ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年10月

 みなさまこんばんは、ひじきでございます。

 いきなり挨拶から入ったのにはわけがございます。というのも、今日1024日は、このブログにとって特別な日なのでございます。

 ……なに、言いたいことがタイトルで丸バレだから、勿体つけずに早く言え? 今頃になって何をおっしゃるのです。このブログは始まった時から、つけなくてもいい勿体をつけることで成り立っているようなものなのですよ。ウソだと思うなら、ホラ、試しに、記念すべき第1回の書き出しを読んでごらんなさい。

 日記の最初の1ページには、どんなことを書くものだろうか。
 事始めに当たっての決意表明だろうか。
 それとも、いつも変わらぬ日常の風景だろうか。
 ああ、わからん。どうしたもんかわからん。
 ああ、いかん。こうしたことではいかん。
 こんなことで悩んでいては、日記風ブログなど始められようか。


 なんですかこれ。自分でも読み返して恥ずかしくなりましたよ。とにかく、まあそういうわけで、書き出しを決めあぐねて、「さあ今からブログを始めるぞ」というためだけに実に6行、136文字も使うところからこのブログは始まったのです。勿体つけるのはお家芸みたいなものです。すみませんが、堪えてください。

 それにしても、1年前の僕は何を書けばいいかわからないでいたんですね。意外です。ブログ最初期の僕は、とにかく日々の生活のどんな些細な事でも、「あ、これ面白いや」といって記事にしていた、そんな覚えがありましたから。今みたいに、「あー今日も何もなかったなあ」で済ますようなことはまるでなかったと思っていたんですね。ところが、こうしてみると、僕はしょっぱなから書きあぐねている。まるで変わってないんだなあという感じがします。というか、こんなに書きあぐねているのに、よくもったなあ、1年……

◇     ◇     ◇

 改めまして——20191024日をもちまして、当ブログは開設から1年を迎えました。この間に2度ブログタイトルを変えているので、何が1年続いたかと訊かれたら、当ブログが続いたのだとしか言いようがない気がします。ともあれ、1年続きました。

 日頃とにかく飽きっぽく、固い決意をしてもあまりにカチコチすぎる故に却って瞬時に粉々に砕け散らせてしまうという不甲斐ないことばかり繰り返している僕が、なんとか1年ブログを続けてこられたのは、いつもブログを読んでくださり、「面白い」という感想を寄せてくださる皆さまのお陰だと思っています。

 実際、ブログを始めた当初は、こんなに大勢の方に読んでいただけるとは思ってもみませんでした(現時点での訪問者数はのべ4,900人を超えます)。最初の2ヶ月くらいは、日に5人読む人がいたらまだいいようなものだったのです。それが、読書会のレポートを書くようになったことで瞬く間に状況が変わり、色んな人がブログを訪れてくれるようになりました。最近では何かあると「レポート楽しみにしていますね」とさらっという人まで現れるようになっています(特に“〇長さん”)。完全に僕が書くのありきなんですね。いや、だいたいのものは結局書くんですけど。

 ともあれ、大勢の方に読んでいただきながら、ここまでやって来ることができました。本当にありがとうございます。

◇     ◇     ◇

 さて、これからです。最近の僕は、もはや慢性化しつつある疲労感とネタの枯渇という2つの悩ましい問題を抱え、読書会のレポートを書いたら、あとはへなへなと45行の弱音を書くのがやっとというのを繰り返しているような有様です。どうにかできないか、ずっと考えてきたのですが、残念ながら、どうにもできずにここまで来てしまいました。

 しかし、漸くにして、現状打破の方法が見えたような気がします。奇しくも、その感触を得たのは昨日のことでした。それは、実に単純なことでした。

 もっと素直に書く。もっと正直に書く。

 これだけです。ウケを狙うのでも、カッコをつけるのでもなく、徹底的にバカ正直に書く。この誓いも何度か立てている気がするのですが、結局貫き通すことができず、気付けばウケ狙い、また気付けばエエカッコしぃということを繰り返して、僕はここまで来てしまいました。しかし、こればかりは、ポキリ折れたからといってそれっきりにせず、事あるごとに思い出し何度でも意識したいなと思います。

 もっとも、バカ正直になろうという誓いを肩肘張って立てることほどバカげたことはないような気もします。バカ正直になるとは、つまるところ肩の力を抜くことに他ならないからです。どうせ文章を書くのなら、自分がラクになれるものを書きたい。そして、それが同時に、他の人が読んでも楽しめるようなものになればいい。そんなことを、僕はいま考えています。

 幸いなことに、このブログの魅力は素直であることだと、これまでに何人かの方からコメントをいただいてきました。それが魅力なのなら、その魅力を押し広げるまでのこと。というより、魅力を押し広げることが、僕がこれから目指したいことと重なっているのですから、願ったり叶ったりです。

 というわけで、もっとバカ正直になる、ということを意識しながら、2年目を迎えたいと思います。これからも、当ブログと、ごったごたに煮込まれているはずなのに煮ても焼いても食えなさそうなひじき氏のことを、ちょこちょこ見に来てやってください。よろしくお願いします。

