ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年10月

 たいへんお待たせいたしました。1020日に開催された京都・彩ふ読書会の振り返り、書けずに残っていた最後の1回を、ここにお送りしたいと思います。

 読書会はいつも、①午前の部=参加者がそれぞれお気に入りの本を紹介する「推し本披露会」と、②午後の部=決められた課題本を事前に読んできて感想などを話し合う「課題本読書会」の二部構成からなっています。1020日の読書会についても、この二部については既にレポートを上げておりました。では何が残っているのか。それは、読書会メンバーの交流の場、通称「ヒミツキチ」のレポートでございます。

 京都の彩ふ読書会では、午後の部終了後も会場をお借りして、参加者同士が自由にお喋りしたり、ゲームを持ち寄って遊んだり、企画を持ち込んで実現したり、とにかくあらゆることのできる場を設けております。これまでにやったことを振り返ってみますと、ボードゲーム大会、アニメ『有頂天家族』上映会、ゲーム「ブックポーカー」(2回)、出張・彩読ラジオ放送、演劇『夏への扉』上映会……とまあこんな感じです。もちろん、これは主なものにすぎません。上映会をやってる側で別部隊が黙々とゲームに興じていたなんてこともありました。いかに自由な時間か、これでお分かりいただけたことでしょう。

 そして今回、1020日の「ヒミツキチ」でも、新企画が1つ実現しました。それが「推し歌詞披露会」です。内容はご想像の通り。励まされ気分がノッてくる歌詞、ジーンとくる感動的な歌詞、心にグサリと刺さる深い歌詞、よくわからないけれど気になる難解な歌詞、思わず深読みしたくなる文学的な歌詞……そんな様々なお気に入りの歌詞を、参加者がそれぞれ紹介し合うというものです。展開の仕方が色々と考えられそうな企画ですが、とりあえず1020日のヒミツキチでは、「推し歌詞披露会Episode Zero」ということで、細かい縛り一切なしで行いました。

 それでは、これより会の振り返りに入ろうと思いますが、その前に、推し歌詞披露会実現までの舞台裏をしばしご覧いただきましょう。

◇     ◇     ◇

 91521時、京都四条烏丸のHub

 店の奥の一画にある丸テーブルを囲むようにして、4人の男女が酒を飲み交わしていた。その4人とは、ひじき、ちくわ先生、生き字引氏、そして、最近京都サポーターになったみっちーさんである。要するに、京都・彩ふ読書会を代表するイツメンである。

 4人は読書会の帰りであり、既に四条烏丸のおでん屋で、飯を食ったり、酒を飲んだり、「犯人は踊る」に興じたりした後であった。それでもなお名残惜しいものがあったのか、はたまた夜が更けるまで家に帰れない性分なのか、他の参加者が帰る中、この4人だけは四条烏丸に残り、軽いつまみと酒を求めて2軒目へ流れ着いたのである。

 「推し歌詞披露会」のアイデアは、この4人の飲み会の中で忽然と湧いて出た。

 いま必死になってその日のことを思い出してみたのだが、言い出しっぺが誰なのか、とんと思い出せない。最終的にみっちーさんが企画者の座に就いたので、みっちーさんが言い出したんじゃないかという気もするが、どうもしっくりこない。何しろ、四者四様に「これはいい!」と興奮して手を叩き、大はしゃぎにはしゃいだものだから、何が何やらさっぱりなのだ。とにかく1つ言えることは、「推し歌詞披露会」を生んだものは、酒のテンションだということである。

 彩ふ読書会では酒の勢いで企画(というよりほぼ妄想に近い何物か)が膨れ上がり、そのまま実現するということがしばしばある。今なお伝説の回として語り継がれる「ヅカ社会」しかり、先日レポートした「声に出したいI Love You会」しかりである。「推し歌詞披露会」もまた、その系譜に連なるものということができよう。

