ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年02月

 前回に引き続き、2月17日に京都で開かれた彩ふ読書会の様子を振り返ろうと思います。前回は午前の部・推し本読書会の模様を、テーブルトーク中のエピソードも交えながら紹介いたしました。今回は午後の部・課題本読書会編をお届けしましょう。

 今回の課題本はこちら。
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 高野和明さんの小説『幽霊人命救助隊』です。

 昨年12月29日、彩ふ読書会忘年会の席上で、2月から4月までの課題本を決めるための投票が行われました。その投票の際、堂々の1位に輝いたのが、この『幽霊人命救助隊』でした。当時この本を全く知らなかった僕も、票を投じた覚えがあります。タイトルを聞いただけで、なんだか面白そうと直感したのかもしれません。

 簡単に言えば、自ら命を絶った4人の幽霊——大学受験に失敗した裕一、北海道のヤクザだった八木、小さな会社の経営者だった市川、生きなくていいと思い飛び降り自殺した美晴——が、天国へ行くために、49日で100人の自殺志願者の命を救うという神からの課題に挑む物語です。こう書くとどこかエンタメチックに響きますが、作中では、100人がそれぞれ自殺を考えるに至る経緯がつぶさに描かれており、ブラック上司、心中未遂、いじめ、借金地獄など、思わず「うっ…」となるシーンも少なくありません。その全てが、今なお残る自殺という問題、更には、命を大切にすること、生きるということについて問いを投げ掛けてくるような作品でした。もっとも、個性的な4人の幽霊の活躍に魅入ったり、自殺志願者が再び生きることを選んでいく姿に、最後には勇気づけられたりする、そんな作品でもありました。

◇     ◇     ◇

 さて、課題本読書会は13時40分に始まり、1時間半ほど続きました。参加者は全部で11名で、2テーブルに分かれて、本の感想や考察について話し合いました。会の最後には、それぞれのテーブルで出た意見を共有するため、各テーブルの代表者が、話の内容について紹介し合いました。

 僕はBテーブルでトークに参加しました。メンバーは5名。僕のほか、進行役を務める京都サポーターの男性、大阪の読書会や謎解き部の活動でご一緒したことのある男性、謎解き部でご一緒し後でブログの感想を寄せてくださった女性、そして、高野和明さんの大ファンで『幽霊人命救助隊』を最初に推した女性が、このテーブルにおりました。

 それでは、トークの内容に入って行きましょう。

◆印象に残った場面たち

 テーブルトークは、それぞれの大まかな感想や印象に残った場面を共有するところから始まりました。

 真っ先に出た感想は、満場一致で、「分厚さの割に読みやすく、面白かった」というものでした。実はこの本、文庫で600ページという大作なのです。僕は、本屋へこの本を買いに行って見つけた瞬間、「分厚っ! 読めるかっ!」と、読みもしないうちから諦めてしまいました。ところが、いざ読み出すと止まらないんです。するすると読めてしまう。先へ先へとページをめくってしまう。これはそんな本でした。そして、他の方も、僕と同じように、本の厚さに恐れおののきつつ、本を開いてからはあっという間に読んでしまうという経験をしたようでした。

 この感想が出たあとは、それぞれの印象に残った場面の話になりました。順番に見ていくことにしましょう。

 進行役の男性は「医療関係の仕事をされているので、医療系のシーンが印象に残る」と話されていました。特に印象深かったのは、作中で最初にうつ病とは何かが解説されるシーンだそうです。このシーンでは、自殺しようとしていた人の奥さんと精神科医が話し合っており、さらに、そこへやって来た、自殺を考える原因であるブラック上司を追い払っています。進行役の男性は、現実を受け容れ、さらに、ブラック上司に立ち向かう奥さんの強さ、そして、奥さんを後ろから支える精神科医の姿に身震いしたそうです。「主人公の救助隊だけじゃなく、精神科医もヒーローなんだというのがいい」と、おっしゃっていました。

 続いて僕が話しました。上のシーンを引き継ぐ形で、「この上司もそうですけど、イヤなヤツが登場して、ひどいことをやっている、その描写がここまでハッキリしているのは凄い」ということを話しました。他に例として挙げたのは、小学校でのいじめのシーン。いじめの親玉が繰り出す仕打ち——仲間に入ろうとしたところで顔にボールを投げつける、自分たちのことを教師に言いつけた女子をいじめの標的にするため、既にいじめている子に手を握らせる、など——が悉く酷くて、読んでいる最中に胸がつかえてしまいそうになった箇所です。印象に残った感動シーンも幾つかあったのですが、他の小説ではあまり見たことのないイヤな描写の克明さがショックだったので、こういう話をしました。

