引き続き、4月21日に北山のSAKURA CAFEで開かれた彩ふ読書会@京都の振り返りをお届けしたいと思います。前回から午後の部・課題本読書会の振り返りに入りました。今回はその続きを書き進めることにしましょう。
改めて、今月の課題本をご紹介します。重松清さんの『青い鳥』——様々な理由で学校に馴染めないでいる中学生の子どもたちが、非常勤教師としてひょっこり現れる村内先生との短くささやかなやり取りを通じて、胸の奥のわだかまりをほぐし、前へ進み始める姿を描いた連作短編集です。
課題本読書会の概要も振り返っておきましょう。参加者は全部で12名で、2グループに分かれて1時間あまり感想などを話し合いました。僕のいたテーブルには、ほかに、京都サポーターの男性、京都サポーターの女性、初参加の女性、参加2回目の男性、参加2回目の女性がおりました(課題本編①ではもう少し丁寧に説明していますので、詳しくはそちらをご覧ください)。
前回の記事(課題本編①)では、同じグループにいた6名全員の感想を詳しく紹介すると共に、僕が出した「学校ってなんだろう」という疑問をめぐる話し合いや、個人的な逡巡の模様を取り上げました。今回の記事では、僕以外のメンバーから出た疑問についての話し合いの様子を振り返りたいと思います。なお、途中何度か個人的かつ事後的な考察を挟みます。
◆カエルを殺していた男の子の気持ち
トークの途中で、進行役の男性から「『ひむりーる独唱』の主人公の男の子の気持ちがどうしてもわからない」という疑問が出ました。この話の主人公は、自分でも理由がわからないまま担任の先生をサバイバルナイフで刺してしまい、その後母親の計らいで一夏を過ごすことになった祖母の家の近くで隠れてカエルを100匹余り刺し殺してしまいます。祖母が男の子を恐れたことで転校という選択肢を失った彼は、再び元の学校に通うことになり、そこで村内先生に出会います。
さて、進行役の男性の疑問は、正気を保ち悪い事をしていると分かっていながら、カエルを刺すことをやめられないというのは、いったいどういうことなのか、というものでした。さすがに主人公と同じような経験をもつメンバーはいなかったようで、グループでは沈黙が続く中、僕が時折思い付いたことを口にするという展開が続きました。その時バラバラと話していた内容が、今になって一本の線に並びそうなので、要点だけ書き留めておこうと思います。
カエルを刺すという行為は、主人公がいまの自分の状況に対する不満の捌け口を自分より弱い存在に求めていることの表れではないか。これが僕の読みです。刺す=凶器を振るうことは、彼が現状を切り裂きぶち壊したいという衝動を抱えていることを、そして、その対象がカエルであるということは、彼が衝動の矛先を自分より弱い存在にしか向けられなかったことを、それぞれ意味しているように僕には思えます。
そのうえで問題になるのは、彼が抱えていた不満の元凶は何かということです。端的に言えば、それは存在の希薄さだと思います。何の取柄も特徴も持たない彼は、事件まで極めて目立たない子だったと描写されています。そこから察するに、彼は自分の存在を確かめる術を持たなかったのではないか。自己肯定感という言葉が、昨今お題目のようにあちこちで唱えられていますが、彼に足りなかったのは、自己肯定感以前に自己存在感だったのではないか。そんな彼に自信などあるはずもない。まして、担任の先生を刺してしまったことで自分は最低な人間だという罪悪感ばかりが募っている。その重みを想像し続ければ、自分より弱い存在を見出さずにはいられない、そしてそこにしか不満の捌け口を求められない彼の切実さがじわじわと胸の奥で広がるような気がします。
一応これが先の疑問に対する僕の答えのエッセンスです。もっとも、ここまで書いておいて言うのもなんですが、この読みは恐らく不十分ですし、そもそもこのような回答を提示すること自体問題含みだったような気もします。というのも、よくよく考えてみるに、「ひむりーる独唱」という話そのものに込められていたメッセージの1つは、大人が子どもを安易にわかろうとすることへの批判にちがいないからです。この話を掘り下げたい気持ちは山々ですが、本題に帰って来られなくなること間違いなしなので、そろそろ読書会に話を戻そうと思います。
◆あやちゃんに村内先生の言葉は響いたか
