ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年05月

 前々回、そして前回に続き、5月26日(日)に京都のサクラカフェで開かれた彩ふ読書会の午後の部・課題本読書会の模様を振り返りたいと思います。前々回は、僕自身は課題本をどのように読んだのかについて振り返りました。そして前回から読書会本編の振り返りに入りました。今回の記事では、読書会本編の振り返りの続きをお送りします。

 繰り返しになりますが、課題本と読書会の概要を確認しておきましょう。今回の課題本は、安部公房の『砂の女』です。昆虫採集のために訪れた砂丘の部落で、「男」は砂の穴の底に閉じ込められ、穴底のボロ家に住む女と共に、夜毎砂を掻き出すよう言いつけられる。あまりの仕打ちに憤慨した男は脱出を試みるが、遂に失敗し、穴の中で暮らすようになる。現実離れしていてとっつきにくい作品ですが、世の不条理や我々を取り巻く見えない力の存在を「砂」に仮託して描き出しており、主題がわかると面白くなってくる作品でもありました。

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 課題本読書会は13時40分ごろに始まり、1時間半ほど続きました。参加者は全体で21名で、3つのグループに分かれて感想などを話し合いました。読書会の最後には、それぞれのグループで出た話を共有するための全体発表の時間もありました。僕はCテーブルで話し合いに参加しました。

 さて、今回の振り返りは、僕自身の課題本に対する感想・考察を振り返ったうえで、読書会に参加することによってそれらの感想はどう変わったか/変わらなかったか、どんな新たな発見があったのかということを確かめながら書いています。なので、これまでの話の流れを大まかに確認しておこうと思います(詳細は各記事を参照ください)。

〈前々回:僕は『砂の女』をどう読んだのか〉

 ▶映像を思い描きながら読むのが難しい作品で、最初のうちは放り投げたくてたまらなかった。
 ▶それでも読み切るため、「砂」は何の象徴/比喩なのかという問いを設定した。
 ▶その結果、押し応えなく流れものを腐らせてしまう砂は世間の波の象徴ではないかと考えた。

〈前回:以上のように考えていた僕にとって、読書会はどんな場だったのか〉

 ▶「この本わからない」という意見が複数出た。その中に「映像が浮かばない」という自分と全く同じ意見があり、共感できて嬉しかった。一方で、作中の描写からイメージを膨らませ「毎晩砂を掻き出しているということは、女は筋肉ムキムキだと思う」と発言された方がいて、思いがけず爆笑の渦が起こった。

 ▶〈なぜ男は逃げなかったのか〉ということが話題になり、2つの読みが提示された。1つは、男は承認欲求の強い人間で、物語の最後で自分が作った蒸留装置を部落の人に認めてもらいたくなったから残ったのだというもの。そしてもう1つは、物語の途中で一度脱出に成功するもワナにはめられて穴に連れ戻されたことにより、男の中で諦めが強くなったからというものだった。いずれの読みも、砂にばかり目がいっていた僕には新鮮で、特に男の人となりに注目する読み方はたいへん興味深かった。

 今回の記事では、前回に続き、読書会の内容を振り返りつつ、その中で僕は何を感じていたのかということを書いていこうと思います。それでは、話を進めましょう。

◇     ◇     ◇

◆「女は、男よりもずっと怖い人間なんだと思う」

 上述の通り、前回の記事では、主人公「男」について読書会の中で話題になったことを取り上げましたが、その後読書会が進む中で、元々砂の中に住んでいた「女」についても幾つか意見が交わされたので、ご紹介したいと思います。

 その前に、僕の中での女のイメージについて書いておきましょう。僕の見る限り、女は無気力の塊のような存在でした。砂が内に含んだ湿気を放出して周りのものを腐らせるように、女の精神をも腐らせて生気を奪っている。つまり、女は、砂=世間・空気によって自我を失い無気力に生きる者の象徴だと、僕は思っていました。

 そう考えていた僕にとって意外だったのは、物語の終盤で男に強い口調で詰め寄る女の姿でした。無気力に見えた者にも、我が身を守って生きるための強さ・逞しさがあることを突然思い知らされ、驚き慌てたところで、特に考察を進めることなく、僕は読書会に向かっていきました。

 さて、読書会の中で挙がった意見をここでは2つご紹介しましょう。

 まず、女が周りの者を気に留めていないことが話題になりました。この話題を引っ張ったのは、件の「筋肉ムキムキ」発言の女性でした。この女性、「筋肉ムキムキ」発言以外にも女について興味深い読みをされていて、僕はこの方から「女」像について多大な影響を受けました。

 物語の終盤で、掻き出した砂が工事場などに売られていることを男は知ります。塩分を含んだ土を建設材に混ぜていることに男は憤る。ところが、そこで女はこう返すのです。「かまやしないじゃないですか、そんな、他人のことなんか、どうだって!」ここは僕が女の強さや凄味を思い知ったのと同じ場面ですが、女性はここから、女が周りのことを気にかけていない様子を読み取ったのだといいます。

 女は砂に囲まれた部落の中に生きており、部落の内輪事情には詳しいものの、外部社会とは隔絶されている。だから、女の視野は相当狭まっているのではないか。これが女性の展開した読みでした。さらに女性は、女が男より長く砂の中にいることから、視野の狭まりがより一層進んでいるのではないかと指摘します。そしてこう言いました。「結局、女は男よりも怖い存在なんだと思います」

 女は男よりも長く砂に曝されているというのは、僕と共通する読みでもありました。けれどもこの方は、その読みを女の無気力さに結びつけるのではなく、女の視野の狭さ、そして暗黙の凶暴さに結び付けて考えていました。女は男よりも怖いという結論には、思わずハッとさせられるものがありました。

 なお、女の怖さについては、他にも幾つか意見が出ていました。「男がタバコや焼酎の配給を受けていたように、女は男を配給してもらったんじゃないだろうか」「女が男に言うことが最初と最後で違っていて、無茶苦茶だとも思ったし、最初は男を信用してなくて嘘を言ったんじゃないかとも思った」もっとも、よく考えてみると、これらの意見は全部「筋肉ムキムキ」発言の女性のものでした。やっぱり僕はこの方から、女は怖いというイメージを多分に植え込まれたようです。