 僕の話を引き継ぐようにして、謎解き部でご一緒していた女性が話し始めました。上述の子どもの話が印象に残ったこと、そして、51人目のおばあちゃんの話がとても印象的だったことを話してくださいました。51人目のおばあちゃんというのは、末期癌にかかっていて、もう十分生きたと思い苦しみながら点滴の針を抜こうとしていた人です。4人の救助隊が寿命までこの人を生きさせるんだと決意し救助に成功した直後、おばあさんは亡くなります。そして守護霊となって、子や孫たちを見守るようになるのです。劇的な展開もさることながら、〈どんな人であれ、寿命を全うするまで生きさせる〉という救助隊の姿勢が明確になるシーンで、印象深いとのことでした。

 4番目に話されたのはもう1人の男性の方でした。この方は、麻美の話が一番印象に残ったといいます。麻美はかなり情緒不安定な女性で、人をすぐに激しく好きになるが、嫌われるのを恐れる余り、掌を返すように一瞬でその人を嫌いになり、口汚く罵ってしまうという人物です。そして、男に捨てられるショックと、男に捨てられるよう仕向けてしまった自分への嫌悪感から、リストカットを繰り返しています。男性は、麻美の話を読みながら、「キツイ」「イライラする」と思ったこと、けれどもその話がとても印象的だったことを話してくださいました。男性の話の後、それを引き継ぐように、「麻美のような女性もいるし、意外と少なくない」、或いは「麻美ほどではないけれど、自分というものが分からなくてぶれてしまう気持ちはわかる気がする」といった意見が出ました。

 最後に、『幽霊人命救助隊』をイチオシする女性が話をしてくださいました。この方は、まず「御都合主義的なキレイな話は好きになれないけれど、この話はとても好き」と話したうえで、キャラの立つ4人の幽霊たちがとても好きだということ、中でも、〈ヒステリックで気怠そうだけれど実はとても優しい美晴〉が一番好きだということを話してくださいました。また、救助される人の話では、救助第一号となった小杉さんの話が好きだと言っていました。小杉さんは、孤独感に苛まれて自殺しようとしていたのですが、自殺に失敗した翌日、レジ打ちのおばさんに声を掛けられたことを機に生きるエネルギーを取り戻します。シンプルなことでも人は救われると教えてくれる話、だから好きと、この女性はおっしゃっていました。

 ここまで、テーブルメンバー5人の印象に残ったシーンを振り返ってきました。ぽつぽつと語り合っているような印象がありましたが、改めてみてみると、前に出た発言を引き継ぐようにトークが展開していることも多いということがわかって面白いですね。

 実は、次のトピックへの展開も、最後の女性の感想を引き継ぐようにして起こりました。

◆家族、近しい関係、そして、言葉をかけるということ

 上述の感想を引き継ぐように、4人の救助隊員の魅力について話し合っていた時でした。

「でも、私、裕一については『あァン?』と思うところがあって」

 と何やら不穏な言葉づかいで話し始めたのは、謎解き部でご一緒していた女性の方でした。実はこの方には、救助隊の一人で物語の主人公でもある裕一と同じ歳の男のお子さんがいらっしゃったのです。

「19歳って、大人だけど子どもっていう年ごろで、一人前になったような口をきいてるけれど、食事や家事で親の世話になっていることを全然わかってないなって思うんです。裕一がまさにそんな感じで」

 僕を含め、他の参加者は親になるという経験がありません。今の自分が持ちえない経験から紡がれる率直な言葉に、圧倒されながら耳を傾けておりました。

 そこで言葉を継いだのは、進行役の男性でした。

「親子の関係って難しいですよね。大人は子どもの横に立ってサポートしているつもりだけど、子どもの方は、親の期待や重圧が上からのしかかってくると感じてる」

 なんでそんなことが分かるのか、と言いたくなるほど鮮やかな、親と子それぞれのものの見え方の解説でした。それにしても、よくわかるという感じがします。特に子どもの側が、親の思いや考えを、上から覆いかぶさってくるものとして捉えてしまいがちだということが。