 昨日の日記の最後にチラッと書いた通り、21時から「彩読ラジオ」の放送があった。予定では、僕は今日、放送されたてのラジオの感想を書くことにしていた。しかし、申し訳ないが、この話はまた後日とさせていただきたい。放送終了後、いや、放送中からそうだったのかもしれないが、わけもなく疲労感が沁み出てしまった。いまの自分に、ラジオの振り返りはおよそ不可能だ。そう判断し、気持ちの整理をすべく予定外の文章を書くことにした。それが精一杯だった。

 どうもこのところ疲れやすくて困る。気持ちの整理を進めるうち、こんな風にはなりたくなかったのにという思いがむくむくと湧いてきた。そう思うと、少し気分が軽くなった。自分がいま、何をどう感じているのか、それを最も的確に表す言葉が見つかると、気分がふっと和らぐ。その瞬間があったことが、せめてもの幸いだった。

 さて、次回もまた特別なものを書くと決めていた。こちらの方は予定通り書けるといいなと思う。

 前回に引き続き、1020日に京都北山のSAKURA CAFÉで開催された彩ふ読書会の模様をお伝えしようと思う。前回の記事では、午前の部=「推し本披露会」について書き綴ったので、この記事では引き続き、午後の部=「課題本読書会」の様子をご紹介するとしよう。

 今回の課題本は、又吉直樹さんの『劇場』である。大阪から上京し、東京・下北沢の街で本物の演劇の実現を目指す歪んだプライドまみれの主人公・永田と、思いがけない形で永田と知り合い、ひとつ屋根の下で暮らすことになった青森出身の沙希。2人の若者の出会いから別れまでを、彼らを取り巻く人物とのやり取りも交えて描きつつ、理想と現実の捻れや、そこから沁み出る人間の姿などを描いた小説である。後で詳しく見るように、僕の参加したグループでは、永田を中心に何人かの登場人物についての考察を通して、本作の読みを深めていくことになった。

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 課題本読書会は、1340分ごろに始まり、1520分ごろまで続く。参加者は68名程度のグループに分かれて座り、総合司会より読書会の流れや注意事項についての説明を受けた後、グループ内で課題本について話し合う。今回は21名の参加者がおり、グループは3つ用意されていた。15時ごろになると、グループでの話し合いは終了となり、全体発表に移る。これは、各グループの話し合いの内容を共有するためのもので、代表者1名(たいていの場合ベテランが担当する)が発表を行う。全体発表が終わると、今後の読書会や各種部活動に関する告知を挟んで、読書会は終了となる。

 僕はBグループに参加した。メンバーは全部で7名。男性4名・女性3名、初参加の方と参加2回目の方が合わせて3名・ベテランが4名という構成で、バランスが良かった。グループの進行は僕の担当であった。この進行の方法は人によって異なるが、僕はある時期から、付箋を用意し、最初の10分程度で感想などをそれぞれに書いてもらい、その付箋の内容をもとに話を広げるという方法を採っている。今回は黄色と青の2種類の付箋を用意した。そして、黄色の付箋には『劇場』の感想を自由に書いてもらい、青の付箋には「もしかしてこれ、自分だけが気にしているんじゃないだろうか」と思ったことを書いてもらった。もっとも、どちらの付箋を巡っても、結局のところ同じような話が展開したので、以下では付箋の区別は気にせずに、出てきた話題をぽんぽんと拾っていくことにしたい。

 それでは、『劇場』を巡る課題本読書会の模様を、たっぷりご覧いただこう。

◆永田を巡るあれこれ①:「図太いヒモ男つらい」

 Bグループでは、主人公である永田を巡って様々な話が飛び交いました。ですので、永田に関する話を紹介するところから振り返りを始めたいと思います。なお、永田を巡る話には、大きく、①永田を批判するもの、②永田の中に良い部分を見出そうとするもの、③叩かれやすい永田という人物を描くことが書き手に対して持つ意味を探ろうとするものの、3つのパターンがありましたので、それぞれ見出しを付けながら順番に振り返っていきたいと思います。

 まず、永田を批判する発言から見ていきましょう。もとより、『劇場』という作品を読めば、誰だって永田を叩きたくなるんじゃないかと思います。かくいう僕も、「永田はクズ」とはっきり付箋に書いています。

 永田を叩くための根拠は枚挙にいとまがありません。とにかくヘンにプライドが高くて、自分は偉くて正しいと思い込んでいる節がある。それだけならまだいいのですが、それゆえに自分以外の人間を悉く見下しており、それが言動にまで反映されてしまうのだから始末に負えません。かつての劇団仲間である青山という女性が、永田と沙希の行く末を心配し、沙希に働きかけて2人を別れさせようとした際、永田は青山に対し、文庫本見開き1ページ以上に渡る、人格批判のオンパレードともいうべき長文メールを送り付けるのですが、ここなどもう見ちゃいられないというか読んじゃいられないという感じがします。

 永田の演劇がヒットする気配は全くないのですが、彼はそれを自分が未熟だからと思う素振りはこれっぽっちも見せません。悪いのは自分の演劇の良さを理解できない観客や、その劇を上手く成り立たせられない他の関係者だと考え、自分のスタンスを変えようとはしないのです。

