ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年03月

 出張先にパソコンを持ってきておいて正解だった。出先にパソコンを持って行って役に立ったことは滅多にないが、今回は酔いの周りもほどほどで、夜の時間もまあまあある。使わない手はない。

◇     ◇     ◇

 昨日の日記で書いた通り、今日明日と出張で埼玉に来ている。昼の新幹線で大阪を発ち、夕方に埼玉北西部の某市に着いた。

 その出発前に、大阪で『翔んで埼玉』を観てきた。昨日のレイトショーは見逃したが、朝きちんと起きれば、新幹線に乗る前にちゃんと観る時間がある。ダラダラしたい欲を抑え、観に行くことにした。

 めちゃくちゃ面白かった。

 とにかく笑った。そして感動した。けれども、よく考えてみれば全てが茶番だった。そんな映画だった。簡単に言うなら、観たら必ず元気になる作品。毒にも薬にもならないが、時々観たくなるであろう作品だった。

 推しどころは幾つもあるが、特に終盤の盛り上がりは最高だった。埼玉と千葉の合戦、双方の有名出身地合戦、そしてその後の怒涛の展開。全てがアツい。こんなにアツい茶番があるかというくらいアツかった。

 本当はもうちょっと書きたいけれど、ネタバレになりそうなのでここでこらえることにしよう。

◇     ◇     ◇

 一方、新幹線の旅のお供は、賑やかな茶番とは打って変わって静かな本だった。

 『旅をする木』——アラスカに住み、大自然の雄大さやそこに息づく生命の躍動、或いは脆さを記録し続けた写真家・星野道夫さんのエッセイである。

 本を買ったのは随分前のことで、ずっと気になっていたのだが、どうも読む気が起きず積読状態が続いていた。それが昨日一昨日くらいに急に読みたくなった。週の初めから森見登美彦さんの小説『有頂天家族』の再読にかかっていたが、こちらは一旦保留した。今の僕には、面白きことよりも、胸に沁みることの方が必要だと思った。

 正直に言う。ここ数ヶ月に読んだ本の中で、ダントツに良い、グッとくる本である。

 まず、描写が凄い。アラスカの自然、旅の一コマ、写真展のために訪れた街の様子。全てが絵をイメージさせる力を持っている。その中に、僕が実際に訪れた場所は1つもない。だから、いずれも想像なのだけれど、とにかく絵が浮かぶ。それくらい鮮烈な描写なのだ。僕は久しぶりに、文章を通して映像が立ち上がる感覚に出会った。それがたまらなかった。

 そして、その描写の数々から、星野さんが出会ったものを受け止め、心に焼き付け、或いはそれらと心を通わせた様子が浮かび上がる。その様が、ぞくぞくするほど真摯で、優しい。それは同時に至言の宝庫であり、僕らに色んなことを問いかけてくる。

 あれこれ書きたいのをぐっとこらえて、星野さんが「人に教えたくない美しい秘密の場所」と語るアラスカ南東部の〈赤い岩壁の入り江〉について述べた一節を引用しよう。これだけでも十分魅力的だと思う。

 この入り江にはたくさんの思い出があるのです。そしてここに来るたびに、ぼくは悠久な時間を想います。人間の日々の営みをしばし忘れさせる、喜びや悲しみとは関わりのない、もうひとつの大いなる時の流れです。

 夕暮れ近く、赤茶けた岩壁を見上げながら、私たちは入り江に入ってゆきました。岩礁地帯を過ぎ、外海から遠ざかるにつれ、まるで本のページをめくるように別世界となりました。

 それはまず静けさです。包み込まれるような静けさです。ツガやトウヒの針葉樹が水辺まで押し寄せ、霧が深い原生林にからまりながら生き物のように流れています。

 バサッ、バサッ……と、ふいにハクトウワシが森の中から舞い上がり、頭上を飛び去ってゆきました。私たちがこの入り江に入ってゆくのを、ハクトウワシはずっと見ていたのです。

 引き潮で浮かび上がった小島に、三十頭ほどのゴマフアザラシの群れがいます。船が進む海面に目をこらしていると、黒い帯が切れ目なく両側を走ってゆきます。それは産卵にやってきたピンクサーモンの巨大な群れでした。(p.21)


 僕は今まで、「読み終えるのが惜しくなる本」というものに出会ったことがなかった。けれどもこの本は、その初めの1冊になるかもしれない。中途で投げ出すのもイヤなので読み切るに違いないのだけれど、終わって欲しくないと思うだけの何かがこの本にはある気がした。

