ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年08月

 今日は日記を書く代わりに、宣伝を1つしようと思う。

 明日83021時から22時半ごろまで、彩ふ読書会メンバーによるニコニコ生放送「彩読ラジオ」の第4弾が放送される。今回のテーマは「好きな作家について」。放送局長であるゆうさんのほか、大阪を中心に活動する読書会特撮部の隊長、そして、東京・彩ふ読書会のサポーターであるKJさんの3人でお送りする予定である。

 放送は開始時間になると、下記URLのページから視聴できる。観るだけならどなたでも可能である。さらに、ニコニコアカウントを使ってログインすると、コメント機能を使って話し合いに参加することもできる。普段読書会というものになかなか参加できずもどかしさを覚えている方がいらっしゃったら、ぜひこの機会に読書や読書会にまつわるトークに触れていただきたい。もちろん、読書会に参加してくださっている皆さまにも、お越しいただきたいと思う。



 個人的な楽しみを言うと、今回の放送における一番の注目ポイントは、やはり、関西メンバーと東京メンバーという普段あまり交わることのないメンバー同士が一緒に出演する点である。もっとも、3人はスタジオに集結するわけではなく、ライン通話で話し合うだけ(のはず)である。ライン通話の音声を拾って生放送で配信するというと、なんだか今風な感じがするが、やっていることは『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングと大して変わらないわけで、我々には馴染み深いテクといえる。ともあれ、普段なかなか会えないメンバー同士が、ニコ生への電話出演を介して交流するというのは、読書会に通いだして久しい僕にとっても新鮮である。どんな放送になるだろう。書いているだけでもわくわくしてくる。

 もっとも、最近スケジュール帳を上手く使いこなせていない僕は、うっかり直前の時間帯に飲み会を入れてしまった。自分が出演しないからといって気を抜かず、リスナーとして馳せ参じ、カンペの如き怒涛のコメント……は言い過ぎとしても、感想コメントくらい送ろうと思っていたのに、実に不覚である。もっとも、視聴不可と決まったわけではない。何とか正気を保ち、パソコンに齧りついてみせようと思う。

 それでは皆さま、明日をお楽しみに。

 朝方にとんでもない雨が降った。何も考えず傘だけさして外へ出たら、吹き込む雨にズボンがやられて、会社に着く頃にはウェットスーツに様変わりしていた。履き替えられるものもなく、「気持ち悪~」と思いながら事務所へ向かう。その途中、レインコートを着た先輩社員とすれ違い、思わず尊敬と羨望のまなざしを送ってしまった。

 それほど激しい雨が降ったものだから、通勤路の途中にあるコンクリートの水路は当然増水していた。いつもは膝までくらいの水かさで、パッと見ただけでは流れているかもわからない。色も澄んでいる。ところが今日は、胸まで浸かりそうな濁流がジャバジャバと流れていて、中に立とうものなら押し流されるのは必至であった。

 もっとも、激しい雨は長く続いたわけではなかった。時折急激に強くなることはあったものの、日中を通してみれば降ってるとも降ってないとも言い難い歯切れの悪い雨の時間の方が長かった。だから、仕事を終えて家路につく頃には、件の水路は幾らか落ち着きを取り戻しており、殊に水の色については濁りがすっかり消え、底まで見通せるようになっていた。

 そんな少し水かさの増した水路を見ていると、1ヶ月ほど前、この水路で一度だけ魚を見た時のことを思い出した。当時したため損ねてしまったので、この機会に書き留めておくことにしよう。

◇     ◇     ◇

 あれは確か、大雨が降った次の日の夕方のことである。

 ふと水路を覗くと、水面がフッと揺れたのが見えた。別に意識して水路を覗き込んだわけではなく、ただ道沿いに水路があるからなんとなく眺めていたらそんなものが見えただけだったのだと思う。僕は最初アメンボか何かだろうと思った(アメンボがこの水路にいるのは、ごく普通のことである)。が、それにしては丸い波紋が見当たらない。その揺れは、水の表面ではなく、少し深いところで何かが動いて起きている。そう直感した。

 そして、揺れた水面の下に目を凝らしたところで、僕は魚を見たのである。1匹ではなく、3匹ほど一緒になって泳いでいた。さらに道を進んでいくと、今度は5匹くらい群れて泳いでいるのがいた。案外少なくないものだ。

 それは、指ほどの大きさの小さな灰色の魚だった。何という種類の魚かは知らない。昔実家の近所の川でよく見たのと同じような魚だったから、そう珍しいものでもないのだろう。

 けれども僕は驚いた。その水路で魚を見たのは初めてだったからだ。おまけに、水路は全面をコンクリートに覆われており、田園地帯の川のように住み心地が良さそうには見えない。流れているのも、住宅地の外れの崖下で、崖の反対側は線路をくぐれば工場町という場所なのだ。

