ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

2018年11月

 鳥類学者・川上和人氏のエッセイ『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』(新潮社、2017年)を読み終えた。前々から本屋で見るたび気になっていた一冊で、今月初頭、遂に意を決して購入した。本は大抵積読してしまい、数ヶ月、場合によっては数年放置してしまうのが私の常だが、この本に関してはすぐに読んだ。よほど気になっていたのだろうか……ともあれ、感想をつけるとしよう。

 名は体を表す。本書はまさに、鳥類学者が書いた、鳥類並びに鳥類学に関する本だ。そして、これもタイトルの通り、決しておカタい本ではない。小笠原諸島での実地調査をはじめ、氏自身の研究をたくさん紹介しながら、鳥類と鳥類学者の生態について、ユーモアたっぷりに書かれたエッセイだ。それホントかと訝しがる疑り深い方のために、冒頭の一節を引用しておこう。なお、私が本書にハマるには、この一節で十分だった。

 おにぎりを食べていると、しばしば愕然とさせられる。なんと、梅干しが入っているのだ。ウメはアンズやモモの仲間、紛れもない果物だ。フルーツを塩漬けにして、ご飯に添えるなど、非常識にもほどがある。私が総理大臣になったら果物不可侵条約を可決し、梅干しを禁止、フルーツの基本的権利を守ることを約束する。ついでに酢豚からパインを排除しよう。
 と、おにぎりに話しかけながら、24時間の船旅を過ごし、小笠原諸島に向かう。これが私の仕事である。
 無論、私はおにぎり屋の跡継ぎではない。鳥類学者だ。
(p.1)

 本書のテンションは一貫してこんな感じである。うっかり気を抜くと所構わず吹き出しそうになる。キケンな本である。

 しかし、テンションに惑わされてはいけない。上っ面を突き破って一歩踏み込むと、この本は非常に味わい深い。鳥類学の知見や調査方法、鳥類学者の仕事ぶりや思わぬウラ事情まで、ありとあらゆる知見がちりばめられている。「チョウルイガク」のチの字も知らなかった私だが、この本を読んだお陰で幾つかの知見を得ることができた。単純な話だが、知識が増えるのは楽しいことだ。

 特に面白かったのは、鳥類の進化論的説明である。例えば、本書最初の一節にメグロという小笠原諸島固有の鳥が登場するが、絶海の孤島に暮らすこの鳥は、天敵やライバルがいないため、飛ぶのをやめてしまったうえ、地面だろうが木の上だろうが恐れを知らず闊歩するという。生物種は生息環境に応じて様々な進化を遂げる。メグロの例は余計な機能を省くものだが、本書にははんたいに、よく似た鳥との識別を図るため頭が赤色になった鳥のように、必要な機能を追加する例も登場する。いずれの例でも重要なのは、鳥の見た目にしろ生態にしろ、それぞれに理由があって今の姿になっているのがわかるということだ。このように、論理的に知識が紹介されるものだから、納得しながら賢くなれる。こういう経験は楽しい。

 そればかりではない。本書の中には考えさせられる話も登場する。分けても、固有種の保護と外来種の駆除を巡る話は印象深い。例えば、小笠原諸島に本州のウグイス(文中では亜種ウグイスと表現されている)が飛来し、小笠原固有のハシナガウグイスの生態が脅かされているという話の中には、次のような一節が登場する。

 亜種ウグイスに罪はない。聟島でのハシナガウグイス絶滅も、外来種の野生化も、外来種駆除も、全て人間の仕業だ。しかし、罪の有無と、在来の鳥に対する影響への配慮は別の話だ。ひとたび個体数が増えるとその対処は格段に難しくなる。場合によっては、増加前に駆除する英断も必要とされる局面である。もちろん、これも自然の推移と現状を見守ることは容易である。しかし、それが模範解答とは限らない。
 自然を管理するなど、傲岸不遜かもしれない。それでもなお、人の影響を受けて目の前で変容していく生態系を、見ない振りはできない。
(p.38-9)