 もう1つ、初参加の男性からのこんな意見をご紹介しましょう。「女が無気力なのは、家族を亡くしているからじゃないかと思ってました」物語の中で、女には夫と子どもがいたこと、そして2人は半年前に砂に埋もれて亡くなったことが何度か語られています。また、女が家族を亡くしたことを悲しんでいる描写もあります。ですから、この意見が出た時、僕はさほど気にも留めず「そういう面もあるよね」くらいに思っていました。

 しかし、今になってふと思うのです。もし、女の無気力が砂ばかりでなく、家族を亡くしたことにも起因するのだとしたら、物語の終盤で男が共に暮らすようになったところで、女が強い一面を見せてきた理由がわかるようになるのではないか、と。思い付いたばかりなので、これ以上は書けないのですが……

◆『砂の女』は社会の縮図

 グループの話し合いの最後に、『砂の女』の世界と僕らが実際に生きている世界の重なりについて話題にあがったことをご紹介したいと思います。既に述べたように、僕は『砂の女』を読む中で、砂は世間の象徴という結論に達していますから、その世界が僕らの生きている世界と重なるという話はこの結論を強めるものでした。ですので、この話はさらっと触れるに留めておこうと思います。

 例えば、あるベテラン参加者の男性は、『砂の女』という作品はとことん真実が見えない作品であると指摘したうえで、それは別の社会の批判ではないかと当初は思っていたが、次第に、これは我々が生きている社会の縮図ではないかと思うようになったと話していました。確かに、僕らの生きている世界でも、真実やその全体像は見えないことが多く、僕らはその事実に適当に折り合いをつけて生きているような気がしました。

 また、今回進行役を務めた男性は、具体的な描写を挙げながら、この作品が現実と被ってイヤだという話をしていました。男性が取り上げたのは、男が部落の人と言葉を交わす場面です。男は穴から抜け出すために、部落の人たちの暮らし向きを良くするための提案を次々に持ちかけますが、部落の人たちは何かと理由をつけて男の提案をぬらりくらりと交わしてしまいます。男性は強い口調になって「もう何かと言い訳がましくて腹立つんです」「しかもこういう人実際にいそうでイヤなんですよ。こういう諦めを正当化するための言い訳を並べ立てる人」と話していました。この発言はじわじわと共感を呼んでいるように思えましたし、僕自身、いるいるこういう人と思っていました(自分がそうじゃないか心配な時もありますが)。ともあれ、こうした“あるある描写”が挿入されていることによって、『砂の女』の寓話的性格が増しているのかなと、僕は思いました。

◆全体発表から

 最後の最後に、全体発表の中から印象に残った意見を取り上げたいと思います。

 まず印象に残ったというか「えっ⁉」と思ったのは、「読みづらいという人もいたけれど、砂だけにサラサラ読めるという意見もあった」「安部公房の作品の中では話が分かりやすく読みやすい作品」といった意見でした。Cグループでは読みづらいという声しか挙がっていませんでしたから、これらの発言が出た瞬間、僕らは「ウソやん」と言わんばかりに顔を見合わせてしまいましたし、「もう安部公房は読めない」と思ってしまいました(とか言いながら、いつかまた読むかもしれませんが)。

 作品解釈について特に面白いと思ったのは、「砂の中も男が元々生きていた社会も実は同じようなもので、男が逃げるべき社会などないのではないか」という意見でした。この意見は、僕が再三繰り返している『砂の女』=社会の縮図説の延長にあるものですが、僕が砂そのものを社会の比喩と捉えていたのに対し、この意見では、砂の外に広がる世界まで射程に入れて、それこそ僕らが生きている現実ではないかということを突き付けているという意味で、より深みのある解釈だと感じ入りました。

 男のことが話題にのぼっていたのはどのグループでも共通していたようです。あるグループでは、男について「性格悪い」「ちっちゃい」「常に上から目線」と辛辣な意見が次々に飛び出していたようでした。また、男と女の話がまるで噛み合っていないという指摘があり、確かにそうだなあと思いました。

 そんな色んな意見が出たわけですが、憚りながら話題賞は我らがCグループがかっさらうことになります。「筋肉ムキムキ」発言に勝てるものなどないのでした。

◇     ◇     ◇

 といったところで、課題本読書会の振り返りを終えたいと思います。最後の最後にボケてしまいましたが、全体を通してみれば、色んなことを考え、読みを深めることのできる会でした。映像が浮かびづらいといった感想や、『砂の女』=社会の縮図説など、僕の見方は基本的にあまり変わっていません。そのうえで、男と女という主要な2人の登場人物の人となりを、本文に即して掘り下げられたのが、今回の一番大きな収穫だったように思います。このように、読みの幅が広がるのが、課題本読書会の良い所だなと、改めて感じる会でした。

 さて、レポートが長くなり、最初から読んでいる方はそろそろお疲れではないかと思いますが、読書会の振り返りはさらにもう1回続きます。ヒミツキチ編、別名「オトナの学童保育」編です。どうぞお付き合いください。

 前回に引き続き、5月26日(日)に開かれた彩ふ読書会@京都の午後の部・課題本読書会の振り返りを書いていこうと思います。前の記事では読書会の話はせず、僕自身は課題本をどう読んだのかということを書いてきました。この記事では、読書会に参加することで、僕の考えはどう変わったか/変わらなかったか、どんな新たな気付きがあったのかという観点から、いよいよ読書会本編を振り返っていきたいと思います。

 はじめに、課題本読書会の概要を確認しておきましょう。今回の課題本は、安部公房の『砂の女』です。昆虫採集のために訪れた砂丘の部落で、「男」は砂の穴に閉じ込められ、その底で暮らす女と共に、夜毎砂を掻きだすよう言いつけられる。理不尽な仕打ちに憤慨した男は脱出を試みるが、遂に失敗し、女と共に砂の底で暮らすようになる——設定が現実離れしていてとっつきにくい小説ですが、描かれているのは世の不条理とそれへの抗えなさであり、エッセンスがわかってくると面白く思えてくる作品だと、個人的には思います。