ここで僕らは、初参加の女性が出した問いに取り組むことにしました。それは、「静かな楽隊」という話の最後の場面で、クラスの女子グループのリーダー・あやちゃんに、村内先生が語り掛けた言葉は響いたのだろうか、という問いです。あやちゃんは成績優秀で頭も切れますが、私立中学の受験に失敗し公立中学に入ります。そしてその頃から、クラスの女子全員を巻き込むグループをつくり、そのトップとして、気に入らない先生を休職に追い込むなどやりたい放題振舞います。グループに入らない女の子は無視されるので、誰も抜け出ることはできません。その様子は本文で「あやちゃん帝国」と形容されています。
そんなあやちゃんと村内先生が教室で対峙する場面が、この話のクライマックスです。吃音の先生に教えられると成績に影響して迷惑だから「国語の授業、他の先生に代わってもらってください」。そう切り出し、答えを求めるあやちゃんに対し、先生は3つの言葉を黒板に書いて語り掛けます。自分は〈たいせつなこと〉しか喋らないこと。学校の先生の役割はみんなの〈そばにいること〉だということ。そして、先生が伝えなければならないことはたった1つ、誰も〈ひとりぼっちじゃないこと〉だということ。「みんなを集めなくてもいい、いらいらしなくてもいい、何もしなくていい」。そう話し掛ける先生に、あやちゃんは一言、「さっきの議題、どっか行っちゃってまーす」と返し、先生はそこで、とびきり優しく、とびきり悲しい顔を浮かべます。その後先生は異動の挨拶をし、黒板の字を消して教室を去ろうとしますが、その時あやちゃんが「消さなくていいです」と止めます。そこで先生は優しく、悲しく、そしてうれしそうな顔になるのです。
さて、この場面で、あやちゃんに村内先生の言葉は響いていたのでしょうか。
トークが始まった時点では、誰もが、響いたとは思うけれどどのくらい響いたのだろうと迷いながら話をしていました。「あやちゃんに言葉が届いたからこそ先生は去ったのだと思うんですけど、あやちゃんがすぐに変われるかはわからないですね」といった発言もありました。
そんな中、話が動くきっかけになったのは、この話でだけ、先生はメッセージをみんなの前で語っているという“発見”でした。他の話では、先生は助けたい子と1対1で話すのですが、この話だけ、先生が話すのはホームルームの場面になっています。もしかしたら、先生は、クラスのみんなの前で話をすることによって、みんなの変化があやちゃんの変化に結びつくようにしたのかもしれない。先生は、あやちゃんが賢くて繊細だということも十分わかったうえで、敢えてそんな方法を選んだのではないか。
「アドバイスはアドバイスしたい人には届かない、ってよく言うんです」と言いながらこの話に乗ってきた方がいました。「主人公の“わたし”が、先生が去ってから何とかしてくれるんじゃないか」と話した方もいました。
結局、絶対こうだという結論は出ませんでした。ですが、新たな発見はあったように僕には思えました。
◆「たいせつなこと」と「正しいこと」
トークの最後に、参加2回目の男性が出した、「たいせつなことと、正しいことって、違うんですか」という問いを、みんなで考えることになりました。この問いは、「進路は北へ」という話の中で、みんなエスカレーター方式で内部進学する私立中学校をひとり出て行こうとする主人公の女の子が、村内先生に尋ねた問いでもあります。
2、3の発言が飛び交い、メモを取りつつ、僕はふと、この問いはフェイクじゃないかという気がしました。違いを明らかにすることが目的ではないのかもしれない。問いと、それに対する先生の答えを突き合わせてみる。そこから浮かび上がってくるのは、先生が伝えたいのは、「たいせつなこと」を大事にしなさいというメッセージではなかろうか。「正しいこと」に囚われがちな子どもたちに、いやむしろ、読み手である僕らに対し、「正しいこと」ではなく「たいせつなこと」を拠り所にして生きていきなさいと伝える。それがこの問いの、小説の一節として見たときの、本当の意味なんじゃないだろうか。
そんな風に考え方をずらしていると、一度棚に上げた「正しいこと」と「たいせつなこと」の違いも、急につかめるようになってきました。これは読解というより僕自身の漠然としたイメージですが、「正しいこと」は自分の外側にあるのに対し、「たいせつなこと」は自分の内側にあるような気がする。そう思うと、先のメッセージは、自分の内側にある「たいせつなこと」を見つけ、それを信じ温めながら生きていこうという意味に思えてきました。
