ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2018年11月

 7月から、大阪で月に1回開かれている読書会に参加している。この読書会は、各自好きな本を持ち寄って紹介し合う形式である。

 明日はその読書会の日である。なんでも、設立1周年祝いを兼ねたスペシャルな会をするそうだ。かなりしっかりと運営されている読書会なので、長い経験のうちにノウハウが蓄積されているのだとばかり思っていたのだが、案外若い会であるらしい。それはともかく、明日は特別な会なので、紹介する本にテーマが設けられている。そのテーマは、「私を変えてくれた本」というものだ。

 テーマが発表されたのは、1ヶ月ほど前のことである。僕はしばらく思案した後、本ではないが、20ページくらいのエッセイを1本紹介することにした。「〈からだ〉の情景」——劇作家兼演出家であった如月小春さんが、演劇ワークショップで出会った子供たち(主に中学生)との出会いを通じ、人の心の奥深くにある情や衝動が表現されることについて論じたエッセイである。

 「〈からだ〉の情景」を初めて読んだのは、もう2年半前になる。大学院2年目を迎えて間もない4月、先輩が講師を務める輪読の授業で最初に出た課題文献がこれだった。この授業では、課題文献が出される度に読書ノートを書くことになっていて、もちろん、「〈からだ〉の情景」についても読書ノートを書いた。

 その時、僕は従来とは違う文章の書き方をした。それまで僕は、レポートを書いたり授業で発言をしたりする際、人と違う卓越した意見、人から賞賛されるような頭の良い意見を言おうとばかりしていた。それらの意見は己の本心を置いてきぼりにしたつまらない抜け殻だと、今ならハッキリ言えるが、当時の僕はそれを分かっていなかった。しかし、「〈からだ〉の情景」の読書ノートをつけた時は違った。僕は初めて、自分の率直な感想を文章の中に盛り込んだのである。

 その読書ノートは、それまで書いたどの文章よりも、そして、それまでしてきたどの発言よりも、高く評価された。「すごく共感した」「まだこんな文章が書ける院生がいるんやと思った」それらの言葉が、真っ直ぐ自分のところへやってくる。とても嬉しかった。

 以来僕は、自分は何を考えているのか、何を感じているのかということを真剣に考えるようになった。先日日記の中で、6年に及んだ学生・院生生活の最後の1年に「自分の発見」という課題に取り組んだこと、そしてそれが自分自身を変えていく大きなきっかけになったことを書いた。その転換の起点にあったものこそ、「〈からだ〉の情景」だったのである。

 今日、僕は2年半ぶりに「〈からだ〉の情景」を読んだ。じっくり味わいながら読み直すその文章は、当時以上の力を秘めていた。涙ぐんだり、考え込んだり、深く頷いたりしつつ、たっぷりと時間を使って「〈からだ〉の情景」を読んだ。読み終えた時、僕は呆然としてしまった。心がぐわんぐわん揺れていて、どうしていいかわからなかった。

 元々、今日の日記では、「〈からだ〉の情景」本編の話をもっとたくさん書こうと思っていた。けれども、今日それを書くことはできなかった。なんとか内容を噛み砕くことはできたが、それを書くにはいつもの日記の倍以上の文量が要りそうだった。だからといって、強引に短くまとめたくはなかった。結果、このように思い出話だけが日記になってしまったという次第である。

 「〈からだ〉の情景」の感想文は、近いうちにちゃんと時間を取って書こうと思う。

 僕は昔から、無音の環境に身を置くのが苦手だ。だから、音のない場所や音の寂しい場所で作業をする時には、脳内BGMを流していることが多い。職場はまさに、脳内BGMが流れる典型的な場所だ。もちろん、誰かの話し声やパソコンのキーを操作する音は始終あるけれども、それだけではなんとも味気ない。そんなわけで、仕事をしている時には、よく脳内BGMが流れている。こうやって頭の一部を仕事以外のことに費やしていると、ヘマが増えたり仕事のペースが落ちたりするのかもしれない。が、そういってBGMを抑制すると、ひどい時には机の前に座っているのさえ億劫になってしまう。だからまあ許してほしい。誰に許しを乞うているのかわからないけれど。