 そのため、永田は1人で生計を立てることもままならず、沙希のアパートに身を寄せ、生活費を全て沙希に払わせています。そして、午前中はごろごろして、午後になってものっそりして、夕方になって漸くちょっと何か書くというような生活を送っています。沙希の知り合いからは逃げるようにして生き、それでいて沙希の周りに寄ってくる男に対しては異様なまでに嫉妬深い。沙希が先輩からもらった原付を事故を装って壊して代わりに自転車を買って寄越すというちぐはぐな行動を見せた時には、僕は呆れかえって言葉も出ないほどでした。

 永田を巡っては、僕の「クズ」というストレートな感想の他にも、「前半読んでいて疲れた」という表現でもってその言動の不可解さに辟易とする感想があったり、「永田はずっと夢を見ていて現実から目を背けている」と彼の抱える問題の根っこを指摘するコメントが出たりしました。その中でも特にインパクトがあったのが、ある女性参加者の次の感想です。

「図太いヒモ男つらい」

 あまりの名言ぶりに僕らは思わず喝采してしまいました。女性からみれば、ゼッタイに付き合いたくない男ランキングの上位に余裕で食い込みそうな男が、1人の女性に寄生するようにして暮らし、なおかつその女性すら顧みないで高邁な理想を振り回す様を読書中延々と見せつけられているわけです。「つらい」でもまだ表現としては手ぬるいくらいかもしれません。

 もっとも、「永田は図太いんでしょうか?」という疑問は後から出ていました。この女性参加者は「えー図太いでしょう」と言っていましたが、「でも永田って繊細な面もありそうですよね」という参加者もいました。これを書きながら思ったのですが、永田のプライドには根拠がなく、そのために彼は自己防衛に走りがちな面があるような気がします。それが生活面では現状維持という形で現れるために、沙希にすがる生き方から逃れられなくなったのでしょう。長い間ヒモで居続ける姿は、確かに「図太い」とも受け取れそうです。

◆永田を巡るあれこれ②:夢追い人としての永田

 ここまで見てきたように、読書会の中では永田に対する辛辣な評価が相次いだのですが、一方で、永田の中に理解できる部分を見出そうとする意見もいくつか出ていました。彼のことを全面的に肯定できるわけでも、彼に対し共感できるわけでもないけれど、一部分だけ切り取ってみれば理解はできるんじゃないか。そんなことを、これらの意見は静かに主張していたように思います。

 その中でも特に興味深かったのは、初参加の男性の「永田は自分の夢に対して真摯ですよね」という意見でした。演劇に生き、本物の演劇を作り上げ、演劇によって名を馳せたい。その思いにおいて永田は一途であると、この方は言います。「その部分については、自分に引き寄せてもわかるなあという感じがしました」。

 永田を批判する意見の中にも「永田はずっと夢を見ている」というものがありました。言われてみれば確かにその通りなのですが、僕自身は永田の純な一面をきちんと言葉にして理解できていなかったので、この見方は新鮮でした。生活の現実、或いは、同世代の他の劇作家に先を越されているという現実を直視せず、自分の夢に溺れる永田。その姿は、批判されてしかるべきかもしれません。しかし、その馬鹿らしさについ自分を重ねてしまう人もいるのです。「幼稚さを失うと、夢を追えなくなる」そういう男性の言葉に、僕らは、永田の性格がそう簡単に割り切れるものではないことを教えられたような気がします。

◆永田を巡るあれこれ③:醜い主人公を描くことについて

 永田について、もう1つ、違った視点からの意見をご紹介しましょう。それは、永田のような醜い人物を描くことにどんな狙いがあるのかを問うものです。この意見を出してくださったのは、参加2回目の男性でした。この方はそもそも、僕らが永田の言動の数々を非難しているところへ、「自分自身を振り返ってみれば、同じようにイヤな部分があるんじゃないか」という疑問を投げかけ、牽制を試みようとするなど、永田の醜さをじっと受け止めようとしている方でした。そのうえで、「小説を書く時に醜さを描くのはとても大変なことだと思うんです。だったら、そこにどんな狙いがあるんだろうと思って」という話をされていました。

 この方が出してくださった論点については、僕自身ぼんやり考えてもいました。永田をクズだと一刀両断した僕ではありますが、他人様を平気で非難できるほど自分は立派な人間なんかじゃないという意識は、僕も人並に持ち合わせているのです。ただ、永田の醜さを11つ掬い取って「じゃあ俺はどうなんだ」と問い掛けるのは手間がかかってしまうので省いてしまったのでした。その代わりに、僕もまた、醜さを表現することの意味についてあれこれ考えを巡らしておりました。

 あくまで僕個人の考え方ですが、書き手が人間の醜さの表現を試みる時、そこで意識されているのは、書き手自身の、己の醜さをどう受け止めればいいのかという迷い・悩みであるように思います。読み手に何かを問うなどということは、そこまで考えられてはいますまい。書き手自身が、迷い・悩みを軽くすること、その糸口を掴むことを求めている。そしてそのために、身の内にある醜さを表に出して、距離を取って掬い上げてやりたいと願う。その時、表現が生まれてくる。僕はそういう風に思うのです。