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 読書会は13時40分ごろに始まり、1時間半余り続きました。参加者は全部で21名で、3つのグループに分かれて本の感想などを話し合いました。読書会の最後には、それぞれのグループで出た意見を共有する全体発表の時間もありました。

 僕はCテーブルで話し合いに参加しました。メンバーは、男性4名、女性3名の計7名。初参加の方が1人いたほか、彩ふ読書会に来てまだ日の浅い方から1年以上参加しているベテランまで、様々な人が集まっていました。進行役は、この京都読書会から新たに読書会サポーターに加わった男性が務めてくださいました。

 さて、これから話し合いの内容紹介に移りますが、最初に書いたねらいを達成するため、前回の記事で書いた僕自身の感想・考察をまとめておきたいと思います。

 ・『砂の女』は映像がまるで浮かばない作品で、最初に抱いた感想は「読みたくねえ」だった。
 ・「男」が昆虫採集に勤しんでいるのが理解できない。あと、探しているハンミョウがキモい。
 ・作中で「砂」を「1/8m.m.」と言い換えているのが、理由はわからないが受け付けられない。
 ・以上のイライラをグッと堪え、「砂は何の象徴/比喩か」という問いを立てて読み進めた。
 ・押し応えがなくさらさら流れ、物を腐らせてしまう砂は、世間の波の比喩ではないかと思った。
 ・世間のような目に見えず抗しがたい力を「砂」という具体物で表現しているのが凄いと思った。
 ・男を穴に閉じ込めた部落の人も社会に揉まれていることから、力の全体像の見えなさを思った。

 こんな感想を抱いていた僕にとって、読書会はどんな場になったのでしょうか。

◇     ◇     ◇

◆映像が浮かばないのは、みんな一緒だった

 Cグループの話し合いは、進行役の男性の「わからん」「二度と読まない」という感想から始まりました。男性はいつも本を読んで気になる場所があったら付箋を貼るそうですが、今回は1つも付箋を貼れないくらい読むのに苦労していたそうです。そのため「進行役なのに話題を提供できない」と嘆いていましたが、この率直な感想がむしろ他の参加者と共鳴したようで、瞬く間に次々発言が飛び交うようになっていました。

 そうした経緯もあり、「この小説わからないよね」という話が、会の前半で繰り返されることになりました。その時出てきた感想の1つが、「砂の映像が出てこない」というものでした。男が閉じ込められた砂の穴についてだけみても、「すり鉢状の穴の底に家があるんですよね」「え、僕は筒状だと思ってました」「穴の上に荷物の上げ下げに使う滑車代わりの俵が埋まってるってあるんですけど、どういうことか全然わからなくて」「そうそう(笑)」「穴の外にある部落なんてもっとわからない」というあんばい。わからないということだけで場が盛り上がるという異様な展開となりました。

 もっとも、映像が浮かばないから読みづらいという感想を抱いていた僕は、他の方も同じ思いだったと知って、不思議な連帯感を覚えることができました。一方、話が進む中で、映像化を巡って幾つかの面白い話を聞くこともできました。

 まず、あるベテランの男性から「僕はこの作品は安部公房の観念小説だと思って読んだので違和感なかったんですけど、確かに映像化できないと楽しめないっていう人にはこの作品しんどいのかもしれませんね」という発言がありました。観念小説というモノが存在するということ自体僕は知らなかったので、そんな読み方もあるんだという1つの発見になりました。

 そして、映像化を巡って何よりも話さなければならないのは、最近読書会に来られるようになった女性の次の発言でしょう。

「毎日砂を掻きだしているので、女はきっと筋肉ムキムキなんだと思ってました。あと色白じゃない」

 その発想はなかった!——女の容姿も全く絵が浮かばないものの1つだった僕にとっては、イメージできる人がいるというだけでも凄いことでした。が、この発言にはそれ以上のインパクトがありました。筋肉ムキムキ……思いがけず、グループは爆笑の渦に包まれました。

◆なぜ男は逃げなかったのか?

 筋肉ムキムキ発言のインパクトも落ち着き、さらに話が進んだところで、初参加の男性から上のような質問が投げ掛けられました。この問いを巡る形で、物語の展開を振り返ったり、主人公である「男」の人となりに迫ったりする話がありましたので、ご紹介したいと思います。

 まず、男の性格から逃げなかった理由を説明する話がありました。この話をしたのは例の筋肉ムキムキ発言の女性。おそらくこの方、作中の言葉を拾って想像を膨らませるのが得意なのでしょう。

 この方によれば、男が逃げなかったのは彼が人に認められたいと思っているが故だということでした。ここでカギを握るのは作中の2つの記述です。1つは、男が昆虫採集にハマっている理由に関する記述です。僕はわからんと嘆いていましたが、実はこの理由については、本文の中で〈新種の虫を発見して名前を残すため〉と説明されています。女性はこの記述から、男の承認欲求を読み取ったのです。

 そしてもう1つは、物語の最後で男が砂の中から水を取り出す蒸留装置を作ったという記述です。これが男が逃げなかった直接的な理由になります。承認欲求の強い男は、蒸留装置の素晴らしさを認めてもらいたくてたまらない。けれども、この蒸留装置の良さを認めてくれる人は、部落の中にしかいません。だから男は逃げなかったのだ、というのが、ここでの結論になります。論理一貫した巧みな読みに、参加者からは「おー」と感嘆の声が漏れていました。

 次に、物語の展開から男が逃げなかった理由を説明する話がありました。この話は、最近大阪サポーターになったばかりの女性と、初めて京都にきてくださった大ベテランの女性の共同作業で生まれていきました。