 ちくわ先生は10月の読書会には不参加の予定だったし、生き字引氏は出没率は高いもののサポーターではない。そのため、みっちーさんがメイン企画者、僕が企画フォローという形で、「推し歌詞披露会」を行うことになった。さてしかし、酒のテンションで始まった企画を実際の形に落とし込むには、幾らか知恵が必要であった。特に難しかったのは、肝心の歌詞をどうやって披露するかである。お気に入りのものを紹介するというコンセプトは「推し本披露会」と同じであるから、会の進行のノウハウは蓄積されている。しかし、本には形があるが、歌詞には形がない。お披露目するモノがないのである。もちろん、「歌まっぷ」などのサイトで歌詞を確かめることはできる。だが、一堂に会した参加者が一斉に目の前のスマホをガン見する光景は、幾ら想像しても味気なさすぎる。何かいい方法はないものだろうか。

 1013日、部活動で京都国際マンガミュージアムを訪れた帰りに、僕とみっちーさんは発表方法を巡って話し合いの場をもった。もっとも、その話し合いは、他の部活メンバーと一緒に入ったモスカフェの中で行われたものだった。おまけに、僕とみっちーさんはその時、テーブルを挟んでちょうど対角線の位置に座っていた。というわけで、その場に同席したメンバー全員がこの話し合いの巻き添えを食うことになった。正確に言えば、何かを考えるための場を何の考えもなくゲリラ的に生み出した僕の巻き添えを食ったのである。

 そんな中、同席していた大阪サポーターのホシさんという方から、「スケッチブックを用意して、皆さんにそこに歌詞を書いてもらったらいいんじゃないですか?」という提案があった。「それだ!」と僕は思った。みっちーさんも同じ意見だったらしい。こうしてひとまずスケッチブックに歌詞を書くという方向で話はまとまった。

 ところが——数日後、百円ショップへスケッチブックを買いに出掛け、あれこれと見繕っているうちに、別の考えを閃いてしまった。「綴じられているスケッチブックより、バラで使える画用紙の方が使い勝手がいいんじゃないか」僕は程なくみっちーさんに打診した。二つ返事で了承が下りた。

 こうして、画用紙に「歌詞」「歌手名」「曲名」を書き、フリップみたいにして参加者に見せるという方法が確立した。そして当日、僕は更なる思い付きで、家にあった8色セットのマジックを鞄に忍ばせ、読書会へと向かったのであった。

 ところで、鞄といえば……画用紙を買う際、どうせならデカいのにしようと思って「八つ切り」というサイズのものを買った。推し歌詞披露会だけ見れば、この選択は正しかったと思う。が、この八つ切りというのはB4よりもう一回り大きいサイズで、鞄に入れるにはギリギリの大きさだった。角丸四角形の鞄の角が尖ったといえば、却ってややこしいかもしれないが、要するにそういうサイズであった。

◇     ◇     ◇

 「推し歌詞披露会」本編に話を移すとしよう。

 参加したメンバーは、僕とみっちーさんを含め全部で5人であった。この他に、歌詞は紹介しなかったけれど、ずっと話を聞いてくださり、時に話題を広げてくださった方が2人いらっしゃった。会場にはもう2人ほど残っているメンバーがいたが、この2人は聞くともなく聞いているという感じで、そのうちの1人については終盤完全に眠ってクラクラ揺れていた。

 会場には読書会で使用したテーブルが幾つか残ったままになっていたが、どれかのテーブルに集まって話をするということはしなかった。その代わりに、大方のメンバーが帰ってしまいすっかり広くなった会場の、好きな場所に座って、方々に散らばるメンバー全員に向けて歌詞を紹介するという形になった。例えて言うなら、合宿の晩にコテージのリビングにぽつぽつ集まってみんなで話をするような雰囲気だった。

 歌詞の紹介は13曲までだった。殆どの人は1曲だけの紹介だったが、僕とみっちーさんは事前にあれこれ考えていたこともあり、3曲発表した。既に書いた通り、今回は曲のジャンルやテーマでの縛りはなかった。だから、少なくとも僕は、その時頭に浮かんでいて、紹介したいと思った歌詞を取り上げた。