 これに類する話題は本書の中で繰り返し登場する。小笠原諸島で外来種のヤギを駆除した際の話の中では、ヤギを殺すことに対する反発が挙がったことが述べられている。また、アカポッポという固有種を守るために島のネコを駆除するという話の中では、苦難の末に東京都獣医師会の協力で里親を見つける体制が整えられたことが語られている。こうした現実が生々しく語られているのも、本書の特徴だ。このテーマについては私も幾らか考えを進めたが、まだまだ取っ散らかっている。感想文も長くなってきたので、ここで書くのは控えよう。

 ともあれ、肩が凝ることもなく、知識を蓄え、あれこれと考えを巡らすことのできる本だ。タイトルにウケて軽い気持ちで手に取ったが、意外や意外、爪痕の残る本だった。もちろん、そこまで生真面目にならずサクッと読むのも面白いと思う。気になる方はぜひ。

 会社で厳しく叱られた。「時間管理ができていない」「書類のチェック漏れが多い」指摘されたのはこの2点。特にチェック漏れについて指導が入る。

「個々の漏れは大したことないかもしれんけど」先輩は言う。「それを通して俺らは、君が仕事の見直しをちゃんとやってるがどうかを見てる。ここで変な癖がついたら、いずれ大きな仕事を任された時にミスで大怪我することになるぞ」そして最後にこう言われた。「正直、今の状況が変わるまで、他の仕事は任せられないと思ってる」——

 先輩方は、驚くほどこちらの様子を見ている。そして、僕が全く気に留めていなかったような所で、こちらの不出来を見抜き、怒りを溜めている。自分が周りにどう見えているかという現実を突きつけられ、僕は久しぶりに体がガクガク震えた。

 時に、運転中の車中だった。ブレーキを踏む足がヒクヒクする。信号は青にならない。

 ブログの師匠と呼ぶべき先輩がいる。幾度とない挫折を経てなお私がブログを書いているのは、ひとえに師匠の勧めがあったからである。2ヶ月前、その師匠から400字作文を薦められたことがある。400字で書く、私たちはそれを「400字チャレンジ」と呼んでいる。

 当時私は「書きたいのに書けない」という悩みを長く引きずっていた。その悩みを聞きつけ師匠はこう言った。「それは君の文章が長くてなかなか完成しないからだ。短い文章を書くといい」私は「できっこない」と反発した。すると師匠、「文章の上手い人はどんな注文にも応えられるものだ!」突然のスパルタに一層反抗心を強めながら、私は生まれて初めて400字の文章に挑んだものだった。

 日記簡素化計画を始動するにあたり、私は400字作文再チャレンジを決意した。が、私は何を始めるにも一定の儀式がいる。というわけで、今日は決意表明を400字で書いてみた。今後の展開に乞うご期待。



※おまけ:師匠に悪態付きながら書き上げた最初の400字チャレンジ※

 たいへん困ったことになった。400字で文章を書いてみろと言われたのである。400字で書ける文章を書いたことなどない。もっと言えば、2000字以内で収まる文章を書くこと自体稀なのだ。ほら、これでたぶん100字。

 400字と聞いただけで短いと思ってしまう。ゲームマスターにそう告げると、そう思った時点で負けという辛いコメントだけが帰ってきた。その瞬間、不貞腐れてベッドに倒れ込んでしまった。負け——負けってなんだ!? ほら、これでたぶん200字。

 たいへん困ったことになった。400字で文章を書いてみろと言われて、途方に暮れたという話を書こうと思ったのだが、どうやらこの話を書くには400字もいらないらしい。正直、自分でも驚いているけれど。はあ、これでやっとたぶん300字。

 訓練がいるんだよ、とゲームマスターの声がする。声がする、というくらいだから、僕はまだ不貞腐れて寝ているのだろう。大人げないことである。さて、これでたぶん400字。

 今日1日、私はあることを思案していた。

 どうにかして、日記を短くまとめられないものだろうか。

 日記を書き始めたばかりの頃の私は、表現への欲求はあったものの文章が上手く書けなかった。だから、その文章は自然に短いものになった。しかし、それから1ヶ月、飲み会で潰れない限り毎日日記を書き続けるという、思いがけない成果を上げる中で、私は少しずつ調子づいていった。もちろん、それ自体はいいことだ。しかし、困ったことも起きている。調子に乗った私の文章は、日に日に長くなっているのだ。