 きっかけになったのは、新サポーターの女性の「男を一度逃げさせておいてワナにはめるというやり口があまりに残酷で……」という発言でした。物語の中盤で、男は一度砂の穴からの脱出に成功します。しかし、脱出中に部落の人々に見つかってしまい、追われる羽目に。砂の中を逃げる中、男は人食い砂に足を踏み入れ、全身砂に埋もれてしまいます。助けてくれと叫んだ男は部落の人々に助けられ、そして砂の穴へ連れ戻されて行くのです。この、一度脱出に成功させておいてワナにはめて連れ戻すというやり口がえげつないと、女性は言ったのでした。

 そして、この発言を引き継ぐ形で、ベテランの女性が話を続けます。「男はこれで気落ちして、そこから脱出しようという意欲を失っていますよね。砂の中の生活に慣れさせられていったというか」つまり、物語の展開に即していくと、男が逃げなかったのは、一度脱出するも失敗し、望みを絶たれたからだということになります。こちらの読みだと、男が砂の中に残ったのは、人に認められるためといった自らの選択の結果ではなく、周りの力によって選ばされた結果ということになります。短い間に全く異なる2つの読みが提示されるという、面白い展開になりました。

 さて、ここで書いてきた話ですが、僕が読んでいる時には全く疑問に思わなかった内容だったので、全てが新鮮でした。改めて考えてみるに、僕は何とか小説の世界に入るべく、男の目線にべったり寄り添い砂を眺めるので精一杯だったのだと思います。その間に、他の方々は、男の人となりに疑問を抱いたり、物語の展開の中に出来事の因果関係を見抜いたりしていたのでしょう。

 特に、男の人となりに関する話には興味を惹かれました。ここで紹介したのは承認欲求に関する話でしたが、話し合いの中では他にも、「男は自意識過剰」「実生活でもあまり充実している様子がない」「失踪したのに誰も探しに来ないというのは、つまりそういうことではないか」など、辛辣な意見が相次いでいました。二度読む気はあまりない作品ですが、もしページを開く機会があれば、今度は男に注目して読んでみたいと思います。

◇     ◇     ◇

 さて、書きたいことがまだ幾つか残っておりますが、ここでまた一度話を区切ろうと思います。正直に打ち明けると、最近記事を朝に書いていることが多いのですが、しばしば書き切れずに朝食の時間が削られてしまっているのです。ちゃんと食べてはいるんですけれど、押し込みがちと言いますか……皆さん、すみません、飯食わせてください。

 あーあ、2回で書けると思ってたのになあ……

 つい心の声が出てしまいました。皆さま、課題本編③もお楽しみに。

 前回に続き、5月26日(日)に京都北山のサクラカフェで開かれた「彩ふ読書会@京都」の振り返りを書き綴ろうと思います。前回は午前の部=推し本披露会の様子を振り返りました。今回は午後の部=課題本読書会へと話を進めていきましょう。

 今回の課題本は、安部公房の『砂の女』です。

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 昆虫採集のために砂丘を訪れた「男」は、部落の者に宿の斡旋を頼んだ結果、砂でできた幅20メートルほどの穴に閉じ込められてしまう。穴の底には一軒のボロ家があり、30代くらいの女がひとりで暮らしている。放っておけばどこからともなく舞い来る砂に埋もれていくその場所で、女は毎晩スコップで砂を掻きだす仕事に従事していた。そんな非人間的な生活は御免だと、男は穴からの脱出を試みるが、遂に失敗し、穴の底で砂を掻きながら女と暮らし始める。——現実にはおよそあり得ないような不条理な出来事を描いた小説でした。と同時に、作中の出来事は僕らの生き様の隠喩になっているのではないかと思えるような作品でもありました。

 さて、課題本読書会は13時40分ごろに始まり、1時間半ほど続きました。今回は21名の参加者がおり、3つのグループに分かれて読書会を行いました。最初の挨拶の後、グループの中で、課題本の感想や気になったことなどについて1時間余り話します。そして、15時を回ったところで、それぞれのグループの話を共有すべく、全体発表を行います。全体発表は、各グループの代表1名が、グループ内での話を要約して紹介するという形式です。全体発表の後、今後の活動のお知らせがあって、読書会は終了となります。

 僕はCグループで話し合いに参加しました。メンバーは全部で7名。男性4名、女性3名という構成でした。初参加の方が1人いたほかは全員リピーターの方でしたが、まだ来始めたばかりの方からベテランまで色んな方が参加していました。進行役を務めたのは、今月京都読書会のサポーターになったばかりの男性でした。この男性、『砂の女』はあまりお気に召さなかったようで、どう場を回せばよいか直前まで悩んでいましたが、結果的には、「正直よくわからなかった」という男性の率直な感想が引き金となり、自然に場が盛り上がっていました。

 それでは、トークの内容を詳しく見ていくことにしましょう。と、言いたいところなのですが——

◇     ◇     ◇

 今回の課題本読書会振り返りは、従来のそれとは違う構成で書いてみようと思います。

 これまでは、会のライブ感を出すため、実際のトークで出た話を前から順番に紹介する形で、読書会を振り返っていました。しかし、この方法だと、僕自身が課題本を読んでどんなことを感じ考えたのかということや、読書会に参加して何を思い何に気付いたのかということが、十分に反省できないのです。自称・読書会サポーター兼レポーターとして、毎回振り返りまで書いておきながら、それぞれの読書会でどんなことを感じたり考えたりしたかを上手く消化できていないのは、なんとももどかしい……

 そこで、今回の振り返りでは、まず、①僕自身は『砂の女』をどう読んだのかについてちゃんと書こうと思います。そして、そのうえで、②課題本読書会に参加して、自分の感想はどう変わったのか/変わらなかったのか、新たな発見はあったのかといった切り口から、読書会を振り返ろうと思います。これまでの振り返りに比べると、僕の存在がかなり前面に押し出される形になるので、少々鬱陶しいかもしれません。が、とにかく今回は、僕という一人の参加者の読書経験、そして読書会経験を丁寧に追跡することで、読書会に迫っていきたいと思います。