これらのことを、僕がまだ整理しきれない言葉でダラダラと喋っていると、進行役の男性がこう引き継いでくださいました。「なるほど、正しいことっていうのは、“正しいとされていること”を指してるのかもしれませんね。自分で考えたことではなく、なんとなくそうだとされていることを」。
その言葉を聞いた時でした。急に僕の中で、ある疑問が溶解していったのです。
◆どうして大人になってから、学校に違和感を覚えたのか
前回の記事の中で、「学校ってなんだろう」という疑問を巡るやり取りを紹介したのですが、その中で僕はこんなことも書いていました。
学校ってなんだろうという問いの裏には、どうして今ごろになって学校に違和感を覚えるようになったのかという疑問が貼り付いている。
「たいせつなこと」と「正しいこと」を巡るやり取りの中で急に溶解した疑問、それはまさに、〈どうして今ごろになって学校に違和感を覚えるのか〉というものでした。
ああそうか、僕はどこかで、「正しいこと」ではなく「たいせつなこと」を大事にしていこうという気付きを得ていたんだ。
“正しいとされていること”を鵜呑みにして、何も考えず大きなものに寄っかかるんじゃなく、何が本当にたいせつかを、拙いなりに考えようと思えるようになっていたんだ。
だから僕も、『青い鳥』に出てくる子どもたちと同じような違和感を覚えるようになったんだ。
そう思った瞬間、僕は急に嬉しくなって、目が熱くなったのでした。
僕がひとりで勝手にアツくなったところで、グループトークの時間は終わり、全体発表が始まりました。いつもならもう1グループの話の内容も書き出すところですが、聞いている限り、今回はどちらのグループも近いテーマで話していたようだったので、割愛しようと思います。
というわけで、午後の部のレポートをここで締めようと思います。今回あまり他の人の発言を拾うことができず、独り相撲のようなレポートになってしまいました。ただ、考えるきっかけになった1つ1つの問いは、大勢で話し合ったからこそ浮かび上がってきたものです。だからこれは、一人で黙々と書く読書ノートとはまた違うのだと、そう叫びたがっている僕は、ちょっと無理をしているのでしょうか。審判は皆さんに委ねたいと思います。
さて、以上で読書会本編の振り返りは終了となりますが、4月21日の出来事はまだ終わりません。次回、この後続いたフリータイムの模様を書いていこうと思います。ぜひ覗きに来てください。それでは。
改めて、今月の課題本をご紹介します。重松清さんの『青い鳥』——様々な理由で学校に馴染めないでいる中学生の子どもたちが、非常勤教師としてひょっこり現れる村内先生との短くささやかなやり取りを通じて、胸の奥のわだかまりをほぐし、前へ進み始める姿を描いた連作短編集です。
課題本読書会の概要も振り返っておきましょう。参加者は全部で12名で、2グループに分かれて1時間あまり感想などを話し合いました。僕のいたテーブルには、ほかに、京都サポーターの男性、京都サポーターの女性、初参加の女性、参加2回目の男性、参加2回目の女性がおりました(課題本編①ではもう少し丁寧に説明していますので、詳しくはそちらをご覧ください)。
前回の記事(課題本編①)では、同じグループにいた6名全員の感想を詳しく紹介すると共に、僕が出した「学校ってなんだろう」という疑問をめぐる話し合いや、個人的な逡巡の模様を取り上げました。今回の記事では、僕以外のメンバーから出た疑問についての話し合いの様子を振り返りたいと思います。なお、途中何度か個人的かつ事後的な考察を挟みます。
◆カエルを殺していた男の子の気持ち
トークの途中で、進行役の男性から「『ひむりーる独唱』の主人公の男の子の気持ちがどうしてもわからない」という疑問が出ました。この話の主人公は、自分でも理由がわからないまま担任の先生をサバイバルナイフで刺してしまい、その後母親の計らいで一夏を過ごすことになった祖母の家の近くで隠れてカエルを100匹余り刺し殺してしまいます。祖母が男の子を恐れたことで転校という選択肢を失った彼は、再び元の学校に通うことになり、そこで村内先生に出会います。
さて、進行役の男性の疑問は、正気を保ち悪い事をしていると分かっていながら、カエルを刺すことをやめられないというのは、いったいどういうことなのか、というものでした。さすがに主人公と同じような経験をもつメンバーはいなかったようで、グループでは沈黙が続く中、僕が時折思い付いたことを口にするという展開が続きました。その時バラバラと話していた内容が、今になって一本の線に並びそうなので、要点だけ書き留めておこうと思います。