◇     ◇     ◇

 明日は早い。そろそろ筆を置くとしよう。

 これを書いている間、レースカーテンのかかる窓の向こうでは、時折、15両編成の電車の行き交う音がしていた。

 これから出張へ出掛ける。行き先は埼玉である。

 というわけで、この前先輩から「ぜひとも『翔んで埼玉』を観てから行くように」と勧められた。全く考えになかったが、嬉しいアドバイスだった。

 そこで、整骨院の帰りに近所の映画館でレイトショーを見る計画を立てた。が、その映画館でのレイトショーは昨日で終わっていた。しばし呆然としたのち、私はとぼとぼと家路についた。

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 今月は何かとバタバタしていたように思う。余裕もなく、常に焦っていて、物事をよく考える暇もないうちに、あらゆる事が過去に流れていた。渦中にいる時はとっとと終わってくれと願ったものだが、今になって些か呆気に取られている。

 落ち着いて色んなことを振り返ったり、受け流していたことをきちんと受け止めたりする時間を設けた方がよかろう。そう思い、家に着いてから久しぶりにメモ帳を開き、決意表明を書き付けた。決意表明を書くだけでも随分落ち着くものらしく、そのまま瞼が閉じてきた。もとより疲れもあったのだろう。

◇     ◇     ◇

 なにはともあれ、我が事ながら旅の無事を祈る。

 えー、たいへん遅くなってしまいましたが、10日余り前に京都で開かれました彩ふ読書会、その最後のレポートをここにしたためたいと思います。

 まだ終わってなかったんですか⁉ ええ、まだ終わってなかったんです。

 先週の時点で、①午前の部=推し本披露会と、②午後の部=課題本読書会のレポートは書き切ることができました。しかし、読書会にはあともう1部ございます。③夕方の部=実験的経験会です。

 実験的経験会とは、その名の通り、読書会の時間を使って色んなことに挑戦してみようという会です。これまで、1月には「装丁グランプリ」という、本の表紙とお手製簡易POPだけを見て読みたくなる本NO.1を決定するという会が、2月にはマンガ限定の推し本披露会が、それぞれ開催されました。そして今回、3月の実験的経験会は、「哲学カフェ」でした。

 「哲学カフェ」とは、簡単に言えば、日々の生活の中で当たり前だと思って受け流している事柄を取り上げて、みんなでゆっくり考え言葉を出し合ってみようという集まりです。決して難しい哲学談義をしようという会ではなく、身近な物事について自分の言葉で考え、話し、聴き合う会です。

 その哲学カフェに、ある時京都サポーターの男性が急に注目し、そのままハマっていったのが、今回の哲学カフェ@読書会の発端でした。男性には夢ができました。「読書会で哲学カフェを開きたい」そして2ヶ月もの準備期間を経て、この夢を実現させたのでした。課題本読書会『宝塚ファンの社会学』のレビューの最後で、「夢が叶いました」というヅカ部長の名言を紹介しましたが、この日夢を叶えたのはヅカ部長だけではなかったのでございます。

 さて、今回の哲学カフェは、読書会の中で哲学カフェのノウハウや経験が蓄積されていなかったことから、「カフェフィロ」という哲学カフェ運営団体の方をお招きして開催することになりました。そのため、主催・カフェフィロ、共催・彩ふ読書会という形になりました。当日には、読書会のリピーターだけでなく、哲学カフェを楽しみに来た人もいらっしゃり、その割合は気付けば半々くらいになっていました。参加者は総勢20名。読書会だとこれだけ人数がいたらテーブルを分けますが、今回は全員で大きな輪を作り、お菓子と飲み物の置かれたツギハギのテーブルを囲みながら話をしました。

 今回のトークテーマは「すすめる」。読書会で毎回やっている〈おすすめの本を紹介する〉にちなんだテーマ設定でした。個人的に、「すすめる」という言葉にはほんわかと優しいイメージがあって、今回の会もほっこりするようなそれになると思っておりました。が、意外や意外、「すすめるとは何か」を巡り、ああでもない、こうでもないと激論が交わされるヘビーな展開が待ち受けていました。

 いったい何が起こったのか。これから見ていくことにしましょう。

◆哲学カフェの進め方

 哲学カフェは、16時過ぎに始まり、18時頃まで続きました。最初にカフェフィロメンバーの方(進行役)から哲学カフェについて10分ほど説明があり、それからトークが始まりました。そこで、本編に入る前に、この時話があった哲学カフェの説明を簡単に見ておこうと思います。