 同時にこうも思います。内なる醜さは、自分自身を語り手にして書くのは非常に難しいものであると。もちろんその理由の1つは、自分がイヤな人間だと表明することで周りの人間から白い目で見られるのを避けるためでしょう。しかし、書き手自身にとって、それと同等かあるいはよりいっそう深刻な理由は、自分を語り手にしてしまうと、書くという行為そのものによって、自分自身の醜悪な言動の数々が思い出され、ますます激しい自己嫌悪に苛まれることになるからというものだと僕は思います。いずれにせよ、書き手は、書きたいことが自分にとって辛いことであればあるほど、自分という存在そのものから離れた語り手を必要とするようになる。そこに、純文学というフィクションの生まれる契機がある。現実そのものからさえ一旦距離を取ったフィクションの世界で、書き手は己の内なる醜さを、架空の(=自分ではない)人物に告白させる。そうすることで、なにがしかの救いを得ようというのが、書き手の意図にちがいないと、僕は思います。

 ところで、この機会に“その先”を考えておくことも重要でしょう。すなわち、作家の独白に等しい文章が、本になり、僕らの手に渡り、読まれるとき、そこで何が起こるのかということを、です。もっとも、その一端は既にご覧いただいた通りですが。さて、醜さが批判の対象となることについては、書き手も織り込み済みでしょうから、ここではやはり、その醜さが、程度の違いこそあれ誰の内にもあるものだと読者が受け止めるという側面に光を当てたいと思います。ここまで展開してきた考察を踏まえると、その気付きは作者が狙って引き起こしたものではないということになります。すなわち、それは読者自身が個々に自由に見出したものである。書き手と読者は直接つながっているのではなく、ただ、それぞれの迷い・悩みが、雑多な日々の中で埋もれ忘れ去られていた何物かが、ぼんやりと彷徨い出したに過ぎない。そこにあるのは、共感ではない。強いて言うならば、共振である。僕らは互いに、気付きに突き動かされ、静かに震えているのだ。

 なんだかすごく真面目に語ってしまいました。ここでやりたかったのは、人間の醜さを書くというのは何のためかということ、そして、その時にどうやって純文学なるものが生まれるのかについて考えることでした。僕自身、言いたいことがあったために、ついついこんな感じになってしまいました。問題提起してくださった男性の方は、どうお考えだったのでしょうか——

◆沙希について

 読書会の振り返りに話を戻したいと思います。永田についての感想・意見は十分紹介しましたので、他の登場人物についての話をご紹介しましょう。まず、永田の恋人であり、20代の殆どを彼とひとつ屋根の下で暮らした沙希に関する話をまとめてみたいと思います。

 ざっくり言うと、Bグループでは、沙希は〈とにかく良い子〉という感想ばかりが出てきました。夢追い人の永田を支え、彼に気を遣い続け、しかしまるで報われることなく病んでいき、遂に郷里へ帰らざるを得なくなった沙希に対しては、「ほんとにいい子」「沙希がいたから永田は世捨て人にならずに済んだんだと思う」「沙希がしんどくなっていくのが辛かった」という感想が相次ぎました。参加2回目の女性の方は、「沙希ちゃんは又吉さんの理想の女性なのかなって思いました。(夢や目標に向かって)走り続けている人を支えてくれる女性、自分だけがスゴイと思っている人をずっと好きでいてくれる女性、そんな女性として描かれているのかなと」と話していました。

 僕も沙希については考察の目を向けていました。僕にとって疑問だったのは、沙希はどうして永田と付き合ったのかということでした。その答えを、僕は作品を読み返すことによってではなく、身近なある人物の言動から導き出そうとするという、およそ文章読解らしからぬ方法で導き出してみました。僕の身近な人物に、村上春樹や三島由紀夫の作品に登場する常人離れしたややこしい男性のことをやたらと面白がる女の子がおりました。彼女はそれらのキャラクターに没入したわけではないですし、幸いにして現実世界で同じような男を探すことはなかったのですが、ともあれ、このややこしい、常人離れしたキャラクターを面白がる心性を、僕は沙希の中に見出すことにしたのです。つまり、もっと抽象化していえば、その人にとっての“普通”とは違うものを無条件に凄いと感じ、それらに憧れを抱き魅かれていく心性を見出そうとしたのです。そしてそれは、善悪良否の判断基準がまだ十分に育っていない若い人の未熟さ(なあんて26の僕が言ったら滑稽だけど)や、形がなく揺らぎやすい自分を好きになれない気持ちの表れではないかと、僕は思ってみたのでした。