 その時、僕はふと思いました。親も子も、それぞれ、自分は相手のことをどう思っているのか、相手のことがどう見えているのかを、きちんと話していないのではないかと。それは、裕一、更には、裕一より6つも上の僕のように、十分言葉で話し合える歳になっても同じことです。だから、両者の食い違いが、深まりこそすれ、縮まることがない。

「なんていうか、言葉が足りないっていう感じがしますね」

 僕は思う。家族であれ、友人であれ、(僕にはわからないことだけれど)恋人であれ、相手と親密な関係を築いていて、距離が近しいからと言って、互いのことがよくわかるわけではない。関係が近しければ近しいほど、意外と大事な話をせずに、くだらない話に興じてしまうのが僕らなのだ。そうでありながら、近しい間柄なんだからお互いのことなんて黙っててもわかって当然でしょと思ってしまうのが、僕らなのだ。

「だから、距離が近いからわかり合えるっていう、なんていうか、その、思い込みを取り払って、言葉で伝えることってとても大切じゃないかなって思うんです」

 いつの間にか、話は、どうすれば僕らは自殺しないか、互いに身をすり減らさずに生きていけるかというテーマに着地していました。距離感と言葉の問題については、皆さん納得してくださったようで、一様に「うーん」と頷いておられました。

 テーブルトークの中ではこの後も、親の気持ちを語ってくださる女性の方にリードされて、家族や親子関係に関する話が度々出てきました。例えば、この方はトークの終盤で、「若い頃は自分の存在感が揺らぐような経験もしたものだけれど、子どもが生まれてから、虚しさは全て忘れた」「母親になると思った途端に、迷いはなくなった」と話してくださいました。僕はこの方の覚悟に圧倒されると共に、親になることの意味や、親の強さ、優しさについて思いを巡らせたものでした。

 また、「お腹から生まれた子どもは分身のような存在」という言葉も、この方の言葉の中でとても印象に残るものでした。親が自分の夢や憧れを子どもに実現させようとして、それがきっかけで親子の軋轢が生じるという話を聞くことがありますが、親がそうしたくなる理由が初めてわかった気がしたのです。何しろ、子どもは全くの他人ではなく、自分の分身なのですから。とはいえ、もちろん、話をされた女性は「度が過ぎると問題ですけどね」とおっしゃっていました。

 余談ながら、この分身問題をきっかけに、いかにも読書会らしい話が飛び交ったことをご紹介しておきましょう。それは、自分が読む本には、親の本の好みが影響しているという話です。例えば僕は、本を読み始めたばかりの頃、井上靖の小説をはじめ、歯切れのいい短文であっさりと書き進められる男性的な文章を、母に勧められるままに読んでいました。他にも、同じような経験をした方がいらっしゃったようです。「そうやって話の合う子に育つと、親が嬉しいんですよね」などと言いながら、僕らはフフフと笑っておりました。

◇     ◇     ◇

 課題本読書会の記録はまだまだ続くのですが……ちょっと長いな、こりゃ。というか、まあまあ長いな、こりゃ。

 今まで、読書会の振り返りは、午前の部、午後の部、それぞれ1本の記事でまとめるようにしていました。が、今回同じようにやると、午後の部の記事がたいへんなことになってしまいそうです。

 決めました。今回、2/17の午後の部の振り返りは、2回に分けさせていただきます。

 いやね、ホントは分けるの怖いんですよ。そんな長ったらしい文章付き合ってられんわって、離れて行ってしまう人がきっといらっしゃいますからね。でも、これ以上1つの記事を長くするのも、それはそれでどうかと思うし、何より、「また書き切れなかった」っていう思いを積み重ねたくない……あ、つい本音が。

 というわけで、すみませんが、もう1回午後の部の振り返りを続けます! 皆さま、何とぞお付き合いくださいませ。

 ……これもう日記じゃねえよ。ああ、またいらん本音が……

 お待たせしました。週末の記録を始めましょう。

 2月17日・日曜日、京都・北山にあるSAKURA CAFEというところで、3回目の彩ふ読書会@京都が開催されました。これから暫く、この読書会の模様を振り返ることにいたしましょう。

 京都の読書会は先月から、「午前の部」「午後の部」「夕方の部」の3部構成になりました。①午前の部は、各自好きな本を披露する推し本読書会、②午後の部は、事前に読んできた課題本について語り合う課題本読書会、そして、③夕方の部は、実験的経験会と呼ばれる、毎回テーマの変わるイベントタイムです。2月の夕方の部は、推し本読書会の派生企画・推しマンガ読書会でした。