 というわけで、僕は『砂の女』をどう読んだのかという話から始めようと思います。

◇     ◇     ◇

◆ひじき氏、読書開始早々心挫ける

 読書経験の話をすると言っておいていきなりこう言うのもどうかと思いますが、『砂の女』を読み始めて最初に出てきた感想は、「こりゃ無理だわ」でした。その思いに耐えて読み進めると、後で見るような考察も出てくるのですが、最初の数10ページを読んでいるうちはもう投げ出したくて仕方ありませんでした。

 どうして読むのが辛かったのかを振り返ってみるに、一番の理由は、物語世界の映像が全く浮かんでこなかったことのように思います。小説を読むとき、僕はいつも頭の中に映像を思い浮かべるのですが、『砂の女』に関しては、映像化が全くできませんでした。物語の冒頭で、主人公の男が昆虫採集を目的に海辺の砂丘へ向かうシーンが出てくるのですが、ここがもう像を結ばない。まして、そのあとに続く砂地の様子や部落の姿は思い浮かべられないし、男が閉じ込められる砂の穴の形もいまいちピンと来ない。そして、穴の底に住む女の姿形が全くわからない——ここまで映像化できない作品に出会ったのは初めてのことでした。そして、それはすぐさま、作品の掴みどころのなさを意味しているように思われました。あまりのわからなさに、僕は匙を投げかけたのだと思います。

 わからないと言えば、男が昆虫採集に勤しんでいるというのも、虫嫌いの僕には理解しかねることでした。男が追っているのはハンミョウという虫の新種なのですが、冒頭に出てくるハンミョウの解説についても、僕は「いや、いいから」と思っていたような気がします。それでも、ある時ふと思い立ってハンミョウの画像を検索してみました。すると出てきたのが、玉虫色のカミキリみたいなグロテスクな虫。僕はうげえと顔を背け、「ますますわからん」と思ってしまいました。

 もう1つ、僕の心を萎えさせたものがありました。これまた冒頭に出てくる、砂の定義です。小説に四角四面の定義が出てくるという時点で、僕は結構しんどいものを感じていました。さらに、この定義の中に「直径2~1/16m.m.」という記述が出てくるのですが、そのためか、作中では砂がしばしば「1/8m.m.」と表現されています。これがもう決定的にムリ。何がどうムリなのかは上手く説明できないのですが、とにかくこの「1/8m.m.」で、僕の心はノックダウンさせられてしまいました。

 以上、感想の出だしからいきなり、小説を読んでいてキツかったことの話を長々と書いてしまいました。とはいえ、一度読み出した本を途中で放り投げるのは僕の性に合わないし、読み切らなければ読書会で喋ることも見つからない。とにかく読み進めることにしました。その際、心が挫けてしまわないよう、1つのテーマを設定し自分なりに考察することにしました。その考察の話を続いて書くことにしましょう。

◆「砂」は何の象徴/比喩なのか?

 僕が設定した考察のテーマは、「砂」は何の象徴/比喩なのか、というものでした。以下、個人的な解釈をそのまま書いてみようと思います。

 僕が作中から拾い上げてきた砂のイメージは、〈法則に従って(=人間の意志の力の及ばないところで)さらさらと流れるもの〉〈力を加えると変形してしまう押し応えのないもの〉〈内に含んだ湿気を放出し人家を腐らせてしまうもの〉などでした。そんな砂の中に男は閉じ込められる。彼はその仕打ちに反発し、抵抗を試みますが、押し応えのない砂は、男の抵抗をするりとかわし、何もなかったかのようにさらさらと流れ続けます。そうこうするうち、男は抵抗の意欲を失い、砂の中の生活に慣れていく。人家と同様、男の抵抗力もまた腐ってしまい、現状に甘んじるという選択肢だけが残るのです。

 そうしてみると、砂というのは、世間の波の象徴ではないかという気がしてきました。人は誰しも一度は世間に抗って生きていこうとする。けれども、その思いは押し流され、結局人は世間のうちに安住することを選んでしまう。僕は決して、人の軟弱さを嘆きたいわけではありません(自分だって同じように軟弱なのだから)。代わりに、それだけ世間というものは、押し応えがなく、ぬるりとしていて、太刀打ちできないのだ、というもどかしさが募るのでした。

 このように、砂が世間の象徴なのだということが見えてきた辺りで、僕は漸く『砂の女』の凄さというものに気付くことができました。ここでいう凄さには2つの意味があります。1つは、僕らを取り巻く世界の姿を比喩的に暴き出しているという意味。そしてもう1つは、世間のような姿のないものを砂という見たり触れたりできるものでもって表現しているという意味です。特に後者は僕の興味をそそりました。これまで、世間や空気という表現で、僕らを取り巻く目に見えない力を表現しようとしたものには幾つも出会ってきました。しかし、『砂の女』では、同じものが「砂」という具体物の形をとって描かれている。僕はそのことを何度も何度も思い返しては「すげえすげえ」と心の中で繰り返していました。

◆見える「砂」、見えない全体像

 男を取り巻く「砂」について考えるうち、もう1つ、僕の心に浮かんだ問いがありました。それは、男を砂の穴に閉じ込めた部落の人たちは何を象徴しているのか、というものでした。しかし、僕の関心(自分たちを取り巻く抗いがたい力への関心)から言えば、この問いはあまり意味のあるものではなかったように思います。というのも、作品を読み進めるうち、部落の人たちはただ不条理を押し付ける存在ではなく、むしろ彼らもまた世の不条理に晒されているということが見えてくるからです。

 部落の人たちは常に県の役人との関係を気にしていますし、砂による被害(腐食や埋没)に誰も施策を打ってくれないことを嘆いています。辺境の地で社会の発展からも取り残されています。打つ手はないと諦めつつ、今の生活を守るために時折外の人間を囲い込み労働力化していく。そんな彼らもまた、不条理の末端に過ぎないのです。