 沙希と永田が付き合った理由については、他にも、「沙希もまた地方から上京してきた子で、東京で孤独を感じていて、自分に構ってくれる人がいたことが嬉しかったからではないか」といった意見も出ました。ちなみに、話が進む中で、僕がプチ暴走を起こしてしまいます。僕の周りでは、美人の女性が周りからみればダメ男としか言いようのない人と付き合うという事例がやたらと多いのです。それを急に思い出し、「沙希ちゃんって美人なんですかね」と、これまた経験則の浅知恵みたいなところから話を広げてしまいました。おまけに、作中で美容モデルにスカウトされるシーンが何度か登場することから、確かに沙希は美人らしいというところに話が落ち着いたのですが、果たしてそれで良かったのやら……

◆青山について

 もう1人、永田のかつての劇団仲間であり、物語の後半で永田と沙希の関係に大きな影響を与えていく青山という女性キャラクターのことが話題にのぼりましたので、彼女に関する話もまとめておこうと思います。

 青山に関する最初の発言は、あるベテラン女性からの「青山さんは意外といい人だった」というものでした。確かに、永田の劇団を去る時の青山はあまりいい印象のキャラクターではなかったのですが、物語の後半で、永田にライターの仕事を斡旋したり、行く末を心配し永田と沙希を別れさせようと働きかけたりする青山は、姉御肌で面倒見のいい人という感じがしました。

 永田が夢の世界の住人であるという話をもとに考えると、青山は、彼の対極に位置する作中最も現実的な人物であるように思います。さらに、青山は永田からメールで激しく攻撃されても一度は反論を試みるなど、強い一面の目立つ女性です。それは、同じように現実を生きようとしながらも、次第に病んでいってしまう沙希の姿とは対照的なように思えました。青山についての考察を深めることで、永田や沙希についての理解も深まり、さらに、それぞれの登場人物の布置・対比関係まで読み解くことができたのは、僕にとってとてもいい収穫になりました。

◆その他、こぼれ話

 グループトークの振り返りの最後に、ここまでの考察に含められなかった話を幾つか挙げておこうと思います。

 ▶「永田の様子を見ながら、人生で成功するにも期限があると感じた」——初参加の男性がこんな話をされ、他のメンバーは大いに頷いていました。金銭の問題、結婚の問題、その他もろもろを含んだ生き方の問題……夢に生きたければ、それら様々の現実的な問題が避けて通れなくなる前に、夢を叶えなければならない。残酷ですが、本当のことだなあと思いました。

 ▶「沙希ちゃんがアパートを引き揚げた後、永田が家賃を肩代わりして払っているけれど、そのお金はどこから出てきたんだろうと思った」——ベテラン女性の発言です。実はこの方、5月に『砂の女』の課題本読書会で「毎日砂をかき出しているということは、女はきっと筋肉ムキムキだと思う」と話しその日の話題をかっさらっていった方なのですが、今回もトークが終盤に差し掛かったところで、いきなり凄い角度からリアリティをぶち込んでくださいました。おまけに、「東京の地価で、本棚が2つ置ける部屋だから、家賃はたぶん月8万くらいで」と、計算まで現実的。これだこれ、と、僕はひとりテンションを上げまくっておりました。もっとも、青山が永田に斡旋した文筆業での収入の相場がわからなかったので、疑問そのものは解消しなかったのですが。

 ▶沙希が永田を呼ぶ時の「永くん」は、「えいくん」か「ながくん」か——いよいよ全体発表間際という段になって、このテーマで異様に盛り上がってしまいました。もともとは、沙希が永田と最後に会った時にどんな話をしていたかを振り返っていたのですが、その台詞の中に「永くん」という文字が出てきて、「これはどう読んだらいいんだ!?」ということが話題になったのです。僕は「えいくん」と読んでいたのですが、「ながくん」派も少なくありませんでした。「『えいくん』の方がカップルっぽいですけどね」と言いつつ、でもどうなんだろうと首をひねっているうちに、残念ながらグループトークは終了となってしまいました。

◆全体発表

 それでは、最後の最後に、他のグループの話し合いの様子について、全体発表の内容に即して見ていきたいと思います。

 Aグループでは、ひとりひとり感想を言いあった後、登場人物同士の関係性や又吉先生のことなどを中心に話し合ったそうです。興味深かったのは、「沙希の闇も深い」という話が出ていたことです。永田と沙希の関係はいわゆる共依存の状態で、永田がいなくても沙希は何かに依存していたと思うというのが、このグループ話の流れだったようでした。既に見たとおり、Bグループでは、沙希はとにかくいい子という話ばかりしていましたから、沙希にもまたややこしい面があるという解釈はとても新鮮でした。

 Cグループでは、「永田はヤバいヤツ、でも人間味はある」「文体は笑えるけれどしんみりした話だった」「恋愛小説なのか疑問」「話の終わり方がボヤっとしているのと、推理小説みたいにスパッと綺麗なエンディングを迎えるのとではどちらがいいか」「東京の地理がイメージできない」といったことが話題にのぼったようでした。やっぱり永田はヤバいのかというのがツボでした。東京の地理がイメージできないというのは、僕も中高生の頃漱石の小説でイヤほど経験したので気持ちはわかりますが、そんなことを言い出したら、森見さんの作品を読んで「京都の地理がイメージできない」という人が現れるに決まっていますから、ここはグッとこらえていただきたいなと思います。

