ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年07月

 昨日の日記に、「最近の僕はどうも不機嫌無気力である、何とかしたい」なんてことを書いた。不機嫌無気力は言い過ぎだったかもしれないが、疲れっぽいというのは本当らしい。実際、いま僕はたいへん疲れている。そのため、独房に帰り着いてからというもの、何をしようという気も起らず、たっぷり2時間かけて、スマホの容量を食う写真を何とか300枚ほど消すのが精一杯だった。

 こんなはずではなかったと僕は嘆く。朝方の妄想によれば、僕はいま読んでいる小説をさらに560ページ読み進め、その後で何か面白い動画でも見てガハハと笑って、満ち足りた顔をして寝るはずだったのである。それがいったいどうしたことか、本などロクに開きもしない。おまけに、とりあえず1000枚消すぞと決めて取り掛かった写真削除も、やっとこさ300枚進めたところで「あーあ、時間が過ぎちゃった」と嘆いている。やれやれである。

 どうやったら調子が上向いてくれるのか。もとよりひとりでに上向くはずもないから何か手を打たねばなるまい。が、その手を打つだけの気力があれば、もうちょっとマシなものを書いているにちがいない。そんな阿呆臭い妄念をぐるぐる回すうち、また一つ夜が更けていく。

 このところ、不機嫌なことや無気力なことが多いような気がする。例えば、飲み会の席で昔の知人を十把一絡げに罵倒するなど、平生の僕ならまあやらんだろうということをさらりとやってのけてしまう。決して気分の良いモノではなく、後々悔いていっそうヘコんだのであるが、しかし、その時はどうしても何かに毒づきたくて仕方がなかったのだと思う。このように、腹の底にわだかまる黒々としたものが、向かう先も定まらぬまま突然噴出することが、最近しばしばある。悲しいことである。惨めなことである。

 もっとも、メソメソしていても何も変わらない。そしてまた、気晴らしに走り溺れたとしても、状況が根本的に変わるわけではない。必要なのは、なにゆえ不機嫌や無気力に身をやつしてしまうのかを探り、解決を試みることである。——仮眠によって少しく回復したらしく、今の僕は何とか真っ当な方法でもって物事を考えられるようになっている。

 おっと、どうしても今の自分を何とかしたくて、ついこんなことを書きだしてしまった。ここから先の自己分析は、開陳するに忍びないので、僕はとっとと筆を置くことにする。思わせぶりな態度だけ取ってすごすご去るのも忍びないが、これ以上身の内をありのまま曝け出し文字として形に残すのはまっぴらである。メンドウ御免。皆さま、素敵な夜を。

 721日に京都北山のSAKURA CAFÉにて開催された彩ふ読書会、その最後の振り返りをお届けすることにいたしましょう。これまで、「午前の部=推し本披露会編」「午後の部=課題本読書会編」の2編を書き進めてきました。この記事では、その後に続くフリータイム「オトナの学童保育」の模様をご紹介したいと思います。

 京都の彩ふ読書会では、読書会終了後も会場を借りて、メンバー同士の交流や活動の場を設けています。この場は元々「ヒミツキチ」という名前で始まったのですが、無我夢中でボードゲームやカードゲームを続けるメンバーが続出したことから、「オトナの学童保育」と改称されました。もっとも、活動内容はゲームばかりではありません。6月にはこの枠を使って、アニメ『有頂天家族』の上映会をやりました。そして、今回7月には、読書会メンバーによるニコニコ生放送を、京都の読書会会場からお送りするというビッグイベントがありました。

 というわけで、早速その模様をお伝えしたいところなのですが、他にも色んな活動がありましたので、時系列順に振り返ることにしたいと思います。

◆ブックポーカー

 “ガクドウ”の時間が始まって最初にやったのは、「ブックポーカー」というゲームでした。簡単に言うと、誰がどの本を持ってきたのかを、参加者同士情報を聞き出し合いながら当てていくゲームです。参加者はまず、進行役(この人はゲームには参加しません)に自分の持ってきた本を預けます。そして、他の参加者がどんな本を持ってきたのか知るため、色んな質問をします。ただし、質問内容には若干制約があって、①ジャンル、②筆者の性別、③筆者の国籍を知るためには、ゲーム開始時に配られた“コイン”を1枚消費しなくてはなりません。情報交換が一通り済むと、進行役が預かっていた本を取り出して並べるので、参加者は集めた情報をもとに誰がどの本を持ってきたのかを推理します。その後、答え合わせを経て、得点を集計します。得点は、正解=10/冊、コインの保有=5/枚、さらに、読みたい本に選ばれる=5/人という配分になっています。得点が最も高い人が勝ちです。