 さて、今日も僕は脳内BGMを流しながら仕事をしていた。今日は1日中ほぼ同じ曲が流れていた。それが、タイトルにも挙げた、in the soupというバンドの「川」という曲だ。

 9月の半ば、ひょんなことから、かの怪物番組『水曜どうでしょう』の本編動画を見てしまった僕は、以来すっかりその虜になってしまった。そして時を同じくして、僕が視聴する楽曲や脳内BGMの多くが、『どうでしょう』関連のもので埋まるようになった。その筆頭格が同番組のED曲「1/6の夢旅人」および「1/6の夢旅人2002」であったことは言うまでもない。それこそ、この2曲は長い間、僕の頭の中でエンドレスリピートし続け、脳の大部分を占拠していたものだった。

 とはいえ、『どうでしょう』関連の動画を巡回するようになってから2ヶ月、さしもの「夢旅人」ブームも収まりつつある。そんな中、突如現れたのが、「川」であった。「川」は、『どうでしょう』から派生したドラマ『四国R-14』、および、『どうでしょう』の企画「ユーコン川160㎞~地獄の6日間~」のエンディングテーマだ(僕は後者の動画を巡回していた時に初めて聴いた)。

 聞き流していた頃から、サビがいいなとなんとなく思っていた。それで先日聴き直してみると、今度は歌詞が深いことに気が付いた。川の雄大さが歌われ、それに対比される形で己の小ささが暗示される。ただ、この曲の良いところは、〈私〉が川のことを「すげえなあ」と思い、ずんずんと先へ歩いて行こうとするところにあると思う。それがほんとうに清々しくて素敵だ。歌詞にも出てくるが、茜色の空にちぎれ雲が浮かぶ夕暮れに、川べりに佇んでいる時の気持ちを思い出す。ぼうぼうに伸びた草の向こうに、空と川とを交互に見ながら、河川敷をぽつぽつと歩く。物哀しいようでありながら、実はそうではなく、不思議な落ち着きと共に身に生気が宿る、あの不思議な感覚。あれが歌になると「川」になるのかもしれない。

◇     ◇     ◇

 最初に書いた通り、脳内BGMはしょっちゅう流れているので、いずれまた何か書くかもしれない。

 仕事にキリがついたので、ウォーターサーバーのある給湯室へ行くと、上司と先輩が何やら話していた。間に割って入らぬよう最奥へ向かい、紙コップの中の水をクッと飲みながら耳をすます。どうやら、事務所内で世間話が少ないという話をしているらしい。

 実際、僕が日々仕事をしている事務所は、いつも異様にしんとしているとよく言われる。僕自身、世間話はもとより、言葉数自体が少ないのではないかとさえ思う。まだ入りたてで仕事について分からないことだらけだった頃は、必要に迫られながらも沢山の言葉を耳にし、口にしたものだった。けれども、仕事を覚え、幸いにしてミスも減りつつある今、言葉数は日に日に少なくなっている。

 この状況を変えるためには、積極的に世間話をするほかない。僕は近頃何度もそんなことを考えている。しかし、しかし! これは実に厄介な問題である。というのも、僕はとにかく世間話というのが苦手なのだ。事務所で世間話が盛んに交わされていたとしても、僕がその輪の中に加わっているか怪しいとさえ思う。話しのマクラで上司と先輩にご登場願ったが、僕は2人の(というより主に上司の)不満を共有できるようでいて、実はあまり共有できていない。

 もちろん、僕はこの問題を前にただ手をこまねいているわけではない。世間話ができないのはなぜか、ちゃんと分析しているのである。その結果、会話をするにあたってわからないことが2つあるということに気が付いた。1つ目のわからないことは、〈最初の一言は何を言えばいいか〉であり、2つ目のわからないことは、〈相手に質問を投げかけるにはどうしたらいいか〉である。難しいこと考えず、好きなようにやればいいじゃないかという考え方もあると思うし、実際そう思うこともあるのだが、どうしてもそれができない。

