7月から、大阪で月に1回開かれている読書会に参加している。この読書会は、各自好きな本を持ち寄って紹介し合う形式である。
明日はその読書会の日である。なんでも、設立1周年祝いを兼ねたスペシャルな会をするそうだ。かなりしっかりと運営されている読書会なので、長い経験のうちにノウハウが蓄積されているのだとばかり思っていたのだが、案外若い会であるらしい。それはともかく、明日は特別な会なので、紹介する本にテーマが設けられている。そのテーマは、「私を変えてくれた本」というものだ。
テーマが発表されたのは、1ヶ月ほど前のことである。僕はしばらく思案した後、本ではないが、20ページくらいのエッセイを1本紹介することにした。「〈からだ〉の情景」——劇作家兼演出家であった如月小春さんが、演劇ワークショップで出会った子供たち(主に中学生)との出会いを通じ、人の心の奥深くにある情や衝動が表現されることについて論じたエッセイである。
「〈からだ〉の情景」を初めて読んだのは、もう2年半前になる。大学院2年目を迎えて間もない4月、先輩が講師を務める輪読の授業で最初に出た課題文献がこれだった。この授業では、課題文献が出される度に読書ノートを書くことになっていて、もちろん、「〈からだ〉の情景」についても読書ノートを書いた。
その時、僕は従来とは違う文章の書き方をした。それまで僕は、レポートを書いたり授業で発言をしたりする際、人と違う卓越した意見、人から賞賛されるような頭の良い意見を言おうとばかりしていた。それらの意見は己の本心を置いてきぼりにしたつまらない抜け殻だと、今ならハッキリ言えるが、当時の僕はそれを分かっていなかった。しかし、「〈からだ〉の情景」の読書ノートをつけた時は違った。僕は初めて、自分の率直な感想を文章の中に盛り込んだのである。
その読書ノートは、それまで書いたどの文章よりも、そして、それまでしてきたどの発言よりも、高く評価された。「すごく共感した」「まだこんな文章が書ける院生がいるんやと思った」それらの言葉が、真っ直ぐ自分のところへやってくる。とても嬉しかった。
以来僕は、自分は何を考えているのか、何を感じているのかということを真剣に考えるようになった。先日日記の中で、6年に及んだ学生・院生生活の最後の1年に「自分の発見」という課題に取り組んだこと、そしてそれが自分自身を変えていく大きなきっかけになったことを書いた。その転換の起点にあったものこそ、「〈からだ〉の情景」だったのである。
今日、僕は2年半ぶりに「〈からだ〉の情景」を読んだ。じっくり味わいながら読み直すその文章は、当時以上の力を秘めていた。涙ぐんだり、考え込んだり、深く頷いたりしつつ、たっぷりと時間を使って「〈からだ〉の情景」を読んだ。読み終えた時、僕は呆然としてしまった。心がぐわんぐわん揺れていて、どうしていいかわからなかった。
元々、今日の日記では、「〈からだ〉の情景」本編の話をもっとたくさん書こうと思っていた。けれども、今日それを書くことはできなかった。なんとか内容を噛み砕くことはできたが、それを書くにはいつもの日記の倍以上の文量が要りそうだった。だからといって、強引に短くまとめたくはなかった。結果、このように思い出話だけが日記になってしまったという次第である。
「〈からだ〉の情景」の感想文は、近いうちにちゃんと時間を取って書こうと思う。
明日はその読書会の日である。なんでも、設立1周年祝いを兼ねたスペシャルな会をするそうだ。かなりしっかりと運営されている読書会なので、長い経験のうちにノウハウが蓄積されているのだとばかり思っていたのだが、案外若い会であるらしい。それはともかく、明日は特別な会なので、紹介する本にテーマが設けられている。そのテーマは、「私を変えてくれた本」というものだ。
テーマが発表されたのは、1ヶ月ほど前のことである。僕はしばらく思案した後、本ではないが、20ページくらいのエッセイを1本紹介することにした。「〈からだ〉の情景」——劇作家兼演出家であった如月小春さんが、演劇ワークショップで出会った子供たち(主に中学生)との出会いを通じ、人の心の奥深くにある情や衝動が表現されることについて論じたエッセイである。
「〈からだ〉の情景」を初めて読んだのは、もう2年半前になる。大学院2年目を迎えて間もない4月、先輩が講師を務める輪読の授業で最初に出た課題文献がこれだった。この授業では、課題文献が出される度に読書ノートを書くことになっていて、もちろん、「〈からだ〉の情景」についても読書ノートを書いた。
その時、僕は従来とは違う文章の書き方をした。それまで僕は、レポートを書いたり授業で発言をしたりする際、人と違う卓越した意見、人から賞賛されるような頭の良い意見を言おうとばかりしていた。それらの意見は己の本心を置いてきぼりにしたつまらない抜け殻だと、今ならハッキリ言えるが、当時の僕はそれを分かっていなかった。しかし、「〈からだ〉の情景」の読書ノートをつけた時は違った。僕は初めて、自分の率直な感想を文章の中に盛り込んだのである。
その読書ノートは、それまで書いたどの文章よりも、そして、それまでしてきたどの発言よりも、高く評価された。「すごく共感した」「まだこんな文章が書ける院生がいるんやと思った」それらの言葉が、真っ直ぐ自分のところへやってくる。とても嬉しかった。
以来僕は、自分は何を考えているのか、何を感じているのかということを真剣に考えるようになった。先日日記の中で、6年に及んだ学生・院生生活の最後の1年に「自分の発見」という課題に取り組んだこと、そしてそれが自分自身を変えていく大きなきっかけになったことを書いた。その転換の起点にあったものこそ、「〈からだ〉の情景」だったのである。
今日、僕は2年半ぶりに「〈からだ〉の情景」を読んだ。じっくり味わいながら読み直すその文章は、当時以上の力を秘めていた。涙ぐんだり、考え込んだり、深く頷いたりしつつ、たっぷりと時間を使って「〈からだ〉の情景」を読んだ。読み終えた時、僕は呆然としてしまった。心がぐわんぐわん揺れていて、どうしていいかわからなかった。
元々、今日の日記では、「〈からだ〉の情景」本編の話をもっとたくさん書こうと思っていた。けれども、今日それを書くことはできなかった。なんとか内容を噛み砕くことはできたが、それを書くにはいつもの日記の倍以上の文量が要りそうだった。だからといって、強引に短くまとめたくはなかった。結果、このように思い出話だけが日記になってしまったという次第である。
「〈からだ〉の情景」の感想文は、近いうちにちゃんと時間を取って書こうと思う。