 今回、ブックポーカーには8名の参加者がおり、このほかに進行役が1名おりました。本を預けると、まず情報収集の時間になります。情報収集は、参加者同士11で本について訊き合うというのを7回繰り返す形で行いました。1回あたりの制限時間は2分でした。訊く側としては本を絞るヒントをなるべく多く訊く必要があり、訊かれる側としては本を当てられないため余計なことを喋らないよう注意しなければならない。これがなかなか難しくて、僕は上手く情報を聞き出せず、また逆に他の人に相当情報を与えてしまいました。他の人は「作品が書かれたのはいつ頃ですか?」「主なターゲット層は何歳くらいの方々ですか?」「作品の舞台はどこですか?」など鋭い質問を幾つも繰り出していました。

 全員と情報交換が済んだところで、預けられていた本が登場します。これらの本の表紙だけをみながら、誰がどの本を持ってきたのかを3分で回答しました。それから、読みたいと思った本を1冊選びました。

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 そこまで終えたところで答え合わせが始まります。僕は2冊しか当てることができず、参加者中最低記録を叩き出すことになってしまいました。一方、自分の本を除く7冊全て正解した人が2人いて、僕はただただポカンとしてしまいました。そこへさらに上記の方法で得点を加算し、最後に合計得点を発表します。ここでも僕は最低点で、優勝者にはダブルスコア以上の点差を開けられてしまいました。(ちなみに、逆に僕の本を当てた人は4人でした。)

 というわけで、結果こそ不本意だったものの、ゲーム自体はたいへん面白く、またやってみたいと思えるものでした。今回の経験を活かし、次は訊き方も、本の選び方も工夫を凝らしたいなと思います。

◆彩読ラジオ

 さて、お待たせいたしました。彩読ラジオの話をしたいと思います。先述の通り、読書会メンバーによるニコニコ生放送「彩読ラジオ」を、17時より1時間半、読書会会場からお送りしました。放送時間が決まっていましたので、僕らは何とか17時までにブックポーカーを切り上げ、放送の準備にかかりました。といっても、準備のほとんどは、ニコ生放送の発案者であり放送のメインパーソナリティも担当しているゆうさんがやっていたので、僕らのすることといえば、放送の舞台裏を覗くこと、そして、会場に居ながらニコ生を視聴する準備にかかることくらいでした。なお、僕自身は、放送冒頭から出演することになり、そわそわしつつ、マイクの前に着座しました。

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 そうこうするうち17時になったのですが——今回の放送は冒頭からアクシデントに見舞われ、あたふたと落ち着かないものになってしまいました。一言で言えば、ネットの回線が弱く、機材に負荷がかかってしまい、音声や画像がプツプツ切れるということが、何度も続いたのです。まず、番組が始まっても、画像が映らない、音声が流れない、そんな次第で、最初の10分程度が空白の時間になってしまいました。何とか環境が整ったところで放送を開始しましたが、それからも音声の途切れに繰り返し悩まされることになりました。この日のテーマは「推し本紹介」だったのですが、本の話をしている最中にも音声が途切れてしまうので、いかんせん話が間延びして、テンポが悪くなってしまいました。

 やがて、最初は放送の舞台裏を覗いていたメンバーも、興味が失せたのか、会場のど真ん中でゲームを始め、僕らはいよいよ見守られているのか見放されているのかわからない状況に陥りながら、何とか放送の前半折り返しまで粘りました。僕は1745分ごろに京都リーダーのちくわさんとバトンタッチする形で席を立ったのですが、その時にはもうクタクタになっていました。

 僕が席を立った後、マイクの前にはその時会場に残っていた人が代わる代わる座り、簡単な自己紹介の後、推し本紹介を続けることになりました。正直に言いますが、出演について事前に打診が取れていたのはそのうちおよそ半分で、残りの半分は場の流れで呼び込んだようなものでした。さらに言えば、事前に打診していた半分の方々の中にも、乗り気の人とそうでない人とがいて、「え、俺!?」「私もですか」「喋れませんよ」というざわつきは絶えませんでした。しかし、繰り返しになりますが、もう場の流れがすっかり出来上がっていたので、気付けば全員一丸となって放送に臨むようになっていました。ゲームをしていた人たちも、自分も呼ばれるとなると落ち着かなくなったのか、ぱたりとゲームをやめて、話し手を食い入るように見つめていました。