 大方迷い魚だろうとすぐ気が付いた。この水路はどこかの川とつながっているのだろう。そして、雨で増水した拍子に、うっかり水路へ流れ込んでしまったのにちがいない。しかし、だとしたら大変なことだと僕は思った。これから晴れれば、水路の水はどんどん減る。環境も悪く水も少ないとなったら、迷い魚はどうなってしまうのだろう。細い腹を上に向けて干からびていく彼らの姿を想像すると、流石にいたたまれない。

 そこで僕は妄想した。もし僕が肩からカバンを掛けたスーツ姿の会社員ではなく、半袖半パンの少年だったら——

 僕は泳ぐ魚を追いかけて、水路を下っていく。それは、元来た道を引き返す格好になる。程なく、水路は道と分かれ、竹林の中へ消える。僕はその竹林の中へ入っていく。やがて僕は魚を見失う。そしてそれでも水路を辿り続ける。水路は竹林を抜け、道路をくぐり、住宅街の中を通って伸びていくだろう。僕はそれをずっと辿っていく。どこへ通じるか知るために。上からやって来て下へと泳いでいった魚たちが、無事どこかへ抜け出せるのか知るために。

 と、そこまで考えて、僕はそれが正真正銘の妄想であることに思い至った。というのは、僕はもう少年には戻れないという意味ではない。仮に少年時代に戻ったところで、当時の僕はそんな大冒険に出掛けるヤツではなかったということだ。僕はいまでも、現実に疑問を抱くというのが恐ろしく苦手だ。目の前の出来事について、余程のことがない限り、「ああそういうものなんですね」と受け止めて終わってしまう。さらに言えば、そのうちの大半は受け流している。そんな僕だから、少年時代はもっと疑問に乏しいヤツだったにちがいない。「あ、魚だ!」そこで全てが終わる。「なんでこんな水路に魚がいるんだろう?」などと思うこともなければ、その疑問に突き動かされて旅に出ることもない。

 だから、僕が思い描いたのは、ひとりの憧れの少年なのだ。森見登美彦の『ペンギン・ハイウェイ』あるいは湯本香樹実の『夏の庭』といった物語に影響されて生まれ出た、少なくとも僕にとっては、架空の存在以上の何者でもない少年。そして、僕がこの人生では決してなることのできない、永遠に憧れのままでしかありえない少年。僕が見たのは彼だったのだ。

 妄想と現実の落差に気付いた時、僕は笑うしかなかった。

 それでも、その日の僕は何ほどか妄想の側に至りたかったのだろう。独房に帰り着くなり、僕はグーグルマップを開いた。そして、あの水路を探し出すと、ベタ塗りの水色の線を下へ下へと辿り始めた。その線は、片側2車線の県道を越え、住宅地の中へ続いていた。ところどころ線は途切れていた。僕はそれは暗渠だと思うことにした。実際には水路はつながっているにちがいない。いや、そうあって欲しい。度が過ぎるくらい意固地になって、その日の僕はそう信じ続けた。

 線はやがて、大きな川へ合流した。僕は小さく“よかった”と思いながら、新しいタブを開き、ユーチューブで音楽を聴き始めた。

 昨日に引き続き、8月24日に大阪で開催された、彩ふ読書会・哲学カフェ研究会の部活動の振り返りをお送りしたいと思います。今回の哲学カフェのテーマは「許す」。昨日の記事では、哲学カフェの前半戦をなぞる形で、「許せないのは悪いことか?」「〈許せない〉と〈怒る〉は違うのか?」「つまるところ、〈許す〉とはどういうことか?」という3つの話題を取り上げました。この記事では、後半戦の振り返りへと話を進めていこうと思います。さらに、それに続けて、今回の哲学カフェを振り返って、僕がさらに考えたことについて書き留めておこうと思います。

 なお、今回の哲学カフェの概要や、そもそも哲学カフェとは何かについては、昨日の記事で詳しく書いていますので、そちらをご覧ください。



◇     ◇     ◇

◆「自分を許す/自分を許せない」ということ

「ここまで他人を許せないっていう話が続いてたと思うんですけど」後半戦が始まって最初に手を挙げた参加者はそう言って話し始めました。「私が始まる前に考えていたのは、〈自分を許す〉とか〈許さない〉ってことなんですよね」。

