的でした。

 会場は、京都の梅小路にあるRentalSpace T7.5というところでした(普段の読書会は北山のSAKURA CAFÉというところで行われますが、今回は場所を変えての開催でした)。住宅地の中にある小さな工場みたいな建物に入り、2階にあがったところに開けていたレンタルスペースで、脱出ゲームのアジトを思わせるような秘密基地感溢れる場所でした。その場所に、14名の参加者が集まり、1610分ごろから2時間余り哲学カフェを行いました。

 さて、今回の哲学カフェの振り返りは、印象に残った話をどんどん振り返っていく前編と、それらの話を踏まえ自信についての考えを深めていく後編の二部構成でお送りしようと思います。先に書いた通り、僕は今回司会進行を担当したわけですが、同時に哲学カフェの一参加者でもあり、そして何より、上述のように自信というテーマにそれなりの関心をもつ者でもありました。ですので、この振り返りでは、司会として哲学カフェを公平かつ網羅的に振り返ることよりも、僕の心に残った内容を取り上げ、それらをもとに考え進めることを大事にしたいと思います。

 それでは、2時間にわたる哲学カフェの中で印象に残った内容を紹介するところから話を始めましょう。

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◆①「自信があるか/ないか」ではなく、「自分には何がどこまでできるのか?

 いきなりですが、「自分に自信があるかどうかなんて考えたことがない」という方の意見を振り返るところから話を始めようと思います。実を言うと、僕はこういう人のものの考え方を聴いてみたいと思っていたのです。自信の有無に拘泥せず、あっけらかんと生きている人の考え方の中にこそ、自信のなさとの向き合い方に悩んでいる自分を乗り越えていくための鍵が隠されている。そんな気がしていたのです。

 その方はこう話していました。「僕は自信があるとかないとか考えたことがなくて、ただ、自分は何がどれくらいできるのかってことを考えるだけなんですね。例えば、料理はできない、英語は道訊かれて答えられる程度、運動は走るのはできる、みたいな感じ。そうやって、自己評価を客観的な評価とつなげていくんです」

 予想していた通り、この話の中には、自信のなさに悩まないための重要なヒントが隠されているように、僕には思えました。ポイントは、自分の能力や現状について、客観的かつ具体的な分析を積み上げていくということです。僕はよく「あれはできる」「これはできない」というように、物事について「できる」「できない」という漠然とした評価だけを下していました。この漠然とした「できない」が、自信のなさにつながっていたのではないかと思います。そうではなく、何がどれくらいできないのか、逆にどこまでならできるのかを、具体的に分析していく。これだけでも、自分に対する認識は随分変わるのではないかと、僕は思いました。

 実際に、自分について詳しい理解を積み重ねていくことは、自信をつけるうえで有効な手法のようです。上の方の話に続けて、別の参加者からこんな話がありました。「自信をつける方法として、人にも自分に対してもやってきたことが2つあって。1つは、その人が行った事実を話すことなんですね。例えば、コレコレの仕事が何分でできたよとか。そういう事実を伝えると、自信がつくようになるんですね」この方法は実践するのもそれほど難しくなさそうですので、これから日々心掛けていこうと思いました。

 ところで、2番目の方の話に登場する自信をつけるもう1つの方法は、「ただひたすら、できるできる、できるって、と言い聞かせる」というもののようです(僕らはその場で「松岡修造方式」と命名しました)。何の根拠もないけれど、ただとにかくできるできると言い続け、自己暗示をかけると、本当にそれができるようになる。なんとなくわかる気はします。ただ僕は、根拠もないのにただできると言われると、自分が雑に扱われたような気になりそうだなあと思ったので、採り入れるならやはり、具体的な自己理解を深める方法にしようと思いました。

◆②自分に保険をかけるための「自信がない」

 続いて、「自信がない」という言葉の使い方に注目したやり取りをご紹介しようと思います。哲学カフェをやっていて面白いなあと思うことの1つは、テーマで取り上げた言葉を僕らは実際どのように使っているかが焦点になり、そこから議論が膨らむという展開がしばしば訪れることです。この手の話は、元々そのテーマを巡って考えたいなあと思っていたこととは違う内容になることも少なくないのですが、その分発見としては新鮮で印象に残りやすいものだったりします。ともあれ、「自信がない」という言葉を僕らが普段どのように使っているかというところから見えてきたものについてまとめてみましょう。

 「明日のスピーチ自信ないなあ」「今度のテスト自信ないよ」こんな物言いをした経験がどなたも一度はおありだろうと思います。ここで出てくる「自信がない」という言葉は、自己評価の低さからくる〈自信のなさ〉とはまた違ったニュアンスを持っているように思えます。むしろ、「自信がない」ということで、万一失敗してしまった時に傷つかないよう自分に保険をかけるという意味合いが強いのではないでしょうか。自信満々だったのに、いざスピーチをすると噛み噛みになってしまったり、テストの点数が悪かったりすると、ひどく落ち込んでしまいます。そのような事態を避けるべく、予め自己評価を低く見積もっておく。そのような心理の表れが「自信がない」という言葉なのではないか。そんなことを僕らは話し合っていました。