◇     ◇     ◇

 といったところで、午後の部の振り返りを締めくくろうと思います。以上で読書会本編の振り返りは終了となりますが、例によって夕方の「ヒミツキチ」の時間が残っていますから、振り返りはあともう1回続きます。皆さま、もう暫くお付き合いください。

 ところで、「ヒミツキチ」の振り返りはいつもならこの後すぐ続くのですが、今回は事情により間に2回別の記事を挟むことになりそうです。そのうち1回は、彩読ラジオの話をする予定です。1023日(水)の21時から、ゆうさん・ヅカ部長・おでん会会長の3名でニコ生を使ったトークショーが行われますので、たまにはリアルタイムで振り返りを書こうと思います。そしてあともう1回ですが、これは当日のお楽しみとします。こちらもご期待ください。

 1020日日曜日、京都の北山にあるSAKURA CAFÉというところで、10月度の京都・彩ふ読書会が開催された。というわけで、例によって、これから数回に分けてこの読書会の模様を振り返っていこうと思う。

 彩ふ読書会は、現在、大阪・京都・東京で定期的に開催されている読書会で、京都では、原則として毎月第3日曜日に、上述のSAKURA CAFÉにて行われている。毎回、①午前の部=参加者がそれぞれお気に入りの本を紹介する「推し本披露会」、②午後の部=決められた課題本を事前に読んできて感想などを話し合う「課題本読書会」の二部構成であり、片方だけの参加ももちろん可能である。また、京都の彩ふ読書会では、午後の部終了後も会場を借りており、メンバー同士が自由にお喋りしたり、ゲームに興じたり、持ち込み企画で盛り上がったりする「ヒミツキチ」という時間も設けられている。この記事ではまず、①午前の部=「推し本披露会」の様子を、僕が参加したグループに即して見ていくことにしよう。

 推し本披露会は、毎回、1040分ごろに始まり、12時過ぎまで続く。参加者は68名ごとのグループに分かれて座り、総合司会から読書会の流れや注意事項について説明を受けたのち、グループの中で持ってきた本を紹介し合う。1145分ごろになると、グループでの話し合いを切り上げ、全体発表に移る。これは、他のグループで紹介された本を知るためのもので、参加者はそれぞれ、名前と本のタイトル、そして、本の推しどころをまとめたメッセージカードの内容を読み上げる形で自分の本について紹介する。全体発表が終わると、今後の読書会や各種部活動についてアナウンスを経て、読書会は終了となる。

 今回僕はCグループに参加した。メンバーは全部で6名。男性4名、女性2名という構成で、初参加者が1名、参加2回目の方が2名それぞれいらっしゃった。進行役は、京都読書会の第1回から参加されているベテラン男性が務めてくださり、僕はフォロー役という、実質的には何をするでもない気楽な役どころでの参加となった。

 紹介された本は写真の通りである。では、それぞれどんな本なのか、そして、グループの中でどんな話が展開したのかについて、順番にみていくことにしよう。なお、推し本の紹介をする段になると、どうしても「ですます調」じゃないと書いていて落ち着かなくなるので、ここからはソフトな語り口でお楽しみください。

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◆①『ひなた弁当』(山本甲士)

 最近毎月参加してくださっている男性からの推し本。リストラされた中堅会社員が、日中ぶらぶらしていた公園でドングリを拾ったことをきっかけに、子どもの頃“ごっこ遊び”でドングリのご飯を作ったことを思い出し、仕出し弁当を作る仕事に就いて再起を図る姿を描いた小説です。どん底から這い上がっていく過程で、主人公は様々な出会いを重ね、だんだん明るくなり、家庭環境も良好になっていきます。その姿に胸打たれると共に、自分の職を自分で見つけるという発想の転換の大切さを教えてくれる作品だと、紹介した方は話していました。

 読書会の中では言えなかったのですが、話を聞きながら、僕はふと、吉本ばななさんの小説『キッチン』を思い出していました。3月に大阪の課題本読書会で話し合った際、『キッチン』というタイトルには、食べ物を口にすることによって人は生きていくということが象徴的に表されているという意見があり、とても印象に残ったのですが、本作でも、主人公の再起を助けるものは、お弁当になっています。人が生きるうえで大切なものは何か。そんな隠れた問いかけが、『ひなた弁当』という小説にもあるのかなと、ひそかに思ったものでした。

◆②『侍女の物語』(マーガレット・アドウッド)

 参加2回目の女性からの推し本です。海外に長く住んでいらしたとのことで、30年前にカナダで発行され、近年ドラマ化されて欧米で脚光を浴びているというディストピア小説をお持ちくださいました。

 物語の舞台は、キリスト教原理主義者によるクーデターが起こった後のアメリカ合衆国、改め、ギルアド。そこでは少子化が進行しており、出産可能な女性が「侍女」と呼ばれ、司令官という人々の子どもを産む役割を担わされていた。「侍女」は名前を剥奪されて司令官の所有物となり、さらに、子どもが産めなくなると「侍女」ではなくなり「女中」として扱われるようになる。制度化されたレイプのような扱いを受ける「侍女」の1人の視点から、物語は紡がれるという。

