すっかり遅くなってしまいましたが、1027日(日)に行った彩ふ読書会・哲学カフェ研究会の活動内容を振り返りたいと思います。今回は「先入観や思い込みを抱いてしまうのはどうして?」というテーマで、2時間余り話し合いを行いました。話があちらへ飛びこちらへ飛びした回で、その内容はとても幅広いのですが、この記事では、僕にとって特に印象的だった内容に絞って話を進めたいと思います。

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 その前に、哲学カフェとは何か、そして、哲学カフェ研究会とはどういった集まりかということについて説明いたしましょう。

 哲学カフェとは、ざっくり言うと〈テーマを決めて、ともに考える集まり〉のことです。例えば「友だちって何?」「大人と子どもはどう違う?」「わかるってどういうこと?」といったように、テーマを1つ決め、そのテーマについて、みんなで集まって意見を出し合い、考えを深めるのです。

 ここで考えを深めるというのは、結論を出すということではありません。哲学カフェでは、参加者個々の考え方について、正しい/間違っているといった評価をくだしたり、1つの考えを共通の結論としてまとめたりすることはありません。大切なのは、それぞれの参加者が、出てきた色んな意見を踏まえて、自分なりの正解・結論を見つけ出していくことです。意見を出し合うのは、論破のためではなく、考える材料をみんなで持ち寄るためなのです。

 ただし、正解や結論が人によって違うからといって、「要するに、意見は人それぞれってことね」と割り切ってしまうのもちょっと違います。「色んな意見が聞けて面白かった」というだけでは、哲学カフェの旨味をほとんど取りこぼしてしまっているように僕は思います。上でも書いたように、出た意見を踏まえて、自分の考えを広げ、深めるところにこそ、哲学カフェのポイントがあるといえるでしょう。

 このように、1つのテーマを巡って意見を出し合い、参加者それぞれの考えを深めていくために、哲学カフェでは予め幾つかのアドバイスが示されることがあります。今回の哲学カフェ研究会では、哲学カフェの元祖ともいうべき団体・カフェフィロさんの説明に倣って、「①ゆっくり考える(いま・ここで)」「②話すよりも、質問する/聴く」「③“わからないこと”にこだわる」「④思いついたコトは、話してみる」という4つのアドバイスを最初に紹介しました。また、誰かの意見が正しい/間違っているという評価合戦に陥らないために、「自分と違う意見を〈否定〉しない」ことを、注意事項として挙げました。

 以上が、哲学カフェについての大まかな説明になります。続いて、我らが彩ふ読書会・哲学カフェ研究会についてご紹介しましょう。

 哲学カフェ研究会は、彩ふ読書会に数多ある読書会以外の活動の場、通称「部活動」の1つで、哲学カフェに強い興味をもったちくわ先生という方が立ち上げました。最初のうちは、メンバーがそれぞれ各地で行われている哲学カフェに参加してレポートを共有するという集まりだったのですが、今年4月から、読書会メンバーを対象にお手製の哲学カフェを開催するようになりました。これまでに扱ったテーマは、「読書」「明らめる」「許す」の3つ。1027日の哲学カフェは、これに続く4回目のお手製哲学カフェでした。

 そして、このほどちくわ先生たっての希望により、哲学カフェ研究会が主催する哲学カフェに外部の方をお呼びすることになりました。この会の開催は1117日の予定ですが、それに先立ち、哲学カフェ研究会は外へのアピールのため名前を改めることになりました。そうしてできたのが、「イロソフィア」という名前です。彩ふ読書会の「いろ」と、哲学を意味する「フィロソフィア」を組み合わせた名前で、もとはちくわ先生が発案したものです。やる気に満ち溢れるとネーミングセンスも抜群になるのですね。ともあれ、1027日の哲学カフェは、「イロソフィア」としての初めての哲学カフェとなりました。

 さらに、もう1つ変更点があります。実はこのほど、ちくわ先生に代わり、僕がイロソフィアの部長を務めることになりました。もっとも、普段は怠けてばかりいて、名誉会長となったちくわ先生の八面六臂の活躍を見守るばかりなので、我ながらこれでいいのかと思ったりもするのですが、ともかく、1027日の哲学カフェでは、僕が進行役を務める形で話し合いを進めました。

 その際、しれっと、自分なりの哲学カフェのイメージを「イロソフィアのこだわり」というタイトルで紹介しました。我ながらイイトコ取り感が否めませんが、哲学カフェをやる/哲学カフェに参加するにあたって、僕なりに大事にしたいと思っていることもあるので、それは素直に出すことにしたのです。その内容は、「①当たり前を見つめ直す」「②新たな気付きを大事にする」「③自分の言葉で話す」「④カッコつけず自然体で」の4つでした。それぞれについて補足したいこともありますが、これ以上前置きを長くするのも考えものですので、ひとまず話を先に進めましょう。

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 1027日の哲学カフェは、大阪・心斎橋の一画にあるレンタルスペースを会場として行いました。ワンルームマンションの一室をそのまま利用したスペースだったので、まるで友だちの家に遊びに来たような感覚で、とてもくつろぎながら話をすることになりました(ワイガヤ具合は、これまでに参加したどの哲学カフェよりも強かったような気がします)。参加者は全部で10名。テーブル・ソファ・テレビなどが一通り揃ったワンルームへ10人もの大人が押しかけたので、そりゃもうぎゅうぎゅうでしたが、たまにはこんなのも悪くないなあという感じでした。