 そのように考えていくと、作品世界の中で男に襲い掛かる力の全体像は、結局見えないということになります。手近なところでは砂の押し応えのなさに抵抗力を奪われ、さらに視野を広げてみれば、結局のところ、何に抗えばいいのかの見えなさに途方に暮れる。『砂の女』という作品全体を通して描かれているのは、このように何層にも積み重ねられた、世の中の力の恐ろしさと、我々の打つ手のなさである。僕にはそのように思えてなりませんでした。

◇     ◇     ◇

 僕が事前に考えていたのは、およそこのようなことでした。では、こうした考え、更に、最初に書いたような「この小説ちょっと無理やわ」という感想を抱いていた僕にとって、読書会はどのような場になったのでしょうか。いよいよここから話は読書会へと移っていきます。と、言いたいところなのですが——

 もう随分長くなってしまいましたので、読書会本編の振り返りは次回に譲ろうと思います。同じような感想が出てくることもあれば、僕が全く考えつかなかったような意見に出会うこともありました。穴の底に住む女のイメージに関する面白い意見も登場します。皆さま、次回もぜひご覧ください。

 5月26日・日曜日。京都の北山にあるサクラカフェにて、今月の彩ふ読書会@京都が開催されました。というわけで、これから暫く、この読書会の模様を振り返っていきたいと思います。

 読書会は①午前の部、②午後の部の二部構成で行われます。①午前の部は、参加者がそれぞれ好きな本を紹介し合う「推し本披露会」、②午後の部は、課題本を事前に読んできて感想などを語り合う「課題本読書会」です。さらに、京都の読書会では、午後の部が終わった後も会場をお借りして、参加者同士でフリートークやゲームに興じる「ヒミツキチオブサクラカフェ」を開催しています。このヒミツキチ、今回は「オトナの学童保育」という別名が誕生するほど無邪気さと遊び心溢れる場になりましたが、その話はまた今度に譲りましょう。この記事では、①午前の部=「推し本披露会」の模様を振り返りたいと思います。

 推し本披露会は、毎回10時40分ごろに始まり、1時間半ほど続きます。参加者は6~8名ずつのグループに分かれて座り、グループの中で本を紹介し合います。紹介する本にジャンルの縛りはありません。毎回、純文学・エンタメ・ミステリーといった各種小説から、エッセイ・ビジネス本・コミックスまで、様々な本が紹介されています。

 開始から1時間ほど経ったところで、グループでの話し合いは終わり、全体発表に移ります。全体発表は、先月から、各グループの中で最も読みたい1冊に選ばれた本のみ紹介する形式に変わりました(それまでは全員発表制だったのですが、尺が長くなってしまうという理由から変更になりました)。そのため、全体発表の前に各グループで本の投票を行うという新たな一幕が見られるようになりました。

 今回の推し本披露会には、過去最多・28名もの参加者がありました。そのため、グループも史上最多の4グループに。これまで3グループでやっていた会場にもう1テーブル作るので、狭くなるんじゃないかなあとか、お互いの声が被り合うんじゃないかなあ(俺声デカいし)とか、始まる前は何かと懸念もありましたが、始まってみればいつもの和気藹々とした読書会でした。

 僕はAグループに参加し、進行役も務めさせていただきました。メンバーは全部で7名。男性5名、女性が2名という構成でした。初参加の方が1人おられたほかは、お馴染みの顔ぶれでした。

 紹介された本は写真の通りです。それぞれの本を巡り、どんな話が展開したのか。そして、最も読みたい1冊に選ばれた本は何だったのか。順にみていくことにしましょう。

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◆『自分の仕事をつくる』(西村佳哲)

 ワタクシ・ひじきの推し本です。デザイナーとして働く傍ら、“働き方研究家”を自称し、様々な方の働き方を尋ねて回った著者のインタビューの記録をまとめたものです。

 僕がとにかく良いなと思ったのは、この本を貫く2つの考えでした。1つは、人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを受け取りたがっているものであり、ゆえに、「こんなものでいい」というモノにではなく、手間暇かけてつくられたモノに囲まれているべきだ、というもの。もう1つは、いい仕事をするためには、自分の感覚を大切にし、それに自信をもって、他人事ではない「自分の仕事」をすることが重要だ、というものです。この2つの考えに触れるうち、僕は、自分のいい加減さを見直し、自他ともに大切にしていこうと思うようになりました。

 僕は仕事論の本や自己啓発本を食わず嫌いしているのですが、この本についてはついうっかりハマってしまいました。もちろん主張に感化されたからですが、グループで話しているうちに、この本がインタビュー集だったからという別の理由があることに気付きました。自己啓発本には著者が自分の主張をゴリ押しするようなものも少なくないですが、この本は著者自身が人から学び感化されたことが書かれているので、どの主張も押しつけがましくなく、むしろ謙虚さを纏っているような気さえします。とすれば、この本は普段自己啓発本を読まない人にこそ「ダマされた」と思って手に取って欲しいですね。

◆『吃音 伝えられないもどかしさ』(近藤雄生)

 初参加の男性からの推し本です。自身も吃音を抱える著者が、重い吃音を抱える方々を対象に行ったインタビューをまとめた本です。男性は、自身の職場に吃音の方が入ったのをきっかけにこの本を読んだと話していました。

 吃音については、現在も病気か否かについて意見が分かれており、論者の主張も、治療の対象とするか、個性として受け入れていくかに大きく二分されるそうです。この本は前者の立場で、伝えたいことが伝えられないもどかしさを克服すべきだという主張に立っているといいます。

 インタビューを受けた方の中には、吃音を理由に学校や職場でいじめに遭い、自殺を考えたこともあるけれど何とか思い留まったという方もいるそうで、その大変さが身に染みて分かると、紹介した男性は話していました。また、そこから、コミュニケーション一般についても考えを広げ、考えがまとまらないなどで言いたいことが言えない人がいた時、待つのか、相手の意図を汲み取って言葉をかけるかなど、色んなことを考えたと言います。「小学生の頃から、障がいのこととかって知ることが大切だって言われてきて、正直その考えが受け容れられなかったんですけれど、この本を読んで、それでも知ることには意味があると思いました」という最後のまとめが、とても印象的でした。