 話を聞いた瞬間「あー!!」と思いました。自分を許せなくなること、僕は時々あるんですけれど、この話が出るまですっかり忘れてしまっていました。

 その後、色んな参加者が食い付く形で、〈自分を許す/許さない〉の話は膨らんでいきました。まず、どうして自分を許せないのかということが話題になりました。なんだかカッコ悪い、良い人じゃないみたい……自分の嫌いな部分が見えてそんな感情を抱いてしまうと、自分を許せなくなるのでは、という話が出ました。そこから、それは、もっとこうありたいと思い描く〈理想の自分〉との落差から生じる感情なんじゃないかという話も出てきました。「他人の目を気にし過ぎなんじゃないですか?」という意見もあったのですが、他人にどう見られるかによらず自分がこうありたいと思う姿との間にギャップが生じることがある、という方向に話は進んでいきました。

 人は誰しも、〈理想の自分〉を思い描き、それと〈現実の自分〉を引き比べて、ギャップを感じ、時に葛藤するのだと僕は思います。葛藤が始まってしまえば、自分を許せなくなることも出てくるでしょう。では、自分を許すためにはどうしたらいいのでしょうか。

 この点を巡って、哲学カフェでは対極的な2つの意見が出てきました。1つ目の意見は、どんなにギャップが大きくても、その隔たりを認め、手放すというものです。言い換えれば、自分に対して健全なあきらめをもつ、ということができるでしょう。それに対し、2つ目の意見は、ギャップがあったらどんなにしんどくても埋めるというものです。自分に厳しく、理想を追い求めるといったところでしょうか。個人的には、前者の方法で自分を許す人が多い気がします。はんたいに、後者の方法を採れる人は強い人だなあと思います。

◆「自分を許す」と「他人を許す」はつながるか?

 〈理想の自分〉と〈現実の自分〉のギャップから自分を許せなくなることがある、という話が出たところで、このモデルは、他人を許す/許せないという話にも応用できるのではないか、という意見が出ました。確かに、他人に対して理想を抱いていて、その理想と現実とのギャップから、その人のことを許せなくなる、ということはありそうです。更に、これは僕の妄想ですが、自分にも他人にも〈人間かくあるべき〉という1つの理想を押し付けてしまう人がいたら、その理想に対するギャップによって、自分も他人も許せなくなる、なんてこともあるかもしれません。

 では、今回参加した方々はどうだったのでしょう。彼/彼女らの中で、自分を許すことと、他人を許すこととは、つながっているのでしょうか。それとも切れているのでしょうか。

 結論から言うと、その時出てきた意見は、両者は別物というものでした。「自分は理想に辿り着こうとするけれど、他人はそこに行き着かなくてもいい」「他人には理想や期待はあまり抱いていない」そんな意見が出てきました。

 ここでも、カギを握っているのは〈自分と他人は別個の存在で、生き方や価値観は人それぞれ〉というドライな認識をどこまで引き受けられるか、ということであるように僕には思えました。他人には他人の生き方があり、どう生きようが自由であるということ。自分は他人をわかりえないし、はんたいに他人も自分をわかってくれはしないのだということ。それらを了解できた人は、他人に過度な理想や期待を抱くことがなく、結果的に、他人を許す/許さないという問題も生じないのでしょう。

 さて、このように他人に理想や期待を抱かないことが話題になったところで、ある参加者から、「数年前まで、他人に対する理想が高かったんですけど」という話が出てきました。先に話していた参加者は、それを聞いて「フフフ」と笑いながら、「やっぱり社会人になって仕事の経験を積めば積むほど、自分と他人は違うってことがわかってくるんじゃないかなあ」と言っていました。自分と他人とは同じようには行動できない。そう気づくと、だんだん人を責めなくなるのだそうです。「事象を責めても人は責めない」という印象的なフレーズも出てきました。社会人3年目の僕にとって、その言葉は、これから自分が向かうべき境地を示しているように思えました。

◇     ◇     ◇

 今回の哲学カフェの振り返りは以上になります。最後に、今回の哲学カフェを踏まえて、僕がさらに考えを深めたことを2点書き留めておこうと思います。

◆価値観の違いを認めるということ

 今回の哲学カフェ「許す」の中で、最も重要なポイントになっていたのは、〈人の価値観はそれぞれ違うということを引き受けられるか〉だったように思います。このことを引き受けられる人は、他人が自分の思い描いた行動をしてくれなくても、自分のことをわかってくれなくても、仕方のないことだと割り切ることができるのです。そして、時に思いがけないことをする他人を、それでも許すことができる。いや、そもそも、許す/許さないという評価軸では人を見ないのかもしれません。いずれにせよ、心の底から許せないことというのは、滅多なことがない限り出てこないでしょう。

 一方、人はそれぞれ違うということを引き受けられない人は、他人の思いがけない言動を許すことができない。「なんでそんなことするの!?」という憤りが、許せないという思いと結びつき、長く尾を引くことになってしまうのでしょう。