 紹介された歌詞の一覧は次の通りである。

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 世の不条理を嘆く痛切な歌詞、詩的で言葉の綺麗な歌詞、意味はよくわからないけれど気になる歌詞、励まされる歌詞……紹介された歌詞の魅力は本当に様々だった。中には、「もしかしてこれは彩読のテーマソングになるんじゃないか!?」と思えるような歌詞もあった(詳しいことは下記リンクの「5」参照)。なお、一部の曲については、CDやスマホダウンロード済みの音源などを使い、実際に鑑賞した。その際、ずっと話を聞いてくださっていた方々にたいへんお世話になったので、ここで御礼申し上げる。



 さて、いつもの僕ならここから歌詞を11つ取り上げてどんな話が出たか紹介するところであるが、今回はちょっと手抜きして、自分が紹介した歌詞だけを取り上げることにしようと思う(白状すると、メモを取り忘れていたうえ、当日夕方の時点でだいぶ疲れが回っており、生き生きした感想を書こうとすると相当無理が祟ってしまうためである)。他の皆さんが紹介された歌詞については、画用紙の内容をもとに、あれこれ想像を巡らせていただければ幸いである。

◆①「宇宙の果てに旗を立てたとしても 宇宙の謎はわからないまま」(THE HIGH-LOWS「胸がドキドキ」)

 1曲目はこちら。アニメ『名探偵コナン』の初代OP曲「胸がドキドキ」から、2番のBメロの歌詞を引っ張ってきました。テレビでは流れなかった部分の歌詞を持ってきたためか、「マニアック」と評される羽目に……サビ以外の歌詞、それも2番の歌詞にハマりがちな僕はこれからどうしたらいいんでしょう……

 選んだ理由は、内容の深さと、「こんな言い回しがあったのか!」という衝撃の2つです。どんなに遠いところまで行って偉業を成し遂げたとしても、それはただ“辿り着いた”というだけで、どれだけ中身が伴っているかなんて知れたもんじゃない。この後に続くサビでは「偉くもないし立派でもない わかってるのは胸のドキドキ」と続きます。カッコつけず素直に地道に生きていこうという勇気が湧いてくる歌詞です。

 推し歌詞披露会が決まった時点で、THE BLUE HEARTSかTHE HIGH-LOWSの曲はどれか紹介したいと思っていました。小学生の頃から聴いている「TRAIN-TRAIN」、学生時代にカラオケで矢鱈と歌った「人にやさしく」など、色々考えたのですが、どうもその時の気分にピタッと来ず。結局「胸がドキドキ」を紹介することになりました。

◆②「友達に手紙を書くときみたいに スラスラ言葉が出てくればいいのに」(ZARD「Don’t you see」)

 2曲目はこちら。ZARDの「Don’t you see」から、歌い出しの一節を引っ張ってきました。これも言葉選びの巧みさが光るフレーズというのが選んだ理由になります(歌い出しのインパクトというのもありそうですが)。好きな人と一緒にいる時のもどかしさを静かに優しく歌っている感じがします。

 この曲に限らず、ZARDには、不器用で控えめな恋の気持ちを繊細な歌詞で掬い取ったものが多いと思っていて、好きなフレーズが沢山あります。遡ること2週間前、「声に出したいI LOVE YOU会」のアフタートークでも、「心を開いて」の歌詞が良いという話をしたくらい。というか、なんやかんやここでZARDを持ってきてしまう辺りに、まだ「I LOVE YOU」会のインパクトが深く根付いてるんだなあという気がします。

◆③「いや待てよそいつ誰だ」(Back number「高嶺の花子さん」)

 いや待てよ、「I LOVE YOU会」のインパクト絶大ですわ。というわけで、3曲目はこちら。ご存知「高嶺の花子さん」から、2番サビ手前の歌詞を引っ張ってきました。片想い中の男子が女の子を落とす手なんて知らないとモジモジした挙句、彼女には彼氏がいるにちがいないしそいつはめちゃくちゃハイスペックな奴だと妄想していっそうモジモジするという流れで、妄想を打ち消すためのセルフツッコミとして上の歌詞が出てきます。選んだ理由は、一言で言えばテイストウケです。