◆『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』(山崎圭一)

 最近よく来てくださる男性からの推し本です。高校生の頃に1年学んだだけの世界史を体系的に学び直したくて、この本を手に取ったとのことでした。年号などを一切出さずに、世界史の大きな流れをまとめた本で、要点がわかりやすくまとまっているので、ニュースを見るうえでも役に立つし、入門書としてオススメ、だそうです。

 この本の一番の特徴は、1つの地域を古代から現代まで一気に概観し、それから次の地域も同じように古代から近代まで概観する、というのを繰り返すという叙述の構成にあるといいます。確かに、高校の世界史の教科書は、ある地域の歴史をちょっと学習したら、すぐに同時代の他の地域の話に移ってしまって、また暫くして元の地域の歴史の続きに話が戻るという構成で、話があっちこっち飛んでいてややこしかった記憶があります。読み進め方1つで歴史に対する理解度は変わるんだというのが新鮮で、とても気になりました。

 ちなみに、「好きな時代や地域はありますか?」という質問に対して、紹介した男性は「地域ごとに歴史にに違いがあるので、全て面白い」と答えていました。その興味の幅広さ、見習いたいです…!

◆『クリムゾンの迷宮』(貴志祐介)

 京都読書会に初回から参加されている女性からの推し本です。彩ふ読書会で人気の高い作家の一人・貴志祐介さんの本が登場して、僕は勝手に「お、きたきた!」と思っていました。

 この作品は、見知らぬ土地に閉じ込められた9人の人間が、手渡されたゲーム機からの指令を頼りに脱出を試みる物語だそうです。主人公は40代の男性で、気付いたら見知らぬ土地に放り出されている。彼は以前の記憶を失くしており、手元には、水と、栄養食と、ゲーム機の入ったポーチだけが用意されている。男はこのゲーム機の指示に従い、ゲームを進め、謎の土地からの脱出を試みるのです。

 物語の前半は、謎の土地からの脱出をめぐるミステリーになっているとのことですが、後半から展開がガラッと変わるといいます。9人の人間のうち、実際に脱出できるのは1人だけ。そのため、脱出したい人々の物語は殺伐としたホラーへと転調していくのだそうです。

 物語の鍵を握るのは、ゲームの内容そのもの。ゲームのプランは予め決まっていて、それによって登場人物たちは攪乱されることになるのです。紹介者の女性は、このゲームの面白さが一番印象に残っているそうです。キャラクターよりもゲームの内容が気になるという人におススメ、とのことでした。

◆『葉桜』(橋本紡)

 久しぶりに読書会へ来てくださった女性からの推し本です。書道教室に通う女の子の、書道の先生への恋心を描いた小説だそうです。女の子は書道の先生のことが好きで、稽古を受ける中で先生への思いを募らせるのですが、先生には奥さんがいるため、想いと現実の間で女の子は葛藤を抱えます。色んな人との出会いの中で成長していく女の子が先生に思いを伝えるところまでが描かれると言います。

 高校の模試で出会って以来、幾つもの橋本紡作品を読んできたという紹介者の女性ですが、この作品はその中でも特に描写が綺麗な一作だといいます。『葉桜』というタイトルにもあるように、物語の季節は春から夏にかけて。その時期の風景描写や、登場人物たちの心理描写がとてもいいのだそうです。

 そして、一番の推しどころは、最後の告白シーンだと言います。告白というと、声に出して伝えるイメージですが、女の子の告白は、書道を通じて思いを伝える、それも中国の故事にあやかる形で書くというスタイルだそうです。そして、この告白への返しがまた秀逸なのだとか。内容がとても気になります。

◆『悲しくも笑える左利きの人々』(渡瀬けん)

 読書会、そして謎解き部でもご一緒している男性からの推し本です。いつも心温まる小説を紹介されている印象があるのですが、今回の推し本は意外にもエッセイ本でした。

 この本は、自身左利きの著者が、身の回りの色んなモノや場面を挙げながら、左利きならではの苦労や不満、あるいはちょっと誇れることなどを短く綴ったエッセイ集です。実は紹介した男性も左利きで(全然気付いていませんでした…)、この本を読みながら「これがやり辛いのは左利きのせいか!」という発見が幾つもあったようです。

 聞いていて一番面白かったのはマグカップの話。マグカップが左利きに不利というのはちょっと意外な感じですが、なんでもマグカップの絵柄は右手で持った時に手前側に来るように描かれているそうで、左利きの人は折角の絵柄を自分で見ることができない。そこで紹介者が放った一言がこちら。「同じ代金を払っているのにこれはあんまり不公平じゃないか」本文からの引用だったそうですが、まさかそんな言葉を口にする方とは思っていなかっただけに、とてつもないインパクトがありました。

 グループで話している際には、他にも、自動改札機、はさみ、急須、自動販売機のコインを入れる位置など、左利きの人が実は使いづらいものが参加者たちの間から幾つも挙げられていました。身近なところに、普段は全く気付かない問題が隠されていることに気付けるであろう1冊、とても気になりました。

◆マンガで教養 やさしい落語(柳家花緑)

 彩ふ読書会の代表・のーさんの推し本です。タイトルの通り、マンガ形式の落語の入門書です。主人公が師匠に弟子入りするという設定で話が進み、落語の舞台裏が紹介された後、実際の寄席の様子などが登場するそうです。曰く「読めば寄席に行きたくなる本」。本の最後の方には、いま注目の噺家や代表的な演目についての解説もあり、それも非常にタメになるそうです。「テレビでよく見るあの人も、そういえば噺家だった」と再発見する機会にもなるといいます。

 実は以前から落語に興味深々の代表。昨年9月に佐藤多佳子さんの『しゃべれどもしゃべれども』を課題本にし、準備万端、落語鑑賞会を企画していたということもありました。ところが、この鑑賞会は台風の接近で中止。結局代表はまだ寄席に行ったことがないままなのだそうです。もう思いが募って募って仕方ないのではという気がします。この本を紹介した時も、開口一番「この話がしたかった…!」と思いを滲ませていました。

 話し合いの中では「落語って前提知識がないと楽しめないんでしょうか」という質問が出ていました。「そんなことはないけれど、やっぱり背景知識があるとより深く楽しめるんじゃないか」という話になりました。実際に本をめくってもみましたが、噺の途中の所作なども詳しく紹介されていて面白かったです。

◆「一番読みたい1冊」はこれだ!