 人と人は違うのだということ、両者は容易にわかりあえるような間柄ではないこと、それらを了解することが、許すための、或いは寛容になるための鍵である。これが僕の今回の一番の気付きでした。

 もっとも、僕はこのことをまだ理屈の上で受け取ったに過ぎません。この考えがきちんと心にまで降りてきて、自分の自然な所作に乗り移るまでには、まだ相当の時間と経験が必要なのだろうという気がします。

 人はお互いにわかりあえるという理想は、一見美しいけれど、その実「ああわかるよ、こういうことでしょう」と言いながら、人の心を土足で踏み荒らすような不躾さを伴いかねない。その不躾さを気味悪がり、ギトギトした理想論にNO!を叩きつけた人は、これまで僕の出会った人の中にも少なからず存在しました。僕自身、人から「あなたはこういう人だもんね」と勝手に決めつけられることのしんどさに気付いてからは、「人のことをわかろうなんて簡単に思っちゃいけないんだ」と思うようになりました。しかし、それでも、僕はまだまだ人のことを知り尽くそうとして、勝手な深読みを繰り返してしまう。わからないことをわからないまま据え置くことに耐えられず、割り切れる答えを探してしまう。

 価値観の違いに動揺することだって、まだまだ少なくありません。何気ない会話をしているうちに、「そんな風に考えてたの!?」と驚き、どうしよう、いまここで何て言ったらいいんだろう、と思うことだってザラにあります。

 早い話まだまだなんだと思います。とはいうものの、拙速に学んだ通りのことを実践しようとは思いません。そんなこと試みたって、三日持てばいい方です。目指す地点が見えた、そう思い、のんびりやっていこうと思います。辿り着けなくても自分を許してやろうかな、なんて都合の良いことも考えながら——

◆いま、僕が「許せない」と感じることは何か?

 「怒る」と「許せない」は違う、これも大きな発見でした。そこで、哲学カフェが終わった後、僕は改めて「怒る」と「許せない」を切り離しながら、いま自分が「許せない」と感じることは、もっと具体的にどういうことか、考えてみることにしました。

 自分を振り返ってみると、結局、怒りと「許さない」は結びつくというところに落ち着きました。もっとも、「許さない」に結びつくのは、あくまで怒りの一部だという風に考えを進めることはできました。確かに、怒りと「許さない」が結びつくこともある。けれども、多くの場合、怒りはただの怒りで終わってしまうのです。例えば、一緒に何かをやっていた人がうっかりミスしてしまったとしましょう。腹は立つかもしれませんが、たぶんすぐ許せると思います。殆どの「怒り」は、こんな風にしてその場で消えてくれるに違いありません。

 では、怒りが収まらず、「許さない」にまで達してしまうのはどんな場合か。僕の結論はこうです。

 〈自分が何も手を下せない状況で、他人の掌の上で踊らされるのは許せない〉

 自分は何も知らされないまま、周りの人間に何かを仕掛けられ、術中にかかったところを笑われる、こういうのはホントに許せないなと思います。正直な話、過去数年遡って根に持っていることだってなくはないのです。そんな昔のことになると、仕掛けた相手に会うことも二度とないでしょうから、円満解決もおそらく望めないでしょう(まあ僕も望んじゃいませんが)。ですから、忘れることで許すしかないんだろうなあと思います。

 もちろん、これはあくまで今の僕の考えです。「え、そんなことで」と思う方はいらっしゃるでしょうし、僕も10年経ったら、「うわ、ガキ……」と呆れ果てるかもしれません。ただ、今の自分を知っておくために、僕は敢えてこの考えを書き残そうと思います。さあて、この先変われるかしら、変われないかしら……

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 そんな書き置きを残しつつ、哲学カフェ「許す」の振り返り、並びに、僕のその後の考察メモを締めくくりたいと思います。ここまでお読みくださった皆さま、ありがとうございました。

 読書会の記録をつけ終わったと思ったら、またしても読書会絡みのイベントあり。引き続き、読書会日誌をご覧に入れたいと思います。

 824日土曜日、彩ふ読書会哲学カフェ研究会の第3回部活動が開催されました。今回のテーマは「許す」。どうしても許せない人のことなど、みなまでは口にできないという語りづらさが付いて回るテーマで、初めはやや難しい印象も受けましたが、話が進むにつれて、「許す」ことを巡る参加者それぞれの考えに触れられ、様々な気付き・学びを得ることができました。というわけで、これより記事を2つに分けて、「許す」をテーマにした哲学カフェの様子を振り返ると共に、この会を通じて感じたことや考えたことについて僕個人の立場で綴っていきたいと思います。