 僕は今回初めて3部連続で参加し、全ての部で、代表ののーさんと一緒に総合司会を担当させていただきました。事前に用意された原稿に沿って進めればよいようになっていたので、緊張することなく、むしろ楽しく司会させていただきました。一方、各テーブルの進行役は他のサポーターさんが務めてくださったので、トークの間はむしろ気楽にしていました。

 というわけで、これから読書会の模様を、各部ごとに1記事ずつ使いながら振り返っていきたいと思います。まず今回は、午前の部を振り返ることにしましょう。なお、いずれの部の振り返りも、僕が参加したテーブルの話に絞ってお送りしたいと思います。

◇     ◇     ◇

 午前の部は10時40分に始まりました。参加者は19名で、3つのテーブルに分かれておすすめの本を紹介し合います。1時間ほど経ったところで、全体発表に移り、1人1人、本の内容やおすすめのポイントを簡単に紹介。そうして12時を少し過ぎる頃に会が終わり、フリートークの時間になりました。余談ですが、この日は京都マラソンが行われており、SAKURA CAFEの前の道がちょうどコースになっていたので、次々やって来るランナーを見ながらの読書会となりました。

 さて、これまで午前の部の振り返りは本の紹介に限定していたのですが、今回僕のいたテーブルではちょっとしたハプニングが幾つか起こったので、その話も交えつつ記録をつけていきましょう。最初のハプニングは、読書会が始まって間もなく起こりました……

◆のっけからハプニング

 僕のいたテーブルは、男性3名、女性3名の計6名。僕の他に、京都サポーターの男性、大阪サポーターの女性、謎解き部でご一緒したことのある男性がおり、あとの女性2人は初めてお会いする方でした。この初対面の女性のお一人が、最初のハプニングの立役者となるのです。

 司会の挨拶が終わり、各テーブルで自己紹介が始まろうという時でした。その女性が突然席を立ち、「先に始めててください」と言い残してトイレに入ってしまわれたのです。仕方のないこととはいえ、これまで起きたことのない事態に、一同はポカン。とにかく、やはり1人置き去りにして勝手に始めるわけにはいかないので、暫く待っておりました。が、その間にも、あちらのテーブル、こちらのテーブルから聞こえてくる、声、声、笑い声。

 「やっぱり、そろそろ始めましょうか」という話になり、一同少し姿勢を正しました。

 しかし、ここで続けて第2のハプニングが起きます。始めようと言ったのに、なぜか沈黙が続いたのです。たまらず僕らはキョロキョロと顔を見合わせます。そして、大阪サポーターの女性が、進行役の男性の方をちらと見ました。

「✖✖さん、まず自己紹介の振りを……」

 その時でした。

「あ、今日進行役僕か!」

 テーブル内の緊張が一瞬にして笑いに変わりました。今回の進行役は僕を京都サポーターに誘ってくださった大先輩なのですが、サポーターが3人も集結したために、進行役はあと2人のどちらかだろうと油断してしまったようでした。

 こうして、いつもと違う謎の空気に包まれながら、自己紹介が始まりました。途中で、抜けていた女性も席に戻られ、自己紹介の輪に加わります。そして、本の紹介が始まったのでした。

 と、いうわけで、紹介された本の話に移りましょう。

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◆梶谷真司『考えるとはどういうことか』

 進行役の大先輩の推し本です。大先輩、最近「哲学カフェ」というものにハマっており、既に各地のカフェを遍歴されているのですが、この本も、哲学カフェならぬ「哲学対話」に関する本とのことでした。もっとも、「哲学カフェ」も「哲学対話」も同じようなもので、要は、何人かでテーブルを囲み、身近だけれど普段あまり話さないこと、例えば、〈友だちとは〉〈お金と幸せ〉などのテーマについて、互いに話し合うイベントのようです。

 著者は東大の教授にして、哲学対話の実践者。本の中では、まず哲学対話の意義が、効率が重視される世の中で、じっくり考える機会を持つことと説明され、続いて哲学対話の具体的なルールや参加方法などが解説されるそうです。