〈哲学カフェとは?〉
 ▶テーマを決めて、ともに考える集まりです。
 ▶誰が正しいかを決める会ではありません。
 ▶ひとつの結論を出すことを目指す会でもありません。
 ▶かといって、「人それぞれ」だけで終わらせる会でもありません。
 ▶大事なのは様々な意見に触れながら何かを考えようとすることです。


 また、哲学カフェを進めるにあたって心掛けておくとよいこととしては、次の4点があげられていました。

〈哲学カフェで大切にするとよいこと〉
 ▶ゆっくり考える。
 ▶話すことよりも、質問すること/聴くことを大事にする。
 ▶浮かんだ考えをとりあえず出してみる。
 ▶わからないことにこだわる。


 進行役の方の説明を振り返ると、哲学カフェで大事なのは話すことよりも聴くことであり、様々な意見をゆっくり咀嚼して考えることであるように思えます。ですが、実際の会は、ハイテンポで会話が進み、浮かんだ考えを口にしないと機を逸してしまうといった感じでした。まあ、20人が思い思い喋るわけですから、そうなるのも仕方ありますまい。

 何はともあれ、内容の振り返りに話を進めましょう。

◆「すすめる」には3つのパターンがある

 今回の哲学カフェの内容を振り返るうえで特に大切なのは、会の前半である男性が話された、〈「すすめる」には3つのパターンがある〉という話だったように思います。この男性は、それまでに出た意見を踏まえ、「すすめる」をその動機に着目して3つのパターンに整理されました。その3つとは、

 ▶①自分のアイデンティティを広めるための「すすめる」
 ▶②相手の不足をみたすための「すすめる」
 ▶③相手を支配する=相手に影響を与えるための「すすめる」

 です。少し説明を補いましょう。

 ▶①の「すすめる」は、要するに自分の好きなものについて相手に紹介するというものです。それはしばしば、自分のことをみてほしい/認めてほしいという思いと近しいものになります。参加されたある女性は、「なぜすすめるのかって考えると、承認欲求があるからっていうのがしっくりくる」と話されていました。

 ▶②の「すすめる」では、自分の好きなものの話をすることよりも、相手のニーズに応えることが優先されます。①の「すすめる」が自分本位であるのに対し、②の「すすめる」は相手本位であるということもできるでしょう。参加者の中には「自分の好きなものを人にすすめようとは思わない。すすめるものは相手に合わせて選ぶ」と言い切る方もいらっしゃいました。

 ▶③の「すすめる」は、基本的には①の「すすめる」に近いものと考えていいように思いますが、重要なのは、〈相手に影響を与える〉こと、すなわち「すすめる」ことの結果に強い力点を置いている点です。この「すすめる」を強調する人は、その成否にこだわります。どうやったら「すすめる」は成功したといえるのか。相手の知識が増えたらなのか、自分がすすめたものを手に取ったらなのか、などなどです。

 さて、会全体を大雑把に振り返ってみますと、20人の参加者の中に、①派の人、②派の人、③派の人がそれぞれいて、互いに自分の考えを述べるうちに話が平行線を辿ってしまったという気がいたします。

 会の前半では、「すすめるものは、自分が好きなものですか」という進行役の問いかけに触発される形で、①自分の好きなものを進める派と、②相手に合わせてものをすすめる派がそれぞれの立場を表明していました。もとより、本来この2つは完全に対立するものではなく、〈相手に合わせながら自分の好きなものをすすめる〉ということも十分可能です。ただ、上述の通り、今回の会場には、自分の好きなものは人に見せず自分の楽しみとして取っておくというポリシーの方がいらっしゃったので、この二派の違いが際立つ格好になりました。

 一方、会の後半では、①の好きなものの話をすることを大切にする派と、③のすすめた結果相手に影響を与えることを重視する派との間で議論が展開しました。より踏み込んだ言い方をすると、「相手に影響を与えようと思わないのであれば、それはただ“好きなものの話をしている”だけであって、“すすめる”ことにはならない」という論調が強くなり、③結果にこだわることこそが「すすめる」の要件であるという方向へ話が進んでいったのでした。

 結局、時間がきたところで哲学カフェは終わってしまったので、モヤモヤを胸に抱えたまま僕らは家路につくことになりました。もっとも、哲学カフェで考えたことを考え続けるためにはこれくらいモヤモヤしていた方がいいのかもしれません。