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 はじめに、そもそも「哲学カフェ」とは何かについてざっと書いておきましょう。

 哲学カフェとは、普段あまり深く考えることなく受け流している物事やテーマについて、時間を取ってみんなで考える集まりのことです。「友だちってなに?」「ひいきは良い事? 悪い事?」といったテーマを1つ決め、参加者はそのテーマについて感じたり考えたりしたことを自由に表明し合います。

 ここで目指しているのは、意見の優劣を決めることでも、1つの結論を導き出すことでもありません。参加者それぞれが、自分と異なる意見に触れながら、テーマについて考えを深めること、これが哲学カフェの目指すところです。ですから、逆に「皆さんそれぞれ色んな考えをお持ちで面白いなあと思いました」で終わるのもちょっと違うわけです。その色んな考えに触れる中で、何に気付き、どんな新たな考えに辿り着けるか、これがポイントになります。

 彩ふ読書会メンバーの中で哲学カフェにいち早く興味を持ったのは、現在京都読書会のリーダーでもあるちくわさんでした。ちくわさんは程なく「哲学カフェ研究会」を立ち上げて自ら部長になりました。その頃は、関西各地でやっている哲学カフェの情報を共有し時間を見つけて個々人で参加するというのが部活動の内容だったのですが(要するに、同じものに興味を持つ人の情報交換や背中押しのためのコミュニティだったわけです)、やがてちくわさんは読書会の中で、自分が主催・進行を務める形で哲学カフェをやるようになりました。これまで、4月に「読書」、7月に「あきらめる」というテーマで哲学カフェが開催されました。そして今回、「許す」をテーマに、3回目の部活動を行うことになったのでした。

 今回の会場は「NANAスペース」といって、梅田の東通り商店街近くのとある雑居ビルの地下にある、これぞ隠れ家といった感じのスペースでした。入口は秘密結社のアジトみたいでしたが、中はアットホームな空間で、冷蔵庫、テレビといったアメニティも充実していました。時間は19時から21時半まで(開始から20分雑談をしてしまったので、その分時間が延びました)で、哲学カフェ部の活動としては初めての夜開催でした。参加者は、男性4名・女性3名の計7名。それぞれ好きな飲み物や軽食を持ち寄って参加し、ものをつまみながら話し合いに参加していました。

 それでは、「許す」というテーマを巡りどんな話が展開したのか、みていくことにしましょう。

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◆「許さない」のは悪いことなのか?

 今回の哲学カフェで最初に話題にのぼったのはこの疑問でした。この疑問を出した方は、自分にはどうしても許せない人がいるといいます。周りの人から「もうええやん」って言われることもあるけれど、そんなのは他人に決められることではなくて、自分はその人が許せない。そんな経験を抱えているその方にとって、ある人/ものを「許さない」ことについて、他の人はどう思っているのかは、1つの関心事だったようです。

 許さないでいることに対して、一般的には確かに良くないイメージがあるように思います。いつまでも許さない人は、執着が強いとみられたり、心が狭いと思われたりすることもあるでしょう。上の参加者も、「許さないこと」に対するこうした一般的なイメージから完全に吹っ切れているわけではないのかもしれないと、個人的には思います(本当に吹っ切れていたら、「許さなくってもいいじゃない」ってあっさり言ってしまうでしょうから)。

 しかし一方で、程度の問題は別として、許せないことを胸の内に抱えている人は少なくないような気もします。「フィクションの世界では許すことが美化され過ぎている」と言った別の参加者もいましたから、「許す」のが良いことで、「許さない」のは悪いこと、という単純な発想に付いていけない人は、実際一定数いるのでしょう。かくいう僕も、「根に持っとんな~」と人から言われることが少なくないので、人に比べて執着の強い人間なのかもしれません。

 この問題についてはこれ以上深く立ち入らないことにします。ただ1点、この問題から会が始まった結果、会の中では「許す」以上に「許さない」が話題にのぼったということを、ここでご報告しておこうと思います。

◆「許さない」と「怒る」

 上述した「許さない」を巡る一連の議論に絡めて、会の中で僕は次のように言いました。「許すっていうのは、その前に〈許せない何か〉があって初めて起こることだと思うんですよね。じゃあその〈許せない何か〉は何故起こるのかってことをここへ来る前に考えてたんですけど、その原因になるのは怒りとか、腹が立ったとか、ムカツクとか、そういうことなんじゃないかなって思うんです」。

 僕のこの意見のうち、前半部分、つまり、まず〈許せないこと〉があって、その後に初めて〈許す〉が出てくるというところについては、概ね参加者の同意が得られたようでした。一方で、後半部分、つまり〈許さないの原因は怒りである〉という考えを巡っては、ある参加者から「ちょっと捉え方が違うんですけど」と、別の意見が提示されました。