 そんな話が続いていると、ある方から、「哲学の話って、横文字ばかりで難しい」という意見が出ました。が、哲学対話が目指しているのは、専門用語を使って難しい話をすることではなく、それぞれの経験や考えに即して、わかりやすく話すこと、そして、色んな人が色んな考えをもって生きていると知ることだと言います。実際の対話では喋らずにじっと話を聞くだけでもいいそうです。門の前で身構えず、対話の場に身を置くのが肝要なのでしょう。

 余談ですが、最近まで学生だった僕からすると、いまや研究者の間でも、知を専門家たちの間に閉じ込めておくのは問題で、より分かりやすく効果的な方法で、広く知を共有し、ものの見方や考え方を養おうという認識は広く共有されているように思います。それぞれがシンプルに自分の言葉で考えを語るり、ものの見方を自由に共有する場が、これからもっと増えるといいですね。

◆村上春樹『遠い太鼓』

 「好きな作家は村上春樹と小野不由美」だという女性からの推し本は、村上春樹の旅行エッセイ。村上春樹は40歳になるまでの3年間、奥さんと共に世界各地を回っていたそうで、このエッセイは、遍歴の途中、ギリシャとイタリアにいた頃の話をまとめたものとのことです。

 紹介された方曰く、エッセイには2つの国の風物が仔細に描かれており、読んでいるだけで自分がそこに住んでいる気持ちになったり、行ってみたい・旅したいという気持ちになったりするそうです。また、この旅の後に描かれた『ねじまき鳥クロニクル』の中に、ギリシャのクレタ島の占い師が登場することから、旅の経験が村上作品に反映されるのが分かって楽しいのだそうです。ちなみに、村上春樹はこの旅の途中に『ノルウェイの森』を書いたのだとか。あれ、ノルウェイで書いたわけじゃなかったんですね。

 トークの中では村上春樹自身のことや村上作品の面白さなどが話題に上っていました。普通の人とは違う目線や考え方を持っていて凄いという話、現実と夢の境目が分からなくなる話の展開がとにかく面白いという話、他にも色んな話が出ておりました。でも、好きな作家の話となると、語り足りなかったかもしれません……

◆松本清張『砂の器』

 僕の推し本です。1月に謎解き部に参加した際、「ミステリー読むときはトリックよりも動機に目がいく」という方が何人がいらっしゃったことから、動機もトリックも凄いミステリーを紹介しようと思い、実家から引っ張り出してきました。

 国鉄蒲田の操車場で、顔を潰された扼殺死体が発見される。手掛かりは、被害者の東北訛りと、犯人らしき男との会話で出た“カメダ”という言葉のみ。警察の捜査が難航する中、第2・第3の事件が起こる。果たして、犯人の正体は。そして、被害者の顔を潰さなければならなかった動機とは何か——ネタバレせずに書けるのはこれが限度でしょうか。

 とにかくネタバレせずに魅力を伝えるのが大変だったというのが今回の感想です。話したのは、①松本清張は社会派推理小説の草分け的存在で、動機を通じて社会に問題提起をしていたということ、②数度映像化されているが、原作の動機がデリケートな問題に触れていたため、近年の作品では動機が変更されていること、③トリックを完全に再現した映像化作品はないということ、などでした。③の話をしたところで興味をもってくれた方がいて、嬉しくなりました。

 最後に、隣に座っていた女性から、「『砂の器』っていうタイトルにも意味があるんですか」と尋ねられました。実はこれ、僕にとっても長年の謎でした。作中に砂の器なんて出てきた記憶がないからです。が、最近になって親戚からその意味を聞く機会があり、思わずハッとしたので、そのまま紹介しました。曰く、「砂で器は作れない」——この言葉の意味は、ぜひ実際に読んで確かめてみてください。

◆フランクリン・コヴィー・ジャパン監修『まんがでわかる7つの習慣』

 謎解き部でご一緒していた男性からの推し本です。コヴィーのベストセラー『7つの習慣』をまんがでわかりやすく解説した本。名著なるものは往々にして難解ですが、まんがだと分かりやすく読めるというのが、紹介の最初の一言でした。

 原著『7つの習慣』は、真の成功を得るための人格形成に必要な習慣について説いた本なのですが、まんが版ではその習慣がストーリー仕立てで紹介されます。舞台はバー。ストイックな性格のマスターが『7つの習慣』に興味を持っており、お客さんたちの悩みや相談を聞きながらその内容に触れていくようです。設定に無理がないうえ、色んなお客さんが登場するので自分を重ね合わせて考えることができていいと、紹介された方はおっしゃっていました。

