ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2019年01月

 夕方から飲み会があるが、それまで特に予定がない。というわけで、書きあぐねていた先週末の話を綴ろうと思う。

 去る1月20日、京都の東山にあるみやこめっせで開催された「文学フリマ京都」という同人誌即売会を訪れた。その名の通り、文学系の同人誌即売会で、歴史ある同人サークル、大学・高校の文芸部、個人で活動する作家など、様々な人たち出展し、自作の小説・エッセイ・評論・詩歌などを披露・販売する場である(詳細は公式サイトをご覧ください)。

 1年半前、後輩から文学フリマについて教えてもらって以来、大阪・京都で開催されるフリマに、買い手としてずっと足を運んでいる。文学フリマは全国各地で展開しており、関西では大阪と京都でそれぞれ年1回開催されている。今回の文学フリマ京都で、探訪は通算4度目となる。

 さて、今回、4度目の探訪にして初めて、「一緒に行きませんか」と人に声を掛けてみた。より具体的に言うと、読書会で呼びかけたのである。が、1月20日は肝心の読書会の日と被っており、反応は薄かった。これを踏まえ、空き時間に連絡1本で来られるようにと、開始時刻の11時に合わせて会場入りするも、1人ポツンと佇むうち、いたずらに時間が過ぎるばかり……そんな中、昼過ぎになって大先輩が1人駆けつけてくださり、初めての誰かと回る文学フリマ探訪が実現した。お陰様で、これまでとは一味違う豊かなフリマ経験を堪能することができた。

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 というわけで、僕と大先輩の文学フリマ道中記をつけていこうと思うが、その前に、文学フリマ京都の規模や雰囲気、そして、僕お決まりの探訪ルートについて記しておきたい。

 会場は京都の東山、平安神宮の大鳥居のすぐ近くにある「みやこめっせ」という大型イベント施設、その玄関正面にある第2展示室という大部屋であった。開催時間は11時から16時まで。入場無料で、出入自由である。

 中に入ると、ターミナル駅のホームのように机が縦に何列も延びている。その中に作家さんたちがいて、自作を所狭しと並べている。机の列の間は通路になっていて、僕のような買い手が歩いている。訪れている人は、中高生から中高年まで幅広い。子どもを連れベビーカーを押している人もいて、流石にちょっと驚いた。作家さんの方も、下は高校の文芸部から、上はご高齢の方まで様々。あとで知った話によると、最高齢の出展者は北海道から駆け付けた96歳の男性だったそうである。その若々しさ、行動力、表現力、どれを取っても素晴らしすぎて言葉が出ない。

 ところで、会場のブース数であるが、公式サイトによると、今回の文学フリマ京都では405ブース。これだけの出展者がいるというのも凄いが、さらにそれぞれのブースでは、新作と既刊本が同時に並べられていることが多いから、作品の数はざっと2、3千を数えることになる。考えただけで眩暈がしそうだ。この中からお気に入りの作品を見つけ、絞り込むにはある程度コツがいる。

 そこで活躍するのが見本誌コーナーである。見本誌コーナーは会場入口から向かって右奥にあり、作家さんたちが用意した自作サンプルがずらりと並べられている。この場所で気になる作品を手に取ったり、気にならなくてもとりあえずパラパラめくってみたり、そんなことを繰り返すうち、欲しい作品が自ずと絞られていくというわけだ。

 僕のいつものルートはこうである。入口でパンフレットを受け取ると、まずとりあえず会場をぐるりと回って雰囲気を確かめる。どこでどんな作品が出ているか、どんな人が来ているか、奇抜な人はいるか(これは注意を配らなくても勝手にわかる)などなどをざっと見る。この段階で、ポップや装丁などに魅かれ、これは欲しいと思う作品に出会うこともあるが、衝動買いはしない。下手すると派手に金が飛ぶし、あんまり買い過ぎても読む余裕がないからだ。ともあれ、一巡し終えると、そのまま見本誌コーナーに向かい、先に書いた通り気になる本を選んでいく。そして、自分の懐具合や読むスピードを勘案しながら、買う本を絞り込んでいくのだ。

 実を言うと、この辺りの手順は大先輩と合流する前に済ませていた。1人の時間がたっぷりあったし、案内役という自負もあったから、予め様子を見ることだけは忘れなかったのだ。

 といったところで、そろそろ大先輩にご登場願おうと思う。が、ここから2人の道中を書き綴ると大変な字数になってしまうので、道中記は次の記事で書くことにしよう。待たれよ、しばし。

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 待っていられない方のために、大先輩が書かれていた文学フリマの記事をご紹介します。熱気たっぷりの読み応えのある記事です。僕も登場します(笑)

「1/20開催 文学フリマ(京都)と”短歌”」
https://ameblo.jp/momomotokazu/entry-12434816092.html

 結局、この1週間はエンジンが上手くかからないまま終わってしまった。

 明日でなんとか立て直そう……と書きかけて、いまの自分にとってこの手の言葉ほど毒になるものはないと気づく。だから、気楽にいこうや。

 シンデレラ作戦のお陰で気分上々、ではそろそろ、溜め込んでいた休日の記録をつけるとしよう……と思っていた私だったが、いまちょっとそれどころではない状況にある。

 事の起こりは、昨日の宣言通り退社後カフェに入り、パソコンを取り出して日記をつけようとした時に遡る。アイフォンをテザリングさせようとしたら、充電が異様に減っている。そういえば、このところ充電の減りが早い。そこでふと、バックアップを取って復元してやると、不具合が改善されるという昔聞いた話を思い出した。