 そうして、リレートークの最後に代表のーさんが登場し、簡単な挨拶と今後の活動予定について告知したところで、放送は終了となりました。

 今になって振り返ってみると、この時僕はとにかくちゃんと放送することに夢中で、何も見えなくなっていたような気がします。実際、その場の出来事を思い出そうとしても上手く思い出せないのです。ただ言えるのは、会場からニコ生を放送するのは難しいだろうということ、したがって今後はライン通話で音声を拾いながらの放送というスタイルが定着するだろうということです。リベンジしたいという気持ちはありますので、またいずれ、ニコ生でもお会いしましょう。

◆そして再びゲームへ

 最後に、ニコ生を終えた後のことを少しだけお話ししておこうと思います。

 この日、僕らの間でたいへん好評を博したゲームがありました。『たった今考えたプロポーズの言葉を君に捧ぐよ。』というカードゲームです。予め各人が持っているカードと、後から配られたカード、それぞれに書かれた言葉を組み合わせ、即興でプロポーズの言葉を作り、特定の1人を口説く大喜利型のゲームです。



 カードの運もありますが、真面目に口説くのか、ネタに走るのか、下ネタにまで振り切れてしまうのか、はたまた中二病に罹患してしまうのか、結構人によってばらつきが出るので、とても面白かったです。やたらと「ベイビー」と言いたがる人がいたり、墓の話をしたがる人がいたり、なぜかおばあちゃんを口説き出す人がいたり、はんたいに小さな女の子にプロポーズする偽光源氏が現れたり……とにかく、出てくる言葉が面白いゲームでした。近いうちにまたやりたいと思います。

 こうして、遊びに遊んだ僕らが会場を後にしたのは、19時半のことでした。そのあと、有志6人で飲みに行き、暫く話したところで、長い日曜日は更けたのでありました。

◇     ◇     ◇

 といったところで、721日の彩ふ読書会の振り返りを締めくくりたいと思います。ここまでお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。

 なお、次回の京都・彩ふ読書会は、818日(日)を予定しております。午前の部は推し本披露会、午後の部は課題本読書会です。午後の部の課題本は、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』です。午前のみ・午後のみの参加も可能です。興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひお越しください。

 また、“ガクドウ”の時間には、課題本『夏への扉』の舞台版上映会を予定しています。こちらは読書会に1回以上参加された方、もしくは818日の読書会に参加予定の方限定のイベントになりますが、お時間のある方がいましたらご検討ください。

 お待たせしました。721日に開かれた京都・彩ふ読書会、その午後の部=課題本読書会の振り返りの続きをお届けしたいと思います。

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 今回の課題本は夏目漱石の『こころ』でした。先生と私の交流、そして先生から私に宛てられた遺書の内容を通じ、人間の欲や醜さをあぶりだした作品——およそ10年ぶりに本書を手に取った僕が感じたのはそのようなことでした。しかし、読書会では僕の持ちえなかった様々な視点が提示され、大勢の力でより立体的な読みが組み上がっていくことになります。この記事では、先生・私・Kという3人の登場人物について、読書会の中でどんな話が出たかを中心にお話することにいたしましょう。

 なお、課題本読書会は1340分ごろに始まり、1時間半余り続きました。今回の読書会には22名の参加者がおり、3つのグループに分かれて感想などを話し合いました。僕はBグループに参加し、進行役も担当しました。グループのメンバーは全部で7名で、男性3名・女性4名、ベテラン3名・ビギナー4名というバランスの良い構成でした。その他読書会全体の流れに関することや、当日の進行方法については、課題本編①で詳しく書いていますので、気になる方はそちらをご覧ください。



 それでは、上述のテーマに沿う形で、読書会を振り返ってまいりましょう。

◆先生への共感とその限界

 前回お話ししたとおり、僕らの話し合いはまず奥さんと御嬢さん(=先生の妻)について掘り下げるところから始まったのですが、御嬢さんについて話していたために、自然と先生のことへと話が移っていきました。