 そこで、ここからは、上述の内容をもとに、僕がその後考えたことをざっとお話しようと思います。

◆「すすめるとは何か」を考えるより、「好きなものについて語ること」の魅力を考えたい

 あくまで個人的な感想ですが、後半のトークの展開は、あまり共感できるものではなかったと感じています。その理由を考えてみるに、僕にとっては「すすめるとは何か」「すすめるに結果は必要か」なんてのはどうでもよくて、そんなことより「好きなものについて語ること」について、もっといろんな話が聞きたかったからだと思います。仮にそれが「すすめる」に当たらないとしても、「好きなものについて語ること」のアレコレを聞いている方が、僕はよほど面白かったのです。

 ある参加者がこんな話をされていました。「自分が好きなものをなぜすすめるのかをずっと考えてたんですけど、人がどう受け止めるかよりも、人の熱量を感じたいっていうのがあるのかなと思うんです。人が面白いと思っているものについて話しているのを聞きたい」僕にはこの話が一番しっくりきました。好きなものについて語るのは楽しいし、好きなものについての語りを聴くのも楽しい。僕にとって大切なのは、つまるところこれだったんだと思います。

 ところが、後半のトークの中では、この発言も、「好きなものについて話すのは、ただそれだけのことで、すすめるには当たらない」「好きなことについて話すのと、自分の承認欲求を満たすことのつながりがわからない」などのコメントに煽られて、どうも旗色が悪くなってしまっていました。なんて勿体ないことするんだと今になっても思います。

 そもそも、相手に影響を与えたり行動変容を促したりしないのであれば「すすめる」には当たらないという意見自体、よく検討してみる必要があると僕は思います。というのは、あらゆるコミュニケーションは、相手に何らかの影響を与えるものだからです。すすめた本を手に取った、映画を見に行った、ケーキを食べに行った、それだけが影響ではない。自分の話に相手が興味を持ったら、それはもう影響を与えたことになるんじゃないでしょうか。実のところ、話をすることと、相手に影響を与えることとの間に、いったいどれだけの差があるのでしょうか。僕らは、ごく限られた影響について殊更取り上げて話すあまり、このことを見失っていたような気がします。影響を重視していた方々にこの辺りの疑問をぶつけることができなかったのが、今になって悔やまれます。

 ともあれ、自分にとって大切なのが、「好きなものについて語ること」だとはっきり認識できたのは、今回の1つの成果でした。

◆相手に合わせてすすめるためには、まず相手を知る必要がある

 言いたいことを言い切ったうえで、改めて「すすめる」に話を戻しますと、印象に残ったのは、「相手に合わせてすすめる」ことだったように思います。上述の通り、僕はいつも、自分の好きなものについて好きなだけ喋るという、恐ろしく独りよがりなことをやっている。だからこそ逆に、相手はどんなものが好きかを知って、その人に合うものを「すすめる」ことを、幾らか意識したいと思いました。

 この話に関連して、会の間ずっと考えていたけれど言えなかったことを1つ書いておこうと思います。前半の最後のほうで、ある参加者が「いいオススメをするためには、相手との間に共通認識がないといけない」という話をされていました。この共通認識には広い意味があると思いますが、僕がその時思ったのは、そもそも相手のことを知らないと、その人に上手くすすめることはできないということでした。

 そこまで考えたところで、1冊の本が頭に思い浮かびました。それは、花田菜々子さんの『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』という、めちゃくちゃ長いタイトルの本です。元々ヴィレッジヴァンガードに勤めていた著者が、自分を変え世界を広めるべく、タイトル通りのことをやるというノンフィクションなのですが、この本で書かれているのはまさに、〈人に合うものをすすめる〉ということなのです。そして、人に合うものをすすめるために、花田さんは必ず、相手がどんな人で、普段どんなことに興味があるのか、本は読むのか読まないのか、読むとしたらどんな本を読むのかなどを尋ねています。

 このことを思い出しながら、僕は「あっ、これだ」と思っていました。自分自身の前の発言とのつながりが気になって言い出し損ねてしまったのですが。ともあれ、「すすめる」前に相手に尋ねることが、この時僕には新鮮に映っていました。そして、相手に合うものをすすめるならば、このようなプロセスを経て、或いは別の手を使って、相手を知ることが大切なのだという考えを、ずっと温め続けていました。