 他の方のサポートがあって曲をフルで聴くことができたのですが、改めて聴いてもやはり見事なモジモジ具合。笑えるんだけれどどこか切なくて、ついでに言うと僕はだいぶ身に堪えます。そういえばこういうモジモジ妄想男子、森見登美彦さんの作品によく出てきそうだなあとふと思いました。折角だからあのフレーズ言っておきます。「森みが深い」。

◇     ◇     ◇

 といったところで、「推し歌詞披露会」の振り返りを締めくくりたいと思います。最初にも書いた通り、今回の披露会は「Episode Zero」という位置づけです。今後ジャンル・テーマなどの縛りを設けたうえで、何度か実施することになりそうですので、楽しみにしたいと思います。

 以上をもちまして、10月20日の京都・彩ふ読書会の振り返りも全編終了となります。ここまでお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。

 溜まっていたネタをそろそろどうにかしなければ。そう思い書き出したところまでは良かった。残念なことに、書き出して程なく、展開を間違えたことに気が付き、筆が止まった。

 僕は基本的に下書きをせず、その時のノリで文章を書いている。それで上手くいってくれればわけはないし、大概何とかなるのであるが、今回は上手くいかなかった。こういう時はムリに前へ進んでもロクな結果にならないので、一度体勢を立て直す必要がある。となると、もう1日かかる。

 別に疲れているわけでもストレスが蓄積しているわけでもない。単純に、文章を書いていてリズムを掴み損ねただけのことだ。そういうこともあるのである。

 心斎橋の近くにあるレンタルスペースで、読書会の派生部活の1つ・哲学カフェ研究会の活動に参加した……いや、この言い方はあまり正確ではない。

 まず、哲学カフェ研究会は最近名前を改めた。すなわち、「イロソフィア」という名前になったのである。なお、これは、哲学カフェと言えばお馴染みの人・ちくわ先生の発案によるもので、「彩ふ読書会(いろふどくしょかい)」の「イロ」と、「フィロソフィア」をかけて作った名前である。

 もう1つ。このほど、イロソフィアでは部長の交代があった。そして、僭越ながら僕が新部長になったのである。したがって、「参加した」などという企画に乗っかっただけのような書き方は適当ではない。「開催した」というべきであろう。もっとも、何もかものんびりしている僕は、場所の予約や参加募集などあらゆる面で、前部長・偉大なるちくわ先生に発破をかけ続けられていたものだから、企画者を名乗るのはやはりおこがましい気もする。とりあえず、「ちくわ先生」は会長か顧問に改称せねばなるまい。

 ともあれ、この哲学カフェについてはいずれ記録をつけようと思う。が、いまの僕はそれどころではない。10月20日の読書会の記録をまだ若干残したままにしているし、その前日に参加した森見登美彦さんのトークセッションの振り返りについては、ずっと記録をつけたいと思いながらまだ書き始めることすらできていない。これらの記録をつけ切ったところで、漸く哲学カフェの話をすることになるだろう。

 とはいうものの、折角なので面白かった話を1つだけ書いておきたい。

 今回の哲学カフェのテーマは、「先入観や思い込みを抱いてしまうのはどうして?」というものだった。会が始まって間もない頃に、僕から「先入観/思い込みと聞いて思い浮かべるのは、良いイメージですか、悪いイメージですか」という問いかけをしたところ、良いイメージの1つの例として、「ギャップ萌え」が起きることが挙げられた。真面目一辺倒と思われていた人が凄くひょうきんな一面を持っていたり、コワモテの兄ちゃんが子犬をかわいがっていたり、かわいいキャラで貫いていた人がカッコイイ一面を見せたり。そんなふうに、ある人の意外な良さに気付いた時に起こるのが、「ギャップ萌え」である。