 まず、参加2回目の女性の方から「先生が一番誰にでも共感できる要素をもっている」という話がありました。金に欲がくらんだり、思わぬ恋敵になった親友Kに嫉妬したり、そんな先生のことが分かるというのです。これは僕も同感でした。恋に悩むKを助けるどころか追い詰めてしまうところを含め、先生はとても人間らしい。些か人間の醜い部分を煎じ詰め過ぎた感はありますが、いずれにせよ、先生の醜さは人間誰しも程度の差はあれ持っているものである。先生を中空から指弾できる者など誰もいないとさえ、僕は思っています。

 しかし一方で、先生に同調しきれない部分もあると、僕はずっと感じていました。僕はその醜さをずっと悔やみながら生き続けることはできないし、まして自ら死を選ぼうとは思わないわけです。もちろん、僕と先生は別の人間ですから、分かれ道があって当然なのですが、その分岐はしこりとなって僕の中に残っていました。

 すると、参加3回目の男性から次のような発言がありました。「共感しきれないようにするのが漱石の狙いだと思うんですよ」男性は、『こころ』というのは、江戸から明治へ、武家社会から近代国家へという時代の移り変わりによる価値観の変容を描いた作品なのだと話していました。2つの時代の分かれ目は、近世の価値観を引きずる先生と、近代に生まれた私の間にある。そして、現代を生きる我々は、私の側に立って、“旧い人間”である先生を見ている(先生の“旧さ”は、最後の殉死という選択に特によく出ている)。そこに違和感の根があるというのです。

 この話を聞いた時、僕はただなるほどと圧倒されていたのですが、今になって振り返ると、一連のやり取りはもっと興味深く精査すべきものだったように思えます。つまり、先生という人物の中には、時代を超えて共感できる要素と、時代の境目で共感できなくなった要素が含まれているということです。時代を超えて人間は同じだといえる一方、でもやはり時代によって人間は変わるともいえる。今僕に言えるのはこんなありきたりなことだけですが、突き詰めて考えてみると面白いように感じます。

 ところで、先生がKへの罪悪感を抱き続けている理由については、「Kが絶妙なタイミングで自殺したからだ」という意見もありました。先生と御嬢さんの結婚が決まった瞬間にKが自殺したために、先生は御嬢さんをみるにつけ、恋敵だったKの影を見続けることになる。そんな状況になったら、自分でもずっと思い悩むに違いないと、この意見を出した人は続けていました。

◆先生の遺書へのツッコミ

 さて、この後、話し合いは思わぬ方向へと進んでいきます。先生の遺書に対し現実的なツッコミが相次ぎ、メンバーが次々に笑い出すことになるのです。読書会が終わった後、ある参加者からは「『こころ』の読書会でこんなに笑うことになるとは思いませんでした」という感想が漏れていました。僕も同感です。恐るべし、彩ふ読書会。

 もっとも、ツッコミの火付け役となったのは、上の感想を言った当人でした。「先生の遺書って、冊子にすると週刊少年ジャンプ1冊分くらいの厚さになるんですよね。実の父親が死にかかっているところへそんなもの送られたら迷惑ですよ。ちゃんと会って伝えろよって話ですよ」

 この発言を聞いた瞬間、僕の中で眠っていた先生の遺書へのツッコミ欲に火が点いてしまいました。実は僕も、先生の遺書は長すぎると思っていたのです。新潮文庫版の解説によると、先生の遺書の長さは400字詰め原稿用紙に換算して200枚超、すなわち8万字を超える大部です。その大部を、先生はわずか10日余りの間に手書きでしたためているのです。おまけに、執筆に費やせた時間は妻が外出している間のみ。僕は疑問でした。果たして、そんなことが物理的に可能なのかと。

 こうしてツッコミが2つも続くと、もう流れは止まりません。別の参加者からも、「先生は妻が帰ってくると遺書を隠したってありますけど、どうしても見つかる気が……」と控えめなツッコミが入ります。「あれだけ長い遺書を書いて、先生はスッキリしたと思います」という話が出たかと思えば、「でも自分だけスッキリしてサヨナラっていうのもどうかと思いますよ」と、先生に向いているのかメンバーに向いているのかわからないツッコミが出るという一幕もありました。かくして、グループは一時騒然となったのでございます。