 本の紹介の時間も終わり、いよいよ、グループの中で一番読みたい1冊を選ぶ時間がやって参りました。推し本をテーブルの中央に集め、「これは!」と思う1冊を一斉に指差します。

 結果はこちら。

 1位:『悲しくも笑える左利きの人々』4票
 2位:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』2票
 3位:『葉桜』1票

 ということで、Aグループの「一番読みたい1冊」は、『悲しくも笑える左利きの人々』になりました。ちなみに僕もこの本に投票しました。やっぱり、マグカップの話の「同じ代金を払ってるのに」発言のインパクトが強すぎました。なので、全体発表を前に「マグカップの話絶対にしてくださいね」と念押し。実際、めちゃくちゃウケてました。

 発表する本が決まった後、グループの中では「やっぱり少数派のものの見え方って気になりますよね」という話が出ていました。そこで僕はつい言ってしまいました。「少数派のことを書いた本を紹介しようっていうのを、多数決で決めたってのもおかしな話ですよね」なんとも言えない笑いが起きました。

◆全体発表

 最後に、全体発表のことを振り返りたいと思います。Aグループの紹介本については上でご紹介した通りですので、他のグループの紹介本について書き留めることにしましょう。

〈Bグループ:『具体と抽象』細谷功〉

 京都サポーター兼哲学カフェ部等部長であり、今回から京都読書会のリーダーにもなった錚々たる肩書きの持ち主・Cさんの推し本です。最近ことあるごとにこの本のことを話されていましたが、どうやら今年一番印象に残っている本なのだそうです。曰く、「賢い人はなぜ賢いのかがわかる本」。賢い人は、思考の過程で具体と抽象の間を絶えず往復させているということが書かれていると言います。この本を読めばきっと賢くなれる、「実際、私は3賢くなった」そうです。

〈Cグループ:『ほどなく、お別れです』長月天音〉

 今回初めて京都読書会に来られたベテランの女性からの推し本です。就職活動の結果、葬儀社に勤めることになった女の子が、様々な死者を送り出す物語だそうです。曰く「いっぱい泣けます」とのことでした。白を基調とした淡い表紙も印象的な1冊でした。

〈Dグループ:『トリック』エマヌエル・ベルクマン〉

 先月に引き続き東京から駆け付けてくださった女性からの推し本です。ホロコーストを生き延びたマジシャンと、ロスの裕福な家庭に住む男の子の交流を描いた物語だそうです。曰く、「ナチスドイツを描いたもので、こんなに温かくきれいな終わり方をする作品を他に知らない」とのこと。どういうことなのか、とても気になります。ちなみに、この方は現在、3回連続で紹介本が「読みたい1冊」に選ばれているそうです。凄すぎて言葉が出ません。

 そのほかの推し本についても、写真にまとめましたので、気になる方は是非ご覧ください。

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 といったところで、午前の部の振り返りを締めくくろうと思います。次回は午後の部を振り返ります。ご期待ください。

 夜になってから暫く、ノートを広げて考えごとをしていた。色んなことを考えていたのだけれど、その中に、このブログのこともあった。

 最近、文章を書くことが億劫になっていた。少し前まで、自分の中で大切にしていきたいことの1つに掲げていた〈書くこと〉が、どうでもいいことになっている。僕は戸惑いつつも、まあそういうもんなのかなあと思って受け流していた。

 けれども、落ち着いて考えてみて気が付いた。〈書くこと〉が億劫になっているのは、僕がいま書きたい文章と、これまで書いてきた文章の間にギャップがあって、そのギャップを埋めることができていないからじゃないかと。

 前にも一度書いたことがあるのだけれど——このブログを始める時、僕は、人に読まれることを前提に、面白くてクスッと笑える文章を書こうと思っていた。自分が読者だったとして、どんな文章を読みたいかを考えた時、やっぱり面白く笑えるのがいいよねと思ったのがきっかけだった。けれど、暫く続けるうちに、ウケに走り過ぎているような、というより、僕が日常そのものをネタ化してテキトーに茶化しているような気がしてきた。それで一度軌道修正を宣言したのだった。

 以来、このブログは、真面目とウケ狙いの間を往還し続けてきた。正確に言えば、その往還を続ける中で、徐々に真面目方向へとシフトしてきている。けれど、一度築き上げていた“面白おかしいブログ”というイメージは、僕自身、簡単に崩せなくなっていた。真面目方向へのシフトは確実に起こっている。けれど、僕はどこかで、面白いものを書きたい/書かなきゃという思いを捨てきれずにいた。

 要するに、僕がこれまで書いてきた文章というのは、面白おかしい文章であった。実際に狙いが達成されたかはわからないが、書き手としてはそういう意識をもっていた。これに対して、僕がいま書きたい文章というのは、真面目化を更に推し進めたような文章である。自分が気になったこと、考えたことを、さらに深く掘り下げて、自分自身の中に何かを積み残せるような文章。そんなものを、僕は書きたい。

 最近の僕は、何もかも惰性でやっていて、あらゆるものを受け流してしまっている気がする。その状況を変えるために、僕はここで、ノートと文章の力を借りることにしたい。自分とよく向き合うための文章を書いていきたい。

 勝手にやればいいことかもしれない。けれど、僕はどうしてもこれまでの流れみたいなものに囚われがちで、一度自分の考えたことをドンと表に出しておかないと、何も変えられないような気がしてしまう。それで、今回は思い切って、自分が本気で考えたことをそのまま書き出すことにしました。

 書く内容だったり、書き方だったり、これから変わっていくかもしれませんが、それでも良ければ、またここへ立ち寄って文章を覗いてやってください。

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