 その方は、相手に対して怒ることや腹を立てることはあるけれど、許せない人はいないといいます。僕は当初、それはその方が怒りをすぐ相手にぶつけて解消しているからではないかと思ったのですが、さらに話を聞くと、その方の考え方はもっとずっと深いことが分かりました。すなわち——

 私と他人は違う価値観をもっている。価値観が違うから、当然考えや行動の食い違いは生じるし、腹が立つことも出てくる。けれど、人がそれぞれ違うのは当然のことで、他人が何をしようがそれはその人の自由である。だから、許すも許さないもないのだ。

 つまり、この方は、許すとか許さないといったことを、そもそもあまり考えていないのです。それは、自分と他人は別個の人間であり、それぞれに異なる価値観に従って行動する自由があるからです。もちろん、他人の言動に対し腹を立てることはある。けれど、腹立ちや怒りと許す/許さないは別次元の問題で、後者について思い迷うところはないというのでした。

 この考えに触れたことで、僕は、自分自身は「許さない」と「怒り」を同じ次元の問題として捉えていたこと、そして、それとは異なる考え方があることに気付いたのでした。そして、この気付きをきっかけにして、改めて、僕はどんなことを「許していない」のかについて考えることになるのですが、この思考の結果については第2回の記事の最後で書くことにして、哲学カフェの振り返りを続けることにしましょう。

◆「許す」とはどういうことか

 「許さない」を巡って議論が白熱してきたところで、進行役のちくわさんから“待った”がかかりました。「ちょっとここで本来のテーマに戻りませんか?」ホワイトボードに書かれた「許す」の文字を指し示しながら、ちくわさんは続けます。「いままで色んな話が出てきましたけど、じゃあ翻って、〈許す〉って結局どういうことなんだと思います?

 この問いかけに、ある参加者は次のように答えました。「〈許す〉っていうのは、理解することなのかなって思います。なんでそんなことしたのっていうのがわかるようになる。仕方なかったんだねって言って認められるようになるというか。だから、〈理解して認める〉って感じですよね。ただ、理屈の上ではって感じですけど」。

 これに対し、別の参加者は次のように答えていました。「許すことは不可能だと思うんですよ。相手を理解することはできない。どこまで行っても想像の範囲でしかないんですよね。だから、許さないってことを普段から考えないようにしています」。

 この2つの意見を聞いて、僕はハッとしました。許す/許さないの大元にある認識のポイントが見えた気がしたのです。

「お二人の話を聞いていて、人間はわかりあえないっていう認識をどれだけ持ち得ているかが、許す/許さないっていうところに関わってくるのかなと思いました。人間はわかりあえないってことを引き受けられたら、お互いそこまで理解し合えるわけでもないから、許すとか許さないとかそもそも考えなくなるんだと思うんですよね。けど、人間はわかりあえないってことを引き受けられない人もいる。人間はわかりあって当然だ、わからないと気が済まない。そんな人は、理解できないことが出てくると〈許さない〉っていう感情に行き着きやすいんじゃないでしょうか」

 何名かの方が頷いてくださったのが見えました。

 僕がこの話をしたところで、哲学カフェ前半戦が終了し、10分間休憩がありました。そして、後半戦に入ったところで、話題は一度大きく変わることになるのです。

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 さて、ここで一度記事を区切ろうと思います。次の記事では、哲学カフェの後半戦を振り返ったうえで、この記事の内容も踏まえながら、哲学カフェ後に僕が考えたことをしたためていこうと思います。どうぞお楽しみに。

 818日に京都北山のSAKURA CAFÉで開催された彩ふ読書会の振り返り、最終第3弾をお送りしたいと思います。

 ここまで、第1弾では午前の部=推し本披露会の様子を、第2弾では午後の部=課題本読書会の様子を、それぞれ振り返ってまいりました。実を言うと、読書会本編の振り返りはこの第2弾までで終了ということになります。しかし、京都の彩ふ読書会では、読書会終了後も会場をお借りして、メンバー同士おしゃべりしたりゲームに興じたりする交流の場が設けられています。そして、この交流の場を、われわれは現在「オトナの学童保育」と呼んでいるのです。これからお送りする振り返り第3弾では、818日の「オトナの学童保育」の様子をたっぷりご覧に入れようと思います。

 今回の「オトナの学童保育」には持ち込み企画がありました。午後の部の課題本を推薦してくださった京都サポーターの男性から、「『夏への扉』の舞台版のDVDを持っているので、上映会をしようと思います」という提案があったのです。SAKURA CAFÉには、プロジェクターとスクリーンが完備されていて、僕らはこれまでにも2度、これらの機材を使って上映企画を実施したことがありました。ですから、今回の持ち込み企画についても、すぐさま「じゃあやりましょう」という話になったのです。