 おっと、ここで私が心優しくも読者に配慮しているのだなどと思うのは買い被りである。日記書きの私が読者を想定しているわけなかろう。文章が長くなって困っているのは他ならぬこの私だ。

 正直に言おう。私は現在寝不足に悩まされている。

 文章が長くなるということは、それだけ書く時間も伸びているということだ。そして、その分だけ私の睡眠時間は短くなった。朝起きるのがつらい。14時から15時ごろになると、書類を見ている最中にどうしようもなく気が散って、じっとしているのが億劫になる。これはまずい。体調管理と健康維持は社会人の心得の第一ではなかったか……なんて、私がかくも勤勉なドグマを真に受けるわけはないが、問題はそこではない。単純に、寝不足はつらい。

 というわけで、明日から日記簡素化計画を発動させようと思う。もっとも、長く書きたいネタもあるので、休みの日になれば、ひねもす何かを書いて夜にボンと上げるかもしれない。が、とにかく平日は文章を簡素化しよう。

 なに、明日やろうはばかやろうだと。大いに結構。こちとらアホウ学部出身の生粋の阿呆である。

 では、おやすみなさい。

 昨日の読書会の話を書こうと思う。

 なぜ昨日書かなかったんだというお叱りはごもっとも。私自身反省している。しかし、まさかあそこまで飲むとは思っていなかったのだ。量の話ではない。時間の話である。1周年記念の読書会兼懇親会が終わったのが15時。その後カフェで2次会をして解散したのが17時。その後、私は「3次会へ行こう!」と盛り上がる人たちに付いて、天満の奥の奥にあるおでん屋へ入った。その3次会が、なんと5時間に及んだのだ。天満から梅田まで歩き、さらにそこから電車に乗った私が、熱燗にノボせながら家に辿り着いたのは、23時半を回ろうかという時間だった。

 もちろん、私は恨み節を言っているわけではない。最後の5時間の飲み会は、ここ最近の飲み会の中でもダントツで楽しかった。この時酒混じりに交わした会話の数々、嘘か本気か判然としないそれらのやり取りを掬い上げていけば、幾つもの話が書けると思う。「伝聞・東西読書会事情」とか、「逆恨み文化論」とか。残念ながら書く時間はないけれど。

 何の話をしているんだっけ……そう、読書会の話である。酒の話は忘れて、肝心の読書会本編の話をしようじゃないか。

◇     ◇     ◇

 1周年記念読書会は、50名近い人が参加する大きな読書会だった。普段参加している会は20名程度で行われているから、ざっとその倍以上。それだけあって、賑やかで華やかな会だった。会場も、普段は梅田の近くのカフェだけれど、昨日は南森町の近くにあるイベント会場だった。それも、入口が本棚でできていて、スイッチの本を押すと本棚が自動ドアのように開き、秘密の部屋へ入れるという仕様。読書会にこれ以上うってつけの場所があるのかと思えるほどの場所だった。見つけた人は凄いと思う。

 この日の読書会は、各自持ってきた本を紹介し合う形式。普段はまったく好きな本を持ち寄るのだが、この日は1周年記念ということで、テーマが用意されていた。それは、「私を変えてくれた本」というテーマである。

 私たち参加者は、事前に8つのグループに分けられている。1グループの人数は6人程度だ。会場に入ると、私たちは自分のグループのテーブルに付く。そして、主催者の挨拶ののち、テーブルごとに自己紹介をする。それから本の紹介が始まる。それぞれのグループの中で、1時間程度、互いの持ってきた本について、紹介しあい、質問しあう。私が思うに、ここが一番濃い時間である。しかし、グループごとの話し合いだけで終わっては、大勢が集まった意味がない。そこで、一定の時間になると、全体発表が行われる。1人1分程度で、自分の持ってきた本について紹介する。全員がそれを終えたところで、読書会はおしまいとなる。この後に懇親会もあったわけだが、話が長くなりそうなので割愛しよう。

 以下では、全体の感想をごくごく大雑把に書くことにしたい。

 私がとにかく面白いと思ったのは、「私を変えてくれた本」というテーマの解釈が、人によって様々だったことだ。私自身は、大学院生の頃、スゴイ人間になろうとすることよりも、本心に正直であることが大事だと教えてくれた本を紹介した。私はこの本との出会いは人生の転換点だと本気で思っている。つまり、「人生を変えてくれた本」を紹介したわけである。けれども、誰もがそんな重い話をしたわけではない。