 僕は元来言葉数は多い方で(なんてことはこの文章をご覧の皆さまならよくお分かりだと思うが)、とっかかりさえあれば、あとは何とかなると思う。しかし、そのとっかかりで躓いてしまうものだからもうどうしようもない。さて、どうしたものだろう。

 世間話問題については、今後も引き続き考え続けようと思う。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』を読み終えた。

 会社からの帰りにしばしば立ち寄るカフェでのことだった。最後の2章がとにかくスピーディーで、一気に読み切る。直前まで、ここ2日ほど取り立てて書くべきこともなく、このまま平板な日々が続くんじゃないかと思い不貞腐れていたところだったが、そんな負の感情など一気に消し飛んだものだった。

◇     ◇     ◇

 ある町のはずれにある古代の円形劇場にひとり住まうモモ。彼女は人やものの話を聞くことのできる不思議な少女で、近くに住む人たちは彼女と共に幸せな日々を過ごしていた。しかしある時、町に「灰色の男」が現れたことをきっかけに幸せに影が忍び寄る。「灰色の男」は時間貯蓄銀行を名乗り、人々に無駄な時間を貯蓄するよう勧めて回る。そうして、時間節約の名のもとに人々の生活は殺伐としたものになっていった。男たちの魔の手はモモの周囲へ、さらにはモモ自身へと伸びる。そして、人々の失われた時間を取り戻すための、モモと「灰色の男」たちの戦いが始まるのである。

 『モモ』は、効率化の名のもとに時間を切り詰めることにあくせくしたり、あるいは、時間がもったいないからと言ってその隙間を埋めてとにかく何かしようとしたりする、そんな生き方を見つめ直すきっかけになる本だと思う。そういう寓話的メッセージもさることながら、私が本当にすごいなと思ったのは、本作における「時間」の表現だった。「時間」とは何か。なにかと時間を意識することの多い日々を送る私は、なんとなくそれを知っているような気がしていた。けれども、本作を読み進めていると、それがだんだん分からなくなってくる。

 「時間」とは何かという問いに最も迫っているのは、本作の中ほど、モモが「灰色の男」の追跡を逃れ、時間を司る者、マイスター・ホラのもとへ辿り着く場面だ。

「時間はある——それはいずれにしろたしかだ」思いにしずんでつぶやきました。「でもさわることはできない。つかまえられもしない。においみたいなものかな? でも時間て、ちっともとまってないで、動いていく。すると、どこからかやってくるにちがいない。風みたいなものかしら? いや、ちがう! そうだ、わかった! 一種の音楽なのよ——いつでもひびいているから、人間がとりたてて聞きもしない音楽。でもあたしは、ときどき聞いていたような気がする。とってもしずかな音楽よ」(p.234)

「でも、それだけじゃない」モモはまださっきの考えを追いつづけながら言いました。「あの音楽はとおくから聞こえてきたけど、でもあたしの心のふかいところでひびきあった。時間ていうのも、やはりそういうものかもしれない」(p.234-5)

 そしてこの後、モモはマイスター・ホラに誘われ、時間のみなもとを見にいく。光の柱に包まれたまるい池。その池に、この世のものとは思われない美しい花が咲き、そして散っていく。それは、ひとりひとりの心の中に、その時々にさく〈時間の花〉である(p.238-43)

 時間は音楽である。時間は美しい花である。その表象は、どこからやって来るのだろう。私はいつの間にか、本作の生き方に対するメッセージ以上に、本作における時間のイメージの立ち上がりに心を奪われていたものだった。

 『モモ』の魅力はこれに尽きない。最初に触れたラスト2章のスピード感、或いはそれに至るまでの数章を覆う悲愴感。町はずれで営まれていた幸せな暮らしの描写を追う時の穏やかさ、そして、それが失われて行く時のなんとも言えない無力感。ゆっくり読めば読むほどに、色々な感情が沸き起こる。それがまた、読んでいる身としては豊かでたまらないのである。

 さてさて、勢い余って感想を並べ立ててしまった。粗削りかもしれないが、第一感想としてここに留めておこう。

モモ (岩波少年文庫(127))
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
2005-06-16



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