 役に立つ者と立たない者が線引きされ、役に立たない者(立たなくなった者)は容赦なく切り捨てられていく。そんな残酷な社会を描いた本作は、発刊当初から議論の的になっていたそうですが、上述の通り、最近になって改めて注目されているといいます。差別的な風潮が強まる中で、その風潮を問い直す材料になるからなのでしょう。振り返ってみれば、日本でも「生産性」という言葉がとやかくされたばかり。やはり今だからこそ読んでおきたい作品かもしれません。キツい内容を扱った小説ですが、紹介した方曰く、「読み出したらやめられない」とのことです。ますます気になりますね。

◆③『コンビニ人間』(村田沙耶香)

 初参加の男子学生さんからの推し本です。コンビニ店員の女性と彼女の家に上がり込んできた風変わりな男との生活模様を描くことで、世間的に良しとされている「普通」の感覚に疑問を投げかけた、芥川賞受賞作です。紹介した方曰く、本作の推しどころは3つ。1つは、上述の通り世間の目に疑問を投げかけるメッセージ性の強さ。1つは、コンビニという場所や登場人物の性格など、作品の要素の配置の巧みさ。そして1つは、長過ぎず一瞬で読める手軽さだと言います。また、世間で良しとされる価値観に流されかけながらも、結局コンビニ店員として1人生きていくことを選ぶ主人公の原点回帰が潔くていいという感想もありました。

 『コンビニ人間』は僕も一度読んだことがあるのですが、その頃僕は文系大学院生という実に普通ならざる存在で、「普通とは何か?」という問いをギラギラ突き付けてきた本作に対しては、ただただしんどい作品というイメージしかありませんでした。そんな話を正直にしたところ、「そらそうやろなあ」という笑いと共に、意見交換が盛り上がりを見せてくれました(「落ち込んでいる時に読むもんじゃありませんね」「でも村田さんのほかの作品に比べると、これはまだ破壊的ではないんですよ」「ぐえぇ」みたいな感じで)。決していい思い出ではないのですが、声に出しておいてよかったです。うん、よかったよね……

◆④『有頂天家族』(森見登美彦)

 参加2回目の女性からの推し本です。出ました、森見登美彦。それも『有頂天家族』! 6月の課題本読書会が懐かしく思い出されます。もっとも、推し本で森見作品が出てきたのは割と久しぶりだったので、結構新鮮な感じがしました。

 紹介された方、粗筋の説明にたいへん苦労されていました。そりゃそうだろうと思います。狸と天狗と人間の三つ巴が織りなすドタバタコメディーファンタジーという、しっちゃかめっちゃかな説明以上に、この作品を何と語ればよいのやら。そんな中、初参加の男子学生さんから助け舟が出ました。「森見さんの小説は、物語というより体験ですから」何たる名言。而して実に的を射たり。皆さまにはどうか、とにかくまずこの本をてにとっていただき、その言葉の意味を噛みしめていただきたいものです。

 ところで、読書会の前日、僕は森見先生のトークセッションに参加していたのですが、その中でこんな話がありました。『有頂天家族』のテーマとも言うべき「面白きことは良きことなり」は、日常生活の中では言えない言葉である。だからその言葉が言える世界を書きたかったのだと。父親が叔父(父その人からすれば実弟)の謀略により鍋にして食われるという悲惨な出来事がありながら「面白きことは良きことなり」といえる世界は、人間を主人公にしては出てこない。だから狸の話になったのだと。——ということは、ファンタジーのフィルターを外してしまえば、『有頂天家族』は、『コンビニ人間』とは違う方向性ながら同程度の破壊力を有する危険小説、ということになるのでしょうか……?

◆⑤『関西魂~ラブコメカニタマ~』(関西作家志望者集う会)

 僕の推し本です。先月、文学フリマ大阪で買った推しサークルの同人誌を紹介しました。関西在住で作家を目指している方々(作家デビューしている方も一部いらっしゃいます)が年に1回発行する短編集『関西魂(かにたま)』。毎回テーマが違っており、この巻には「ラブコメ」というジャンル縛りで書かれた作品が収録されています。

 転校したての大人しい小学生がクラスの女の子に一目惚れしてから話し掛けるまでを描いた爽やかな作品。2人のバンドマンが、植物状態になったボーカルの女の子の声を宿す楽器を持ってラストライブに臨む思わずウルウルくる作品。惹かれた高校生男女がなぜか互いを凶器で襲いにかかる、編集段階で「ラブコメか?」と疑問を呈されたと噂の作品。そんなとりどりの作品が1冊に詰まっていて、楽しみながらサクサク読めました。

 話をしているうちに気付いたのですが、僕がこの本を、というより、「開催作家志望者集う会」というサークルを推しているのは、文学フリマの際にブースでサークルの方々と話をしていて、その楽しそうな姿に魅かれたからなのだと思います。作者と直接話せるのが文学フリマの魅力だということを、改めて思い出すことができました。

 この本、このサークルもさることながら、まずは文学フリマに足を運ぶ人を増やしたい。そんなことを思う、文フリ一般参加者のひじきでありました。

◆⑥『物語 オーストリアの歴史』(山之内克子)