 これを先入観/思い込みの良い面として捉えた方は、まず純粋に、萌えるのが楽しいというイメージで話をしたのではないかと思う。それに対し、別の参加者から、「でも、ギャップ萌えってまず悪いイメージがあるから起きるんじゃないですか」という質問があった。ギャップ萌えのメカニズムを見てみると、先入観/思い込みの抱き方という面では、あまり良い点が見当たらなかったのだろう。

 その一連のやり取りを聞いているうちに、僕はふと、ギャップ萌えの反対があることに気が付いた。例えば、一目惚れしてしまうようなめちゃくちゃ可愛い女の子が、よくよく話を聞いてみればどうしようもないくらい高飛車だった時などは、先入観が良かったために、後からイメージが悪い方向へ塗り替えられる。先入観というと、悪いイメージがまずあって、後から良いイメージに更新される場合が想像されるけれど、その逆もあるのだ。

 その話をした時だった。また別の参加者がこう言ったのである。

「ギャップ萎えですね」

 言い得て妙とはこのことである。僕は手を叩いて笑った。こうして、ギャップ萌えの対義語、「ギャップ萎え」が爆誕した。

 読書会の人たちと話していると、しばしばこういうセンスの塊のような言葉に出会う。色んな言葉に出会っているから、言語感覚が磨かれているのだろう。これまでの読書会や諸活動を振り返っても、名言・至言・パワーワードにはとかく事欠かない。「ギャップ萎え」は、そこに見事に肩を並べた。

 そう、この話だけはどうしてもやっておきたかったので、こうして先に書いた次第である。

 友人と京都へ出掛け、着物を借りて、五条・四条界隈を散策した。

 1ヶ月ほど前だったと思う。「京都に一緒に行きたい場所ができたんだけど」というラインが友人からあった。教えられた場所を調べてみると、なるほどとても落ち着きのある日本家屋であった。土日でも人が少ない場所らしく、友人は「無限にいられる」とまでいう。

 「よし行こう」僕はそう返事した。そしてさらに調子に乗って、こんなことまで言ってしまった。「文豪感のある写真が撮りたい」四流日記書きの妄言にしても余りに大言壮語の感がある。が、友人は何を阿呆なと言うどころか「そうそれ!」と一緒になって興奮しだした。この我にしてこの友ありである。

 そこから話はとんとん拍子に膨れ上がり、趣のある着物を借りて、その場所で色々写真を撮ろうという話になった。着物には一家言ある友人が店選び・予約の一切を引き受け、僕はひたすら「おおー」「あざす」「やったね」ばかり言っていた。そうして我々は当日を迎える。

 結論からいえば、たいへん充実した散策であった。

 八坂近辺の店で着物に着替えた僕らは、すぐさま五条へ下り、国道1号線を超えたところにある河井寛次郎記念館というところへ入った。陶芸家・河井寛次郎の旧宅がそのまま記念館として保存されている場所で、日本家屋の佇まいや、室内に残された家具などから、往時の生活がしのばれ、そのうちに何とも言えない暖かさに包まれる場所であった。ここが件の行きたい場所であり、無限にいられる場所であり、あれこれパシャれるスポットである。僕らは色んな場所で写真を撮り合いながら、2時間近くそこで過ごしていた。

 それから、友人がかねてから行きたいと言っていた四条河原町の「ソワレ」という喫茶店へ向かった。その途中、あじき路地という小さな路地に立ち寄った。ここは昔ながらの建物が残されている場所で、創作家たちが集い小さな店を構えているとのことであった。数日前、グーグルマップを眺めていた際に偶然発見した場所で、着物映えしそうだったことと、中にあるノートなどを扱っているというお店が気になったことから、時間があったら寄ろうと話していた場所である。

 件のお店は、事前の想像をはるかに超える素敵な場所だった。そこはただオシャレなノートを扱っている場所ではなく、店を構えておられる方が11冊手作りして綴じたノートが売られている場所だった。四畳半とはかくなる場所かと思われるような小さな店内いっぱいに、手作りのにおいが充満している。狭いからこそ、濃密な空間だった。僕らは幾つもの手製ノートを手に取っては、表紙を眺め、紙をめくり、幸せな気分を味わった。