 もっとも、このような「自信がない」の使い方を単なる渡世術とみていいのかには一考の余地があるかもしれません。「それって、パフォーマンスと本心と半々の言葉だと思うんです」ある参加者からこのような発言がありました。つまり、もしスピーチで、テストで、失敗したらどうしようというその思いにウソはないということです。後になってみないと結果はわかりません。その結果に対して不安を抱くのは自然なことかもしれません。

 ちなみに、「自信がない」という言葉を、「面倒臭い」をオブラートに包んだ言い方として使っているという人もいました。「ちょっとこの仕事やっといてくれない?」「あーごめんなさい、自信ないです」これはまあ渡世術とみていいでしょう。

◆③何かをするのに、自信は必要か?

 哲学カフェが後半に差し掛かる頃、それまで静観してたある参加者から「自信って必要なんですかね?」という問いかけがありました。これはとても大事な問いかけだと思いますので、暫く検討してみることにしましょう。

 その方はまず、自信のなさの正体はできないことへの恐怖ではないかと指摘されました。そのうえで、ある時ヒッチハイクに出た経験をもとに、成功体験やできるという確証がなくてもいいんじゃないか、自信は必要ないんじゃないかということを話されていました。後からこの話を思い返すとき、ここで本当に問われていたことは、〈人はどうやったら新しい物事を始められるのか?〉〈どういうきっかけがあれば新しいことを始められるのか?〉ということだったように思います。確かに、新しいことにチャレンジするためには自信が必要のように思えます。しかし、別に自信があろうがなかろうが、新しいことを始める人というのもいるのです。この後、哲学カフェの中では、本当に必要なのは自信ではなく勇気ではないかという話が出たり、勇気と無謀の違いは何かというところへ話が進んで行ったりするのですが、その辺りの話はここでは置いておこうと思います。

 新しいことにチャレンジするきっかけにはどんなものがあるでしょうか。試しに、思いついたものをざっと挙げてみようと思います。①やむにやまれぬ状況になったから、②それがやりたいことだから、③人から薦められたから、④現状維持だと退屈だから……考えてみれば色々あるものです。それぞれについてより詳しくみていく必要もありそうですが、とりあえずここでは、新しい物事を始めることと、自信の有無とは、必ずしも関係がなさそうだということを確認しておくに留めたいと思います。

 そういえば、哲学カフェの中ではこんな話もありました。「自信というのは安定するために得るものだと思うんですね。なのに、なぜ安定を壊して不安定な状態に向かおうとするのか、すごく不思議ですね」不安なままだと落ち着かない、だから自信が必要なんだということであれば、自信は心を安定させるために必要なものということになります。しかし、この見方に従うと、ではなぜ自信のある人は、新しいチャレンジという成否の定まらない不安定なことに手を染めようとするのかわからなくなってしまいます。やはり、自信と行動力とがどう結びついているのかについては、丁寧に考えてみる必要がありそうです。

◆④自信は一人では身に付かない

 最後に、哲学カフェの終盤で繰り返し登場し、参加者を頷かせた話を取り上げることにしましょう。それは「自信は一人では身に付かない」という話です。

 例えば、ある参加者は「大人になってからでも、環境の力や周りの人のサポートなどで自信をつけられることもあるんじゃないかなと思いました」と話していました。ひとりであれこれ考えている時は不安でいっぱいだけれど、ここぞという場面になったら人は変われるし、誰かが手を差し伸べてくれたら安心感を得られることもある。自分のこれまでの経歴や体験にこだわらなくても、それ以外の人・ものとのかかわりの中で、自信は身に付けられるのではないか。この話からはそのようなことが伺えます。

 また、別の参加者からは「私よく人から根拠のない自信があるタイプと言われるんですけど」という話がありました。過去のことを顧みるなどせず、深く考え込まないで行動していると、周りから自信があるように見られたという話でした。この方の話の興味深い点は、自分に自信があるかどうかということに、ご自身では一切言及されなかったことです。しかしながら、この方は最後に、「自分の自信はひとりではつくれない」と話しておられました。きっと、この方は、自信があるように見えると言われることを通じて、自信がある(であろう)自分になれたのだと思います。

 自信が持てるということと、周りの人からの評価との関係については、他にも色んな話が出ていました。いずれにせよ、自分自身のこれまでから自信の有無が決定されるわけではないというのは、僕の中ではありそうでなかった発想で、興味深いものでした。

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 以上、哲学カフェの中で印象に残った話を紹介してきました。結構バラバラっとした紹介になってしまったのではないかと思います。僕自身、印象に残った話を書き出してみた時、「あれ、この話とこの話はどうつながるんだろう?」ということが気になって仕方がありませんでした。というわけで、以上のやり取りを踏まえたうえで、自信というものについてこれからさらに考察を深めていこうと思います。もっとも、振り返りも既に5,000字を超えてしまっていますので、考察は記事を改めてお送りしたいと思います。それでは。

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※哲学カフェの網羅的なまとめについては、ちくわ会長による記事をご参照ください。




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