 というわけで、今回の「オトナの学童保育」振り返りは、舞台版『夏への扉』上映会の振り返りという形で進めたいと思います。

◇     ◇     ◇

 さて、機材があり、上映会の経験もあるといっても、その日接続するパソコンやDVDソフトが無事再生されるかどうかは、やってみないとわかりません。そこで、上映会に先立ち、昼休みのうちにテスト上映をすることになりました。上映自体は何の問題もなく成功するのですが、この時ちょっとした騒ぎが起きたので、まずその話を書いておくことにしましょう。

 13時、午前の部と午後の部の間に自然な形で発生する昼休憩は折り返しに差し掛かっていました。多くのメンバーは、この間に会場近くのコンビニへご飯を買いに行き、会場へ戻ってきて食べるのですが、13時頃になるとそれも大方終わっていました。ですので、会場にいたメンバーの殆どは、何の気なしにスクリーンを見られる状態でした。

 企画者である京都サポーターの男性と、読書会代表ののーさんが中心になって機材のセッティングは進み、映像が流れ始めました。音声も会場内に十分通っています。折角なので、僕らはそのまま劇の最初の数分を見ることにしました。

 キャスト揃い踏みのプロローグが済み、大きなボストンバッグを持ったダン役の俳優が舞台上を歩き始めました。『夏への扉』は、親友と婚約者に裏切られ失意の底にあるダンが、飼い猫のピートと共に酒場に入るところから始まります。そして、ピートをこっそり酒場へ連れ込むために使われるのが、ボストンバッグなのです。ということは、いま舞台に立っている俳優の持つボストンバッグにはピートが入っているということになるわけです。

「ピートどんな感じか気になりますね。ぬいぐるみとかですかね」

 傍で見ていた僕がそう言うと、企画者の男性からこんな答えがありました。

「ピート役もちゃんといるんですよ。まあちょっと演劇的な表現なんですけど」

 僕は「えっ!」と驚くと同時に、なんだかわくわくしました。どんな利口な猫ちゃんなんだろうと胸躍らせながら、スクリーンに映るボストンバッグに注目します。

 そして次の瞬間、ピートが勢いよく現れました。

 が、そこに映っていたのは猫でもぬいぐるみでもありませんでした。

 ボストンバッグから出てきたのは、オッサンだったのです。

 それも、上は革ジャン、下は青いジーパンという、妙にワイルドな格好のオッサン。

 さらに言えば、ちょっとスリムになったブラマヨ小杉みたいな見た目のオッサン。

「うわっ!
「えーっ!
「ぎゃー!!

 そりゃまあ騒ぎの1つくらい起こります。ボストンバッグからオッサンが飛び出してきただけでも相当インパクトがありますし、おまけに、僕らはこの時、バッグから猫が出てくることを期待していたのですから。SAKURA CAFÉは一瞬にして驚きの声で埋まりました。

「だから演劇的な表現って言ったじゃないですか」

 全てを知っていた企画者の男性が、落ち着いた様子でそう言いました。が、僕らは到底その説明で混乱を収拾できる状態じゃありませんでした。演劇的な表現って、なんだ……そんな中、いち早く立ち直った京都読書会リーダーのちくわさんが、「吉本新喜劇やん」とツッコミを入れていました。ツッコミの内容が見事に関西人でした。

 というようなことが、昼休みの間に起きておりました。もっとも、振り返ってみるに、テスト上映を通じてオッサン・ピートに対する耐性を作っておいたのは正解だったような気がします。本番でいきなりあんなオッサン出てきたら、もうお芝居どころじゃなくなっていたに違いありませんから。

◇     ◇     ◇

 それでは、「オトナの学童保育」本編へと話を進めましょう。

 15時過ぎに課題本読書会が終わった後、いつもは暫くフリートークの時間があって、「オトナの学童保育」は16時くらいから始まるようになっています。しかし、この日は1540分過ぎには上映会がスタートしました。理由はよくわかりませんが、おそらく企画者の男性が早く観たくてたまらなかったのでしょう。

 上映会に参加したメンバーは全部で8名でした。他のメンバーが帰った後、僕らは会場内の机や椅子をテキトーに動かし、お手製の上映会場を拵えました。また、6月に『有頂天家族』の上映会をやった時の経験から、通りに面した大きな窓より強い西陽が差し込むことがわかっていたので、膝掛を巨大化したようなチェック柄の幕をロフトから螺旋階段の隙間に向かって垂らし、陽の光を遮りました。