カエルを刺すという行為は、主人公がいまの自分の状況に対する不満の捌け口を自分より弱い存在に求めていることの表れではないか。これが僕の読みです。刺す=凶器を振るうことは、彼が現状を切り裂きぶち壊したいという衝動を抱えていることを、そして、その対象がカエルであるということは、彼が衝動の矛先を自分より弱い存在にしか向けられなかったことを、それぞれ意味しているように僕には思えます。
そのうえで問題になるのは、彼が抱えていた不満の元凶は何かということです。端的に言えば、それは存在の希薄さだと思います。何の取柄も特徴も持たない彼は、事件まで極めて目立たない子だったと描写されています。そこから察するに、彼は自分の存在を確かめる術を持たなかったのではないか。自己肯定感という言葉が、昨今お題目のようにあちこちで唱えられていますが、彼に足りなかったのは、自己肯定感以前に自己存在感だったのではないか。そんな彼に自信などあるはずもない。まして、担任の先生を刺してしまったことで自分は最低な人間だという罪悪感ばかりが募っている。その重みを想像し続ければ、自分より弱い存在を見出さずにはいられない、そしてそこにしか不満の捌け口を求められない彼の切実さがじわじわと胸の奥で広がるような気がします。
一応これが先の疑問に対する僕の答えのエッセンスです。もっとも、ここまで書いておいて言うのもなんですが、この読みは恐らく不十分ですし、そもそもこのような回答を提示すること自体問題含みだったような気もします。というのも、よくよく考えてみるに、「ひむりーる独唱」という話そのものに込められていたメッセージの1つは、大人が子どもを安易にわかろうとすることへの批判にちがいないからです。この話を掘り下げたい気持ちは山々ですが、本題に帰って来られなくなること間違いなしなので、そろそろ読書会に話を戻そうと思います。
◆あやちゃんに村内先生の言葉は響いたか
ここで僕らは、初参加の女性が出した問いに取り組むことにしました。それは、「静かな楽隊」という話の最後の場面で、クラスの女子グループのリーダー・あやちゃんに、村内先生が語り掛けた言葉は響いたのだろうか、という問いです。あやちゃんは成績優秀で頭も切れますが、私立中学の受験に失敗し公立中学に入ります。そしてその頃から、クラスの女子全員を巻き込むグループをつくり、そのトップとして、気に入らない先生を休職に追い込むなどやりたい放題振舞います。グループに入らない女の子は無視されるので、誰も抜け出ることはできません。その様子は本文で「あやちゃん帝国」と形容されています。
そんなあやちゃんと村内先生が教室で対峙する場面が、この話のクライマックスです。吃音の先生に教えられると成績に影響して迷惑だから「国語の授業、他の先生に代わってもらってください」。そう切り出し、答えを求めるあやちゃんに対し、先生は3つの言葉を黒板に書いて語り掛けます。自分は〈たいせつなこと〉しか喋らないこと。学校の先生の役割はみんなの〈そばにいること〉だということ。そして、先生が伝えなければならないことはたった1つ、誰も〈ひとりぼっちじゃないこと〉だということ。「みんなを集めなくてもいい、いらいらしなくてもいい、何もしなくていい」。そう話し掛ける先生に、あやちゃんは一言、「さっきの議題、どっか行っちゃってまーす」と返し、先生はそこで、とびきり優しく、とびきり悲しい顔を浮かべます。その後先生は異動の挨拶をし、黒板の字を消して教室を去ろうとしますが、その時あやちゃんが「消さなくていいです」と止めます。そこで先生は優しく、悲しく、そしてうれしそうな顔になるのです。
さて、この場面で、あやちゃんに村内先生の言葉は響いていたのでしょうか。
トークが始まった時点では、誰もが、響いたとは思うけれどどのくらい響いたのだろうと迷いながら話をしていました。「あやちゃんに言葉が届いたからこそ先生は去ったのだと思うんですけど、あやちゃんがすぐに変われるかはわからないですね」といった発言もありました。
そんな中、話が動くきっかけになったのは、この話でだけ、先生はメッセージをみんなの前で語っているという“発見”でした。他の話では、先生は助けたい子と1対1で話すのですが、この話だけ、先生が話すのはホームルームの場面になっています。もしかしたら、先生は、クラスのみんなの前で話をすることによって、みんなの変化があやちゃんの変化に結びつくようにしたのかもしれない。先生は、あやちゃんが賢くて繊細だということも十分わかったうえで、敢えてそんな方法を選んだのではないか。