 先生に関する話し合いの記録の最後に、以上のツッコミからは少し話が逸れるのですが、ある印象的な発言を取り上げておこうと思います。それは、「現代で言ったら先生はYouTuber」というものです。自分の考えを広め私のような信奉者を生み出す先生が、その方にはYouTubeやブログを通じて人気が出る人と被って見えたようです。世捨て人である先生がどれくらいのフォロワーを獲得できるのかはわかりませんが、とにかく「そうきたか!」と思える発言でした。

◆私について

 先生についての話し合いが落ち着いたところで、話の焦点は私へと移っていきました。が、この部分について、僕は自分でも驚くほど何も書き留めていませんでした。先生に注目する一方で、私にはさして関心を払っていなかったのでしょう。というわけで、公平性を欠くかもしれませんが、私については、幾つかの発言をごく簡単にだけ書き留めておこうと思います。

 まず、「私が危篤のお父さんを放って先生のもとに駆け付けようとするのは、やっぱりおかしい」という話が出ました。これに対しては、「まあでも私は、東京で教育を受けて、両親を含む田舎の人を全員見下してますから」という意見がありました。

 また、私くらいのお子さんがいるというある女性からは、「どうしても親目線で読んでしまうと、私のことは本当に心配になりますよね。仕事に就いてって思いますし」という発言がありました。この発言は結構印象に残っていて、『親目線で読む「こころ」』という本があったら面白そうだなあなどと妄想していましたが、ともあれ私という人物については、そこから深掘りするには至りませんでした。

Kについて

 グループトークの振り返りの最後に、Kについての話し合いを取り上げたいと思います。Kのことがあまり話題にならなかったのを不思議に思い、僕から皆さんにKの印象を尋ねてみたのですが、一度話題にのぼると色んな話が出てきました。

 例えば、件のジャンプ発言の方からは、「Kが人間的に一番良い奴で純粋」という話がありました。そのうえで、生家と断絶され、理想に生きる道も断たれ、恋人も友人も失った果てに自殺したKの境遇は同情するに余りあると話していました。僕はこの話によって、Kの置かれた境遇を多角的にみることができたと感じました。

 また、参加2回目の女性からは、「Kと先生は正反対ですよね」という話がありました。そのうえで、正反対の2人が共に自殺という選択に至るところに、この作品の不思議さがあると話していました。

 そんな話が出ていた矢先、初参加の女性から他の女性参加者に向けて、「Kは彼氏にしたいと思いますか?」という凄い質問が飛び出しました。これに対する反応は様々でした。「誠実で、イケメン描写もあるから、私はアリです」という人もいれば、「うーん……あんまり……カタブツそう」という人もいました。「先生がひねくれてKを見上げているだけで、実はKも大したヤツじゃないのかなと思います」という辛辣な意見もありました。そこへなぜか男性陣も加わり、「僕はアリです」「見下されそうなのでイヤです」と喧々諤々の議論をしていたところ、時間が来て話し合いはお開きとなりました。

◆全体発表

 グループでの話し合いが終わった後に、各グループで出た話の内容を紹介し合う全体発表の時間がありました。振り返りの最後に、他のグループの話し合いの内容を少し覗いてみることにしましょう。

 Aグループでは、作品の内容に関する話だけでなく、「表現が好き」「台詞が好き」と、文体などに関する話が出ていたようです。また、先生について、日本の古い思想の擬人化ではないかという意見が出たそうで、この話が挙がった時には会場中が「おぉー」とどよめいていました。「今も昔も恋の悩みは同じ」「遺書を書いて先生はスッキリしたと思う」など、Bグループで出たのと同じような意見もあったようで、グループをまたいで意見が一致するのは面白いと感じました。

 一方、Cグループは、『こころ』は先生と私・先生とKの二重BL小説であるという話で盛り上がっていたようです(白状すると、話し合いの途中からその手の話はまあまあ聞こえていました)。『こころ』については、私・K・御嬢さんの三角関係の話というのがよくある理解だと思うのですが、Cグループの方々は、改めて読んだ結果、先生とK、先生と私の関係に目が釘付けになったようでした。なお、課題本編①で取り上げた、「漱石は女性を一段下に見ているのでは」という意見はCグループの全体発表で聞かれたものでした。

 ざっくりまとめると、Aグループが一番手堅い話し合いをし、Bグループはキャラクターの掘り下げに専念し、Cグループは真剣に話し合った結果BLトークに行き着いたということでしょう。それぞれに特徴があり、一方で、グループを跨いで似たような話になっている面もある。読書会の良さがよく表れた回だったのかなと、個人的には思います。