 進行役を務めてくださった、歴史とボードゲームをこよなく愛する男性からの推し本です。タイトルの通り、オーストリアの歴史を紹介した本ですが、男性曰く、「いい意味で期待を裏切ってくれた本」だと言います。というのも、この本には、ウィーンのことだけでなく、現在のオーストリアを構成する9つの州それぞれの歴史が書かれているのです。モーツァルトも、シュトラウスも、ハプスブルクも、クリムトも、僕らが通常知っているオーストリアのことは、とかくウィーンのことばかり。なので、それ以外の地方の視点からオーストリアの歴史を紹介するこの本はとても面白かったとのことでした。ちなみに、オーストリア史を専門にしている著者自身も、この本を書いた時には発見が沢山あったと書いているそうです。

 オーストリアでは今も、「自分はオーストリア人だ」と答える人は少なく、それだけ地方のアイデンティティが強いと言います。実際、それぞれの地方によって、風土も文化も大きく異なるのだとか。一言で国を語るのは難しいと改めて感じた、紹介した男性はそんなことを話していました。

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 以上、午前の部Cグループで登場した本について紹介しました。その他のグループで紹介された本についても、写真だけになりますがご紹介したいと思います。

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 色々と面白いことに気付きます。雑誌が紹介されていたり、過去に大阪で課題本になっていた『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』があったり。おや、他のグループでも森見作品が! 前日のトークセッションに続き、この展開。何やら森みが深くて、僕はちょっぴり心躍りました。

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 さて、本の話は以上で終わりなのですが、その後のフリートークの中で面白いやり取りがあったのでご紹介しておこうと思います。それは、別のグループに参加していたある男子学生さんとのやり取りです。曰く、「来れて本当に良かった」とのこと。なんでも、大学では彼の周りに本を読んでいる人が少ないらしく、本の話ができなくて困っていたのだそうです。どこに行ったら会えるんだろう。そんなことを思っていたある日、「京都 読書会」で検索してこの彩ふ読書会を見つけたのだと言います。ずっとやりたかった話をし、歳の近い人とも出会えた彼は、フリートークの間もう興奮気味に話していました。僕らがお昼ご飯を食べ始めても彼はずっといて、午後の部の準備が始まる間際、もう13時も回った頃になって帰っていきました。

 僕は意外な思いがしました。社会人になってからはともかく、学生の頃には、本を読んでいる人は周りにたくさんいたのです(当時の僕は小説を全く読まなかったので、逆に話ができなかったのですが)。ところが、ある統計によると、実に48%の大学生が普段本を読まないと回答しているのだとか。本好きの大学生にとって、日常生活の中で、共通の話題をもつ同世代の人と会うことは、そんなに簡単ではないのかもしれません。

 Cグループに初参加の男子学生さんがいたことは既に述べた通りですが、京都の彩ふ読書会には学生の方もちらほらいらっしゃいます。これまでにも、就活中の女子学生さんが来ていて姉様方が相談に乗ったなんてことがあったり、夏休みに新しいことにチャレンジしようとやって来て、読書会のことを卒論のテーマにしたいとまで語ってくれた女子学生さんがいたりしたものです。教授のような喋り方で我々を圧倒した男子学生さんもいました。そういえば、今やすっかり常連となり、今回別グループで進行役を務めるに至った男性も、大学院生でした。

 日頃影に潜んでいたり、同じ京都でもバラバラの場所で暮らしていたりして互いの目に触れないというだけで、本好きの学生はちゃんといる。僕にはそれがわかる。件の男子学生も、きっとその感触を得て帰っていったにちがいありません。さらに言えば、学生という枠を取り払えば、実に何十人という方が、この京都北山という些か交通の便の悪いところまででも駆けつけてくれるのである。彼はきっと、その感触も掴んでくれたことでしょう。

 彼がまた来てくれることを楽しみに待ちたい。そんなことを、僕は思うのでした。

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 といったところで、午前の部=「推し本披露会」の振り返りを締めくくりたいと思います。次回は引き続き、午後の部=「課題本読書会」の模様をお伝えする予定です。ご期待ください。

 武庫川女子大学で開かれた森見登美彦さんのトークセッションを観に行った。本当はこのまま感想をつらつらと書き連ねたいところなのだが、印象に残ったことがあまりにも多すぎ、そして、いま僕がこれを書くために費やせる時間があまりにも少なすぎるので、この話はまた今度じっくりということにしたい。ただ「行った」ということは早めに言っておきたかったので、こうして書き留めておこうと思う。

 全くどうでもいい話なのだが、以前から「森みが深い」という言葉を使いたくてたまらない。「わかりみが深い」の森見さん版だと思っていただければいい。「あ、これ、森見さんの作品に出てきそう」「この言葉遣い森見さんの作品っぽい」そんな時に、気軽に「森みが深い」と言ってみたい。どうせなら、使うだけでなく流行らせたい。プチ流行でいい。そのための絶好のチャンスは、ちゃんと見えている。敢えて言おう。とにかく好機を逃さぬことが大事だと。

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