「アドバイスはアドバイスしたい人には届かない、ってよく言うんです」と言いながらこの話に乗ってきた方がいました。「主人公の“わたし”が、先生が去ってから何とかしてくれるんじゃないか」と話した方もいました。
結局、絶対こうだという結論は出ませんでした。ですが、新たな発見はあったように僕には思えました。
◆「たいせつなこと」と「正しいこと」
トークの最後に、参加2回目の男性が出した、「たいせつなことと、正しいことって、違うんですか」という問いを、みんなで考えることになりました。この問いは、「進路は北へ」という話の中で、みんなエスカレーター方式で内部進学する私立中学校をひとり出て行こうとする主人公の女の子が、村内先生に尋ねた問いでもあります。
2、3の発言が飛び交い、メモを取りつつ、僕はふと、この問いはフェイクじゃないかという気がしました。違いを明らかにすることが目的ではないのかもしれない。問いと、それに対する先生の答えを突き合わせてみる。そこから浮かび上がってくるのは、先生が伝えたいのは、「たいせつなこと」を大事にしなさいというメッセージではなかろうか。「正しいこと」に囚われがちな子どもたちに、いやむしろ、読み手である僕らに対し、「正しいこと」ではなく「たいせつなこと」を拠り所にして生きていきなさいと伝える。それがこの問いの、小説の一節として見たときの、本当の意味なんじゃないだろうか。
そんな風に考え方をずらしていると、一度棚に上げた「正しいこと」と「たいせつなこと」の違いも、急につかめるようになってきました。これは読解というより僕自身の漠然としたイメージですが、「正しいこと」は自分の外側にあるのに対し、「たいせつなこと」は自分の内側にあるような気がする。そう思うと、先のメッセージは、自分の内側にある「たいせつなこと」を見つけ、それを信じ温めながら生きていこうという意味に思えてきました。
これらのことを、僕がまだ整理しきれない言葉でダラダラと喋っていると、進行役の男性がこう引き継いでくださいました。「なるほど、正しいことっていうのは、“正しいとされていること”を指してるのかもしれませんね。自分で考えたことではなく、なんとなくそうだとされていることを」。
その言葉を聞いた時でした。急に僕の中で、ある疑問が溶解していったのです。
◆どうして大人になってから、学校に違和感を覚えたのか
前回の記事の中で、「学校ってなんだろう」という疑問を巡るやり取りを紹介したのですが、その中で僕はこんなことも書いていました。
学校ってなんだろうという問いの裏には、どうして今ごろになって学校に違和感を覚えるようになったのかという疑問が貼り付いている。
「たいせつなこと」と「正しいこと」を巡るやり取りの中で急に溶解した疑問、それはまさに、〈どうして今ごろになって学校に違和感を覚えるのか〉というものでした。
ああそうか、僕はどこかで、「正しいこと」ではなく「たいせつなこと」を大事にしていこうという気付きを得ていたんだ。
“正しいとされていること”を鵜呑みにして、何も考えず大きなものに寄っかかるんじゃなく、何が本当にたいせつかを、拙いなりに考えようと思えるようになっていたんだ。
だから僕も、『青い鳥』に出てくる子どもたちと同じような違和感を覚えるようになったんだ。
そう思った瞬間、僕は急に嬉しくなって、目が熱くなったのでした。
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僕がひとりで勝手にアツくなったところで、グループトークの時間は終わり、全体発表が始まりました。いつもならもう1グループの話の内容も書き出すところですが、聞いている限り、今回はどちらのグループも近いテーマで話していたようだったので、割愛しようと思います。
というわけで、午後の部のレポートをここで締めようと思います。今回あまり他の人の発言を拾うことができず、独り相撲のようなレポートになってしまいました。ただ、考えるきっかけになった1つ1つの問いは、大勢で話し合ったからこそ浮かび上がってきたものです。だからこれは、一人で黙々と書く読書ノートとはまた違うのだと、そう叫びたがっている僕は、ちょっと無理をしているのでしょうか。審判は皆さんに委ねたいと思います。
さて、以上で読書会本編の振り返りは終了となりますが、4月21日の出来事はまだ終わりません。次回、この後続いたフリータイムの模様を書いていこうと思います。ぜひ覗きに来てください。それでは。