◆嫌いな人にものをすすめるということ

 最後に、会の中ではあまり発展しなかったし、僕自身何の考えもまとまっていないけれど、とても印象的だった話のことを振り返っておこうと思います。それは、嫌いな人にものをすすめることを巡る話です。

 この話をされたのは、小学校で図書の先生をされているという女性の方でした。会もあと数分で終わる頃、「いままで皆さんの話を聞いていて、自分の考えているすすめるとは違うなあと思って喋らないでいたんですけれど」と前置きされたうえで、この方は自分の経験を話してくださいました。

 「本が好きな子に本の話をするのは簡単なんです。でも、学校だと本が嫌いな子にも本をすすめなきゃいけない。そんなことする必要あるのかなって思うこともありますけど、仕事ですから。子どもたちの反応はいろいろで、絶対に本なんて読まないという子もいます。けれども、ずっと本を読まなかった子が、卒業する頃になって急に『先生、本読んだよ』と言ってくれることもあります。そういう時は、とても嬉しいですね」

 僕らはいつも、読書会で本をすすめているわけですが、読書会はそもそも本が好きな人の集まりですから、言ってしまえば好き同士で本をすすめ合っているわけです。逆に、僕の場合、読書会を離れて本を人にすすめることはまずない。そもそも本のことを話題に上げようとも思わない。会の途中で、「自分が好きなものを好きそうな人におすすめしています」と話された方がいましたが、僕のやっていることも、まさしくそれなのでありました。

 そのことを思うと、この女性は仕事の中で、とても大変なことをされていたんだなあと思いました。もっと話をお聞きできなかったのが悔しい限りです。嫌いな人/興味がない人に、ものをすすめるとはどういうことか、そもそも興味のないことを話題に上げるとはどういうことか。新たなテーマが生まれました。

◇     ◇     ◇

 といったところで、夕方の部・哲学カフェの振り返りは終わりにしたいと思います。かなり駆け足になってしまいましたし、会の振り返りよりも自分が考えたことの振り返りの方がメインになってしまいました。とはいえ、ご勘弁ください。2時間もハイテンポで喋っていると、ある程度色んな考えが浮かんでくるものですし、何よりもう10日以上も前のことゆえ、要点だけ絞ってまとめたかったのです。

 今後はもっと早くに全ての振り返りをまとめられるようにしたいと思います。詳しく書くことに気を取られ過ぎているのかな、など反省点もあるので、自分なりによく考えてみるつもりです。なんてなことは、皆さんは気にしなくて結構。これは私の課題である!

 それでは。

 だいぶ疲れが溜まっているらしい。書きかけの記事があって朝起きてから書こうと思ったのだが、起きるに起きられなかった。よって、この記事は次の夜上げようと思う。

 先の楽しみも増えたので、それまでに擦り減りきってしまわぬよう、自己管理に努めたい。

 こんなところで酔い潰れている場合ではない。一刻も早く、3/17の哲学カフェのことを振り返らなくては——

 これは紛れもない私の本心である。しかし、また別の本心はこう言っている。今すぐ寝たい。

◇     ◇     ◇

 どうしてこんなにも仕事ができないのだろうと悪い妄念に駆られながら、私は退社し、一度独房に立ち寄ったあと、実家のある隣町へ向かった。駅前の居酒屋で、家族のお祝いの会があったからだ。

 このお祝いの中には、私の誕生祝いも含まれている。しかし、それだけでなく、いま一家は怒涛のお祝いラッシュの最中であった。上の妹は大学を卒業し、下の妹は大学進学が決まった。さらに言えば、下の妹は3日後に誕生日を控えている。そして、1ヶ月前に祝い損ねた両親の結婚記念日のお祝いもせねばならなかった。これだけ祝い事があると、もはや何が何だかわからないが、とにかくめでたいのであった。

 色々言葉を交わしながら、改めて、個性的で我の強い5人が集まったものだと思う。この5人が集まっているというのは奇妙なことだと常々感じる。しかし、それでも、俺たちは家族なのだと感懐に耽るくらいには、今日の私はおセンチだった。

 そして、疲れた身体にお酒をたんまり入れた私は、独房へ戻るほんの数駅の車中でうつらうつらして、あわや乗り過ごすのではないかと、酒で温まった肝を冷やしたのであった。

◇     ◇     ◇

 結局私は寝る気であるが、折角なのでもう1つだけ本心を書いておこうと思う。

 これくらい短くまとまった日記を酔わずに書く方法を、思い出せないものだろうか。

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