 さらに紹介者の方は、本の中で印象に残っている言葉や、本から学んだことなども教えてくださいました。印象に残った言葉は、「対応に迷うことがあったとしたら、お客さんを笑顔にする方法を選べばいいだけの話だよ」、そして、本から学んだ考え方は、win-winの関係とのことです。この2つ、どちらも、自分も他人も幸せになる方法に関わるものだと僕は感じました。そう気付くと、紹介された方が素敵だなあと思えてきますね。

◆リチャード・マグワイア『HERE』

 フリーダムな行動を取られた女性からの推し本です。2016年に出版されたアメリカのコミックですが、現在はアマゾンの中古でも7,000円以上する入手困難本。だから持ってきたのだと、得意気に話されていました。

 コミックと言っても、いわゆるストーリー仕立てのマンガではありません。この本は、作者自身の部屋のある場所を定点カメラで写すようにして、紀元前30億年から紀元後2万年までの間に、その場所で何が起こったのかをずっと描いていく作品なのだそうです。興味深いのは、1枚の絵の中で、一画だけが四角く切り取られ、そこに別の時代の絵が挿入されていること。例えば、絵全体は1990年代の作者の部屋を映しているのに、その一画だけ枠で囲われ、原始時代の男女のやり取りが描かれているというように。

 正直言って、何が描かれているのか、何を訴えかけようとしているのかといったことは全くわからなかったのですが、とにかく表現方法が斬新という印象を受けました。

◆チョン・セラン『アンダーサンダーテンダー』

 大阪サポーターの女性からの推し本は、韓国の小説。映像美術の仕事に携わる主人公を中心に、その友人や家族の物語が、彼/彼女らが30代である現在と、10代の高校生であった過去の2つの時点を行き来しながら明かされていく作品とのことです。

 紹介された方がこの作品にハマったのは、1つは、作者が紹介者と同い年で、そのため、作中で登場する小物や映画などが悉く懐かしいからだそうです。そしてまた、登場人物たちの心情に、自分の気持ちがどこか重なるからなのだそうです。紹介カードの中には、「10代を過ごすというだけでも大変なのに、世紀末に10代を過ごすというのはいっそうきつい経験だった」という一文が引用されています。僕にはどう足掻いてもわからないことなのですが、紹介された方にとっては、怖いくらいにピタッと当てはまる何かを含む一文なのかもしれません。

 作品が登場人物たちの成長物語としての側面を持っているのも魅力的だと、紹介された方は言います。彼/彼女らはそれぞれに何かしら問題を抱えており、そのうち数人は人間関係のもつれから死んでしまいます。ですが、残された人たちは、決して仲良しではないけれど、仲間の死を機につながり続け、それぞれに前をみて生きている。その姿に力を貰える小説なのでしょう。

 ところで、韓国の小説の難点は、登場人物の名前がやたらと似ていたり、名前から性別が判断しづらいことにあるそうです。そこで、紹介された方が登場人物の相関図を持ってきてくださいました。先に挙げた写真をよく見ると、ドクロの絵が描かれた赤い本の横に、白い大きな紙がありますよね。これがその相関図です。ネタバレ覚悟で準備された大仕掛けに、皆さん見入っておりました。

◇     ◇     ◇

 以上、テーブルで紹介された本について振り返ってきました。改めて書き出してみると、今回は、僕が普段決して触れないタイプの本ばかり紹介されたような気がします。僕は海外小説を滅多に読まないし、仮に読んだとしても欧米系の作品ばかりなのです。また、海外を舞台にした作品も滅多に読みません。アメコミは縁がないし、まんがでわかるシリーズは手に取ったことがない。新書ももう随分長い間ご無沙汰しています。

 全てに手を伸ばすことはできないし、自分の好きは自分の好きで大切にしていきたいけれど、やっぱり、本のジャンルは多い方がいいのかなあという気がしてきました。とりあえず、近々久しぶりに新書に手を出してみようと思います。ちょうど読んでみたいテーマも見つかっているので。

 といったところで、推し本読書会の振り返りは終わるんです。普段なら——

 皆さんもうお気付きでしょう。ここまで紹介した本は6冊、しかし、最初の写真には7冊の本が写っているんです。では残された1冊は何なのか。ここでいよいよ、午前の部最後の、そして最大のハプニングが登場します。