 舞台は全部で2時間強の長さでした。製作していたのは「キャラメルボックス」という劇団です。僕は全く知らなかったのですが、かつて上川隆也さんも所属していた劇団だそうで、読書会メンバーの中にも、キャラメルボックスを知っている人や、実際にお芝居を見に行ったことがあるという人が少なからずいました。上映会を企画した男性はもちろん劇団のファンで、今回上映したDVDも今年3月に公演を観に行った際、劇場で買ったものとのことでした。

 上映会が始まって暫くの間、僕らの注目の的はやはりピートでした。上映会には午後の部から参加したメンバーも姿もありましたが、その人たちはオッサン・ピートの衝撃をまだ知りません。耐性のついた試写会組は、「他のメンバーはいったいどんな反応を示すだろう」と、もうそっちを楽しみに、ピートの登場を心待ちにしていました。なんだったら、上映会が始まる前、帰ろうとするメンバーを引き留め「ピートが出てくるまでだけでも観て行ってくださいよ~」と言う一幕さえあったのです。

 果たして、我々の期待通り、ワイルドなオッサンがボストンバッグから現れ、そんなこととは知らずにいた何人かの参加者は「わあっ!」と声を挙げていました。3時間前、同じかそれ以上の叫び声をあげていた人たちは、そんな他のメンバーのリアクションと、オッサンの風貌を同時に笑いながら、「これ舞台のつくりはどうなってるんですかね」などと言い合っていました。おかしなものですね。

 さて、詳しく書き立てるのはこれくらいにして(殆どピートのことしか書いてないけれど)、ここからは舞台版『夏への扉』の感想をざっと箇条書きで綴っていきたいと思います。皆さんスクリーンに釘付けで感想など特に話し合っていませんから、以下に挙げるのは全て個人的な感想になります。ご容赦ください。

・ピート役のオッサン……もとい俳優がナレーションも兼ねているので、舞台上にはずっとピートがいる格好になった。そのため中盤以降もやけにピートの存在感が強かった。これは原作との大きな相違点である。

・大柄な男優がピートを務める関係で、女の子がピートを抱き上げるシーンはギャグシーンに変わっていた(「抱けないって」みたいなツッコミが入る)。また、ある登場人物が「ウチにもこんな猫ちゃんいるんです~!」というシーンでも、「こんな猫他にいるんですか」というツッコミが入っていた。設定を上手く活かし、かつ原作を過度に壊さないようにギャグ化しているのが凄いと思った。

・誰かも言っていたけれど、全体的に役者のテンションが高かった。そのため、SF作品というよりもポップなコメディーというタッチに仕上がっていた。原作ではちょい役だったキャラクターでも異様にキャラが立つのが個人的には面白かった。

・尺の都合か、「5分後」「10分後」「1時間後」というナレーションで物語がポンポン進むのが面白かった。間を取るという発想がないのは惜しい気もしたけれど、上でも書いた通り勢いで通すようなお芝居だったので、この演出もマッチしていたように思う。

・ハイヤード・ガールをはじめとするロボットも役者さんが演じていた。ロボットのカクカクした動作を巧みにこなしている姿はやはり印象的だった。

・終盤は原作を読んでいた時よりもずっと感動的で、軽くホロっとしてしまった。やっぱり、生身の人が演じると印象が変わるものだと思った。

 以上です。サクサク進むお芝居だったので、内容について思ったことはこれくらいでした。とにかく、観ていて楽しかったです。ありがとうございました。あと、演劇にも俄かに興味がわきました。

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 上映会は、スタートが早かった分終わるのも早く、18時前には機材の片付け等もほぼ終えていました。その後、僕を含め何人かの参加者は会場に残り、読書会で出されたお菓子の残りを頬張りながら、暫く話していました。どんな話をしたのかあまり覚えていないのですが、大方覚えていなくても問題にならないようなざっくばらんな話をしていたのだろうと思います。ただ1つ、京都サポーターの女性の方が、「ロボット役の人の足が細くて、もう……」と話していたのだけは覚えています。「そこですか⁉」と思いながら聞いていました。

 そんな僕らも、19時前には会場を後にしていました。その後、サポーター4名は北山駅前のロイヤルホストに入り、つまりを頬張りながら「犯人は踊る」で遊んでいました。ここに来てゲーム登場。いつの間にか、読書会に来た以上、1回はゲームをしないと気が済まない性分になってしまっている自分に驚きます。ていうか、もはや何の集まりなんでしょうね、われわれ。

 なんていう疑問など軽く吹き飛ぶ楽しさの中、夏の1日が幕を下ろしていくのでありました。

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 以上をもちまして、818日の京都・彩ふ読書会の振り返り全3回を締めくくりたいと思います。皆さま、ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

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