 まず印象的だったのは、「私が本を読むきっかけになった本」の紹介。本が好きにならなかったら、読書会に来ようとは思わないわけだから、深掘りして考えれば、自分がいまここにいるきっかけを紹介しているようなものである。子どもの頃にこんな本を読んだ。それのここが面白かった——私自身は中学生になるまで一切読書をしなかった人間なので、そんな小さいときにこんな分厚い本を読んで感動していたんだということに対する純粋な驚きが続いた。

 次に印象的だったのが、「私が一番好きな本」の紹介。「私を変えてくれた本」というテーマ設定の深さを別ベクトルにアレンジして解釈したんだなという感じを受けた。私いたグループのリーダーも一番好きな本を紹介していた。その時に、「2位、3位ら辺って考え出すと分からなくなるけれど、1位はダントツじゃないですか」と話していたのが記憶に焼き付いている。言われてみればそうかもしれない。それだけ強く印象づいた本、共に生きる時間をもった本、それに対する思いの深さを垣間見るのは、楽しいというより、光栄なことである。

 数の上で多かったのは、悩んだり落ち込んだりしたときに救いになった本だったように思う。仕事に疲れた時、すごく気分が落ち込んでいた時、人が許せなくなった時。そんな時に出会い、考え方を変えてくれた本。そういう本はやはり、「私を変えてくれた本」というテーマと結びつきやすいのだと思う。だから、紹介された本の中には、自己啓発本や、ライトに翻訳された哲学書がしばしば見られた。

 あとは、よくわからないけれどとにかく忘れられないでいる本。それは往々にして、読後感の悪いもの、却って気が沈むようなものである。遠藤周作の『沈黙』を紹介した方が2人いたのだが、『沈黙』はまさにこういう本の典型だろうと思う。

 発表者の年齢や職業の影響を感じる発表もあった。私の参加している読書会は、20代・30代が多いものの、年齢層に偏りがあまりなく、様々な人が集まっている。余談であるが、読書会をはしごしている人たちの話によると、年配の方が多く若い人が入り込みにくい読書会もあるそうなので、年代層に偏りや抜けがないというのはありがたいことのようだ。ともあれ、それだけ色んな人がいると、長年の苦労の襞を感じる発表があったり、逆に初々しさを感じる(平均より年下の私でさえそう思うような)発表があったりする。忘れられないのは、ある学生さんの発表だ。脳科学に基づく勉強法の本を紹介した最後に、彼は一言、「この本のお陰で、私は大学に受かりました」と言ったのだ。なるほど、それは確かに人生の転機にちがいない。しかし、その転機のなんとフレッシュなことか。そんな風に思ったものだ。

 何やらとりとめもなく書いてしまったが、それは今回の読書会が充実した会だったことの表れだと思う。私は思う。本の紹介には、その人の個性が出る。分けても、テーマが設定された状態での本の紹介、それも「私を変えてくれた本」というカチッとしたテーマに沿っての本の紹介となると、その人の持っているものがストレートに出やすい。自分の知らない本を知ることももちろんだが、自分の経験しえない生き方に出会うのも、読書会の醍醐味ではないか。それは出会うというより垣間見るという程度のものだろうし、或いはすれ違うと表現した方がいいくらい微かなものかもしれない。けれども、それらをふと感じた瞬間、私は自分が凄く豊かな時間を過ごしている気分になって、嬉しいのである。

 そんなところで、私の読書会レポートは終わりにしようと思う。

◇     ◇     ◇

 散会する前に主催者に許可をいただいたので、参加している読書会のホームページのURLを貼っておこうと思う。読書会があると毎回必ずイベントレビューが上がるから、公式のちゃんとした記録はいずれここに上がるはずである。紹介された本も全てコメント付きで掲載される。はっきり言って、こんな個人の感想より、そっちを見てもらった方が話は早い。気になる方は、ぜひのぞいてみてほしい。

彩ふ読書会 https://iro-doku.com/

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