◆最後のハプニング

 各テーブルで本の紹介が終わり、全体発表に移ろうという時でした。司会担当の僕は席を立ち、原稿をもって会場の中央へ向かっておりました。他の方は、本に添えるメッセージカードを書き終え、発表に備えておりました。その時でした。

「私、こっちの本が紹介したい」

 そう言ったのは、あのフリーダムな女性の方でした。先述の通り、この方はテーブルでは『HERE』という本を紹介してくださったのですが、別にもう1冊本を用意されていました。その紹介していない方の本を、全体発表で取り上げたいというのです。

 未だかつてない衝撃の申し出に、一同はカチコチに固まってしまいました。

 暫くして、最初に口を開いたのは、進行役の大先輩でした。

「まあ、いいんじゃないでしょうか」

 続けて、大阪サポーターの女性が、

「そうですね。私たちも2冊聞けておトクですし」

 こうして、テーブルで紹介されなかった本が全体発表されるという、史上初の出来事が実現しました。この本こそ、残る7冊目の正体です。最後に、この本について、簡単にご紹介しましょう。

◆ハン・ガン『すべての白いものたちの』

 韓国の作家による純文学作品です。少ない文章で濃密な世界が表現されているのが印象深い作品とのことでした。

 この本のもう1つ面白いポイントは装丁です。1冊の本が、5種類の違う白さの紙を束ねて編まれているうえ、ページがきちんと裁断されておらず、切り口がギザギザのまま残っているのだそうです。紙からして、「すべての白いものたち」を表現しようということなのでしょうか。何はともあれ、文章ではなく本そのものが作品になり、僕らに何かを訴えかけてくるということを、とても斬新に感じる1冊でした。

◇     ◇     ◇

 といったところで、今度こそ、ハプニング続きの午前の部のレポートをおしまいにしたいと思います。次回は午後の部のレポートをお届けします。どうぞお楽しみに。

 どうもみなさま、ひじきでございます。一度挨拶文で書き出すと、そうしないとなんだか落ち着かないような、気が乗らないような、不思議な気分になりますね。というわけで、今回もこんな書き出しです。

 さて、100回目記念のブログで思いの丈をぶつけてから2日間更新が途絶えてしまいました。不穏な途絶に、このままブログ終焉かと思われた方もいらっしゃるかもしれません。ご安心ください。この週末忙しすぎて更新の時間が取れなかっただけでございます。間の悪いことをしてしまいすみませんでした。気を取り直して、そろそろ本題に入りましょう。

 ——という書き出しを思い付いたところで「アホくさ」と思ってしまった。

 いったいどんだけ人から注目されたいんだ、お前は。

◇     ◇     ◇

 こんなことを書いている場合じゃないのだけれど、実際多忙だった週末の疲れがどっと出ていて、とてもじゃないが長い話をしたためる力が残っていない。ここはひとまず睡眠を優先し、たっぷり力を蓄えてから、週末のレポートに取り掛かることにしよう。皆さま、しばしお待ちください。

 どうもみなさま、こんにちは。ひじきでございます。

 珍しく、名乗りながら挨拶するという書き出しにしてみました。これにはちょっとした理由があるんです。

 実はこの記事、当ブログの記念すべき100本目の記事なんです。

 気付いた時、めちゃくちゃ嬉しい気持ちになりました。何かを記念するということにさほど関心のない人間なんですが、このブログ100回目記念に関しては特別な思いがありました。それだけ、書くということ、あるいは書き続けるということに、こだわりがあるのかなと、改めて感じます。

 ともあれ、そんな節目の記事なので、ちょっと改まった感じで書いてみることにしました。慣れない書き出しにしたのはそのためです。

 さて、今からちょっと落ち着いて、このブログのことを、さらには、このブログを書いている私自身のことを、振り返ってみようと思います。と言っても、書いた記事をつぶさに振り返るわけではありません。「日記風ブログを書く」ことそのものにまつわる”厄介な事情”に向き合ったうえで、その事情に対し自分がどのような思いを抱いているかということを率直にお話しようと思います。こうした裏舞台を見せるような話は、今まで極力避けていたのですが、今回、この節目を迎えるにあたって、一度表に引っ張り出してみることにいたします。