◇     ◇     ◇

 といったところで、午後の部=課題本編の振り返りは以上になります。もっとも、読書会の振り返りはまだ終わりません。次回、「オトナの学童保育編」をもって完結となります。「楽しみ!」という方も「なんじゃそれ」という方も、最後までぜひお付き合いください。

 昨日に引き続き、721日に京都北山のSAKURA CAFÉにて開催された彩ふ読書会の振り返りをお届けしようと思います。昨日は午前の部=推し本披露会の様子を見てまいりました。本日は午後の部=課題本読書会の様子へと話を移していくことにしましょう。

 課題本読書会は、毎回1340分ごろに始まり、1時間半余り続きます。参加者は平均68名程度のグループに分かれて座り、総合司会から読書会の流れや注意事項について説明を受けた後、グループの中で課題本の感想などを話し合います。15時ごろになると再び総合司会が登場し、その旗振りのもと全体発表が始まります。全体発表は他のグループで出た意見・感想などを共有するためのもので、各グループ代表1名が発表する形式です。全体発表が終わると、今後の活動についてのお知らせを経て、読書会は終了となります。

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 今回の課題本は、夏目漱石の『こころ』でした。先生と私という2人の男の交流、そして、私宛の遺書により明らかになる先生の過去を通して、人間のエゴや浅ましさを描き、我々に問いかけてくる、そんな小説です。高校の国語の教科書にも載っているので作品をご存知の方は多いと思いますが、印象に残っているか、内容を覚えているかという点になると人それぞれなのではないかと思います。

 かくいう僕も、中高生の時分に一度ないし二度読んでいるのですが、話の印象はまるでなく、当時周囲で流行り出した「精神的に向上心の無い者は馬鹿だ」という罵倒語が『こころ』からの引用であることにさえ気付いておりませんでした。しかし、26になって読んでみると、かつてに比べ人のこと、或いは自分のことが見えるようになったらしく、先生の独白を自分の写し鏡の如くに考え、反省するようになっていました。

 さて、721日の午後の部には22名の参加があり、3つのグループに分かれて話し合いが行われました。僕は会場の一番手前、通りに面した大きな窓の側に陣取るBグループに参加しました。ABCの真ん中の名前を冠されたグループでありながら端に席があったのは、声の大きい僕を会場の中央に行かせないためだったようですが、僕はそんな仕打ちでめげる男じゃありません。「なんで端なんです?」と大根芝居を打ち、ベテラン陣が「なんででしょうねぇ」と意味のないはぐらかしを仕掛けてくるのに地団駄踏む素振りを見せながら、逞しくいつも通り読書会を愉しみました。

 Bグループのメンバーは全部で7名。男性3名・女性4名、ベテラン3名・ビギナー4名というバランスの良い構成でした。進行役は僕が担当しました。それでは、『こころ』を巡る読書会の模様を、以下で詳しくみていくことにしましょう。

◆実験、ふせん方式

 課題本読書会が始まって早々に、僕は1つ実験的な試みをしました。それは、『こころ』という作品を「○○が××する物語」という形で説明してくださいというお題を出し、答えを付箋に書いて発表してもらうというものです。

 〇〇には作中の登場人物(もしくは作中に登場するモノ)の名前を入れ、××にはその人物の行動を入れます。そして、「私が先生からの手紙を読む物語」「Kが御嬢さんに惚れてしまう物語」という形で、『こころ』の内容を説明するのです。必ずしも作品全体を説明する必要はありません。なんなら多少ネタに走ってもいいと思っていました。「西洋人が私と先生の前から姿を消す物語」という、冒頭数ページの枝葉を茶化すような答えがあってもいいわけです。以上のような説明をしたうえで、僕は皆さんにポストイットとサインペンをお配りし、5分ほど時間を取って、それぞれに答えを書いていただきました。

 僕がこの方法を試してみようと思ったのは、前回の読書会の際、僕が進行するグループでは、作品の感想は沢山話せているけれど、肝心の作品の振り返りがいい加減になっているのではないか、と感じたからでした。そこで、かつて自分が受けた国語の授業を思い出しながら、「○○が××する物語」という形で課題本を振り返ってもらうことを考えつきました。さらに、どうせなら答えを書いてもらった方がいいだろうと思い、かつて参加したワークショップを参考に、ポストイットに答えを書き出し、テーブルに貼るなどの方法で可視化することにしたのでした。