 善は急げ。早めに家に帰った私は、早速バックアップに取り掛かった。

 そしていま、その作業にてこずっている。

 もうちょっと詳細に書きたいところだが、あと5分で12時なので、これにて引き揚げるとしよう。あぁ、タイマーの鳴りだしたウルトラマンの気分が少しわかる気がする。

 なに、あと5分でバックアップ作業は終わるのか? 頼む、そこは触れないでほしい。

 そろそろ真剣に意識しなければならないことがある。12時までに寝ることだ。

 先月の半ばごろから、日記がだんだん長くなって、書き終わる時間が遅くなっていった。平日に2時半まで日記を書き、7時過ぎに唸りながら起き、食べかけのパンの残りを三角コーナーに突っ込んで、眠い目をこすりながら会社まで走ったこともある。それでも、書きたいことがあるんだという意欲と、日記が途切らせたくないという恐怖心から、スタンスを変えずにひと月やってきたが、やはり睡眠不足は否めない。夜の睡眠が短くなり、不定期に寝落ちする。それは不摂生というものだろう。

 日記の量や内容を吟味し、書く時間を調整する。

 そして、12時までに寝る。

 それをきっちり習慣づけたいと、僕は思う。

 ところで、この日記であるが、どういうわけか、風呂から上がって11時を少し回る頃まで書き始めることができない。それまで家にいる間何をしているのかを冷静に振り返ると、実に勿体ない時間の使い方をしているなと感じる。

 暫くぶりにカフェ通いを再開して、書いたり読んだりする時間を確保しようか。そんなことを、ぽつぽつと考える。

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 10日ほど前のことになるが、会社で仕事をしている最中、事務所に正月疲れが蔓延しているなと感じたことがある。僕の職場は社内でもとりわけ物静かと言われているが、その日はいつにも増してしんとしていて、そして、空気が澱んでいるように感じられた。年末年始の休みが明けていきなりの5連勤で、週の半ばからしんどいという人もいた。疲労が充満しているのは、むしろ当然のことのように思われた。

 しかし、そこまで考えた瞬間にはたと気づく。いま自分が感じたことがほんとうのことだと担保するものは何もないということに。そして、確かであるのは、僕自身の身体を襲う休み明けの疲労感だけだということに。疲れた僕の目を通すから、世界がくたびれた姿をしている。きっとそれが真実で、職場はいつもと変わらぬ姿を呈していたにちがいない。

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 突然こんなことを書いたのは、この一連の思考をきっかけに、久しぶりにあることを思い出したからだ。それは、人は結局、自分の知っている通りにしか世界をみられないということであり、ゆえに、ある人が自分以外のなにものか——それは人であったり、物であったり、場所であったり、音であったりと様々なのだけれど——とにかくそのなにものかを指して寸評した言葉は、そのまま、その人自身を言い表しているのだということである。

 僕が実際に経験した出来事で、かつ一番わかりやすいのは次の例だと思う。ある時飲み会の席で、一人の先輩が、「〇〇さんは絶対ウラがあるで」と言った。僕はその話に「はぁ」と相槌を打ちながら、ああこの先輩にはウラがあるなと思ったものだった。

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 夏目漱石は風景描写を通じて登場人物の心理を描くのが上手いという話を聞いたことがある。完全なる耳学問で、実際に漱石の作品を読んで確かめたことはない。が、敢えてこんな嘘をつく人もいないだろうから、僕はずっと鵜呑みにしている。もっとも、ここで問題にしたいのは、夏目漱石が本当に風景描写を通じた心理描写に長けていたかということではない。僕が言いたいのは、風景描写でもって人間の心理を描くというのは、単なるレトリックではなく、人間観察に裏打ちされたリアルな表現のありようにちがいないということだ。ある人の目に世界がどう映るかを描けば、その人自身を描くことができる。

 もっとも、僕の知る限り、漱石の小説には三人称語りのものが多いから、風景と心理の関係は一段と複雑なものになるだろうと思う。いまこの場面では誰の話をしているのかをきちんと追わなければ、その世界が誰の目に映る世界なのかをはき違えてしまうからだ。その点、一人称語りの小説は、語り手の心理を想像すればいいからシンプルである。そして、その語り手の心理と、自分自身を重ね合わせ、重なり具合、或いは、はみだし具合を分析すれば、何かが自分の内に積まれたような気分になる。それはとても楽しいことだと、僕は思う——この段は余談である。

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 言いたいことは出尽くしているのに、事例だけいっぱい挙げたくて長引いていく。そんな堂々巡りを展開するうちに、このイヤに真面目くさった話は終わりを迎えるのだけれど、最後に1つだけ、心理と景色の関係にまつわる思い出話を添えておきたい。

 今から1年ほど前のある夜のことだ。その頃僕は連日ウツウツとしていて、気分が晴れなかった。ふと、地面ばかりを追いそうな顔を、これではまずいと上に向けた時、思いがけない光景が見えた。

 僕の上にある黒い夜空は、どこまでも澄んでいて、その高いところで方々へ広がっていたのである。

 僕は不思議なものを見た気がした。今の気の重い自分に見えるのは、低く垂れこめた澱んだ空だろうと思っていたからだ。低層マンションの屋上すれすれに迫る重たい空。それこそが自分に相応しいと思っていた。しかし、実際に見えたのは、真反対の空だった。どこまでも黒く澄み渡り、果てを知らず高く伸び、そして、誰の手も届かないところで拡散する空だった。

 暫く考えて、漸くわかった。

 僕はその時、ここではないどこかへ行きたかったのだと。

 そんな場所へ、自分を解き放ちたかったのだと。 

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