◇     ◇     ◇

 当ブログ最初の記事の中に、こんな一節が登場します。

 日記風ブログ。賢明なるみなさまはこの言葉のおかしさにとうにお気づきでしょう。
 日記は自分のために書くものである。
 ブログは人に読まれることを前提に書くものである。
 では、日記風ブログとはいったい何を目指して書かれるものなのか。


 ここには、私がいま言わんとしている「日記風ブログ」の”厄介な事情”が既に顔を出しています。ただ、少し言葉を補う必要があるようです。日記とは、日々の出来事や印象深い思い出などを個人的に振り返るためのものです。そして、通常は人目に触れないものです。これに対し、ブログは人に読まれることを前提に書くものです。したがって、「日記風ブログを書く」ということは、本来人目に触れるはずのないものを人に見せるということを意味します。

 もっとも、この言い方はあまり正確とはいえません。そもそもブログという媒体を選んだ時点で、私は文章を人に見せたいと思っていたわけですから。つまり、事実に即して言えば、まず、人に読まれる文章を書くことが前提にあって、そのうえで、前提に沿うように日々の出来事の中から題材を拾ってきている、ということになります。

 ブログを書く時、私は2つのことを心掛けていました。1つは、不快に思う話は書かないようにすること。もう1つは、できるだけ、面白く楽しい話を書くことでした。折角読んでもらうのだから、面白く楽しい話の方がいいに決まってる。はんたいに、腹立たしいことを切々と書く話、暗くクヨクヨした話、重く陰鬱な話は、読んでもいい気分がしないだろうから、表に出さないでおこう。そんな方針のもとに、私は文章を書いていました。

 さて、ここからが問題です。この方針に沿って書いているブログが、一方で個人の日記という性格を帯びている時、何が起こるか。答えは簡単です。この方針に沿うようにしか、自分自身を振り返れなくなるのです。面白い・楽しいと感じている自分ばかりを追いかける。挙句の果てに、面白さの追求が独り歩きを始め、ウケ狙いを前提に日常が編集されていく。ここまでいくと、生活中の意識そのものが、自分自身から遊離してしまいます。おまけにそのまま鋭利に尖ってしまうものだから始末に負えません。

 一方で、普段の生活の中で感じている怒り、苛立ち、悩み、苦しみ、悲しみなどに、いつの間にか蓋をしてしまうようになりました。それらを感じることはあっても、きちんと言葉にして吐き出す機会を設けてやることが、私にはできなくなっていました。

 さらに——正直に打ち明けますが、私が面白いこと、楽しいことを遮二無二追求してしまうのは、クソ真面目な人間だと思われたくないからなんです。面白くないヤツ、つまらないヤツ、そんなレッテルを貼られるのがイヤで、そして、結果的に人から疎まれたり敬遠されたりしてひとりになるのが怖くて、何とかウケを取ろうと躍起になっているからなんです。ですから、私のウケの抽斗なんてたかが知れていて、話のネタはすぐに枯渇してしまいます。それでもどうにかして面白く、楽しい文章を書こうとしていた時期もありました。その頃は、ブログのタイトルに反して、相当の無理が祟っていました。

 最近になって、よく考えるようになりました。もっと自分のことを見つめてやる時間があってもいいんじゃないか。そう考えるうち、だんだん、今の自分が素直じゃないような、人目を気にして用心深く振舞ったりカッコつけたりしているような、落ち着かない気持ちになってきました。これでいいワケない。

◇     ◇     ◇

 この記事を機に、もう少し素直に書くことを心がけようと考えています。テイストに限定を加えたり、不必要に凝った書き方をしたりせず、一番書きやすい方法で、喜怒哀楽様々な相を写し取りながら、色んな文章を綴っていこうと考えています。

 もちろんそれは、面白おかしい記事を撤廃するということではありません。たとえ強がりであるにせよ、私の中に、ウケを求める習性があることもまた事実ですから、その習性に蓋をするのはよそうと思います。ただ、全体的な傾向について言えば、どうしても真面目臭くなるだろうとは思います。

 100回目記念の記事にしてはえらく重々しい話になってしまいました。ですが、こういう機会でもないと上手く言えないことかもしれないので、このまま上げることにします。モヤモヤしているものが晴れて、素直に言葉が飛び出すようになれば、ブログにある種の活気は宿るでしょう。どうぞその点はご心配なさらず。

 そんなこんなで、101回目以降も、引き続き、宜しくお願いします。

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