 このように狙いこそ大真面目なものの、個々の回答については、ある程度真面目なものが集まればあとはネタに走ってもいいやくらいに考えていたのですが、いざ始めてみると、皆さんたいへん真剣にワークに取り組むので、僕はかえって驚いてしまいました。「ムツカシイなあ」と言いながら、或いは黙々と、全員が課題本をパラパラとめくり、内容を振り返っていました。こりゃあちゃんとやらないとカッコがつかないぞと思い、僕も慌てて本をめくり出してしまうほどでした。

 そして5分後、答えを順番に発表していただきました。それをまとめたものが次の写真です。

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 『こころ』の中心人物は先生と私ですから、この2人を主語にした答えが多くなるだろうというのが僕の予想でした。実際、「先生が苦悩する物語」「先生がKに嫉妬する物語」「私が先生のように生きたいと願う物語」「私がバカンスを楽しむ物語」など、先生・私に注目した答えは一定数ありました。一方で、先生の同郷の親友であり作品終盤で劇的な自殺を遂げるKに注目したものは少なく、これは意外な結果でした。

 そして何より驚いたのは、御嬢さん(=先生の妻)と奥さん(御嬢さんの母親)に注目した回答が少なくないことでした。「奥さんが一番腹黒い話」「奥さん[御嬢さん]がさみしさを抱え続ける物語」「2人の人生を狂わせたお嬢さんの話」といった回答がそれになるわけですが、僕はこれらの回答に衝撃を受けました。そして、「意外でしたねえ」と話すうち、御嬢さんと奥さんについて振り返るところから、『こころ』の本編へと話を進めることになるのです。

◆奥さんと御嬢さん(先生の妻)について

 はじめに、「奥さんが一番腹黒い話」というインパクトのある答えを掘り下げることにしましょう。この答えを書いたのは、参加3回目の男性でした。その方は、「(先生と御嬢さんの結婚が決まった時)奥さんはKに何も言わなければ良かった」というのです。奥さんが2人の結婚についてKに告げたのは、結婚する2人が暮らす家から余計な若者を追い払うためである、そもそも奥さんはKを受け容れたくなかったのだから、とその方は続けます。奥さんは、先生とKの間柄を知ったうえで知らせないのはおかしいからとお節介を焼いたのだとばかり思っていた僕は、この読みに驚きつつ納得しておりました。

 一方、御嬢さん(先生の妻)については、腹黒いところなど一切なく、純白で、ただかわいそうという意見が多勢を占めていました。御嬢さんが先生とKという2人の人生を狂わせてしまったのは不幸な偶然である、というわけです。

 そんな御嬢さんについての話し合いの中でポイントになっていたのは、「御嬢さんは周りから情報を遮断されている」というものでした。奥さん(実の母親)からも、Kからも、そして先生からも。確かに、先生の遺書にも、妻の記憶を純白なままにしておきたいという旨のことが書かれています。登場人物の誰もが御嬢さんを丁重に取り扱っていた、そしてそれがために御嬢さんは何もわからないまま幾多の出来事に翻弄されることになった、そう考えると、確かに御嬢さんが一番かわいそうだと思えました。さらに、「自分と先生の結婚を機にKが自殺しているので、御嬢さんは自分が原因なんじゃないかと気に病んだと思うんですけど……」という意見もありました。何も知らされないなりに、御嬢さんもまた出来事の連なりをみて、一人苦しみ悩んでいたというのは、ありそうな話だと思いました。

 これは別のテーブルで出た意見で、僕は全体発表で知ることになるのですが、漱石の作品では女性は一段下に描かれていて、現実感のない浅い女性像の感があるということでした。実際、奥さんにしても御嬢さんにしても、その人たちに周りはどう見えているのかを知る手掛かりは作中に殆どありません。その点、物語の語り手に惑わされず、女性陣に見えている世界を探ろうとする参加者の発言は、とても面白いものでした。

◇     ◇     ◇

 さて、御嬢さんについて話すうち先生のことが話題にのぼり、グループトークは続けて先生のことに移っていくのですが、ここから先の話は稿を改めてお届けしたいと思います。皆さましばらくお待ちください。なお、明日飲み会が控えておりますので、金曜日以降の更新を予定しております。悪しからず。

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