 ちょっと寄るだけのつもりだったあじき路地に、僕らは結局30分ばかりいた。そして、すっかり満ち足りた気分になって、ソワレへ向かった。やさしい青色の光が静かに降り注ぐ店内で、僕らはカラフルなゼリーポンチをそれぞれに食べた。

 着物の返却時間が近づいたところで僕らはソワレを出て、再び八坂に戻った。そして、元の服に着替えた後、四条烏丸にあるお気に入りのおでん屋へ向かって歩き始めた。その途中、大通りを回避しようと細い通りに入ったところで、僕らは何度か角に突き当たり、くねくねと迂回を繰り返しながら河原町まで出ることになった。もっとも、わかりやすい道ばかり選んで歩いてきた僕にとっては、それもまた新鮮な体験だった。それは、友人にとっても同様だったらしい。

「何度も京都に来てるのに、こんなところがあるなんて全然知らなかった」

 そう言って、嬉しそうな顔をした。

 何度も訪れた場所であっても、知らないことは沢山ある。今回の一連の散策では、僕も同じことを強く感じた。盆地に囲まれた京都は、地図で見ればさほど大きな町ではないかもしれない。しかし、いざその場所に立って、ほうぼう回るにはあまりに大きすぎる町である。そしてまた、細部にまで粋が根付いている街である。五条という普段行かない場所で、知らなければ素通りしてしまうであろう路地の狭いお店で、大通りを1本外れた通りで、僕らは数々の知らなかった京都に出会った。きっと、何度訪れても、いや、その場所で生活を送ってもなお、京都という場所を知り尽くすことなどありえないのだろう。

「また京都に来よう」

 僕らはそう言いながら、出汁の沁みたおでんを口へ運んだ。

 書くと予定していたことは色々あるのだけれど、どれにも手をつけないまま僕はぼうっとしている。今週はとにかく書こうという気の起きないまま過ぎてしまった。そうこうしているうちに、次の週末がやって来た。平日は書くことに事欠く僕だが、休日になるとそれなりに色々あるものだ。こうしているうちに、あれも書けない、これも書けないで、また気持ちがいっぱいいっぱいになって、いまに抑えきれなくなって大爆発するやもしれぬ。

 書き出しているものにはけじめをつける。書きたいものは必ず書く。そうでないものは潔くカットする。その方針でいこうと思う。

 こんなことを書いていると、なんだか自分が精気の抜け殻みたいに思えてくるので、やりたいなあと思ったことも書いておこう。いま、森見登美彦の『新釈 走れメロス』という、近代文学を現代の京都を舞台にアレンジした短編作品集を読んでいるのだが、「藪の中」という作品を読み終えたところで、ふと、芥川の短編集か漱石の『夢十夜』を読みたいなあと思った。芥川を読みたくなったのは、完全に「藪の中」の影響であり、『夢十夜』に興味を持ったのは、文庫版『新釈 走れメロス』の解説のタイトルが「夢十夜」だからである。影響を受けやすいことこのうえないが、それも性である。恥じて隠すこともあるまい。

 振り返ってみれば、10月に入ってから読んだものは、殆どが古典もしくは純文学作品である。例えば、坂口安吾の『堕落論』(集英社文庫版)。それから、太宰治の『お伽草紙』。読書会の課題本だった又吉直樹の『劇場』も、傾倒的にはこれらに並ぶように思われる。そういうものを読んでいるうちに、古典も面白そうだなあという気になっていたのは確かである。芥川と『夢十夜』への関心も、その延長線上にあると思えば不思議はない。

 もっとも、この前「これからはエッセイだ」と思ったばかりなのに、今度は「これからは古典だ」である。移り気なことこの上ない。それでどちらもちゃんとやるならまだいいが、結局どちらも牛の歩みになるだろう。やれやれである。まあ、これも性である。呆れていても仕方がない。

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