 哲学カフェのテーマは、冒頭にも書いた通り「先入観や思い込みを抱いてしまうのはどうして?」というものでした。問いの形でテーマを出したいという僕のこだわりからこういうタイトルにしましたが、実際には、〈なぜ、先入観や思い込みを抱いてしまうのか〉という問いにこだわらず、先入観・思い込みについて様々な話題が飛び交いました。以前紹介した「ギャップ萌えーギャップ萎え」の話もありましたし(下記参照)、参加者自身が実際に持たれている先入観の話に持ちきりになることもありました。



 本当は、それらの話を余すところなく紹介出来たら一番いいのかもしれません。が、それはどうも僕の手に余ります。進行役といえども一参加者。僕は僕で、新たな気付きを得てそこから考えを深めるので精一杯だったのです。ですので、これも冒頭に書いたことですが、以下では僕が話を聞いていて特に印象に残ったことに絞って話を進めようと思います。なお、イロソフィア名誉会長にしてまとめの達人であるちくわ先生が、当日の話し合いの様子をブログにまとめてくださっていますので、全体の内容が気になる方はぜひそちらをご覧ください。







◆自分自身に対する思い込み

 今回飛び交った数ある話の中でも、僕にとって特に印象深かったのは、「自分に対する思い込みっていうのもありますよね」という話でした。先入観・思い込みというテーマを決めた時から、僕はずっと、周りの誰かが自分に対して抱く先入観・思い込みや、自分が周りの誰か/何かに対して抱くそれらのことばかり考えていました。しかし、先入観・思い込みの中には、「自分はこういう人間だから……」というように、自分に向かうものもある。これは目からウロコの発見でした。

 実際に哲学カフェであったのは、こんな話です。「ある時母親とカフェで話していたら、そこの店員さんに『働きにけーへん?』って誘われて。私全然向いてないと思ったんですけど、やってみたら褒められて、嬉しくって! 自分にはそういう接客の仕事とか向いてないっていう固定観念があったんですけど、人から薦められたら合ってたんですよね。だから、なんていうか、自分自身を思い込みで縛ることがあるのかなあって」この話には、他の参加者もハッとして頷いているように見えました。

 これに続けて「あ、わたし逆で、接客向いてると思ってカフェでバイトしたら、なんかもう全然ダメで」という失敗談も出てきました。「ギャップ萌え(思ってたよりイイ奴だった!)」に「ギャップ萎え(思ってたよりヤな奴だった…)」という対があるように、自分自身への思い込みにも、〈できないと思っていたけれど、意外とできた〉〈できると思っていたけれど、できなかった〉といった様々な方向のものがあることがここからわかります。みんなで考えることの面白さの1つは、こうして話がどんどん立体的になっていくことですね。

 もっとも、僕自身を顧みるなら、前者のほう、つまり〈僕にはできない〉という形で自分自身を縛る思い込みの方が圧倒的に多いような気がします。空気なんて読めない、自分から人を誘うのなんてムリ、要領よくテキパキと物事をこなせる性分じゃない、話を短くまとめるなんてもはや俺じゃない……こうして書き出してみるとますます、自分に対する「これはムリ」「あれはダメ」集はかなり多いんだなあと思います。

 どうして自分を縛ってしまうんだろう。哲学カフェのあとでそんなことを考えてみたのですが、そうやって現状を維持する方がラクだからなのかなあという気がしました。これも色んな理由が絡まっているような気がしますが、とにかく僕は経験のないことに手を出すのをためらいがちなのです。それでいて、しばしば「毎日が平板だ」とつまらながるので始末に負えないわけですが、こんな話はやめておきましょう。

 今回の哲学カフェを振り返るうえで大事なことは、自分で自分を縛っている面はかなりあると気付けたことだと思います。気付くというだけでも、人は案外変われるものです。もしかしたら、自分に制限を設けているだけかもしれない。あんなことやこんなことができないか試してみよう。そんな気分になってくるからです。それに、今できることにしがみつき、できないことにこだわるより、アレやコレはできないだろうかと考える方が、よっぽど気が楽なのです。キュッと縮こまらずに済むからでしょうね。

◆〈わたし〉に対するイメージのずれと、「ジョハリの窓」

 ここで、折角なので、自分自身に対する思い込みの話が、哲学カフェの中でどのような発展を遂げたかについても見ておきましょう。まず、「自分への先入観って、外れていることが多いですよね」という話が出てきます。だから、「他人の話を聴くのが大事ですよね」という話になる。けれども、続いて、でも他人が自分に対して持つイメージも100%当たっているわけではないという話が出てくる。勝手にクールだと思われたり、血液型や星座のイメージを安易に当てはめられたり(出会って間もない頃のコミュニケーションツールとしては有効だけど)するのはやっぱり違う——

 そんなやり取りを聴いているうち、僕は「ジョハリの窓」というものを思い出しました。というより、殆どの方が同じものを思い出したようです。ジョハリの窓とは、下図のような四象限の図のことで、〈わたし〉というものには、「①自分も他人も知っている部分」「②自分は知っているが他人は知らない部分」「③他人は知っているが自分は知らない部分」「④自分も他人も知らない部分」という4つの部分があるということを説明するものです。この図の含意は、②や③の領域、つまり自分と他人のどちらかだけが知っている部分を、①の領域、すなわち自分も他人も知っている部分へと変えていくことで、④の領域、つまり誰も知らなかった新たな自分に到達することができるというところにあるわけですが(図中矢印参照)、ここではさしあたり、②や③の領域にある自分と他人との間にある〈わたし〉のイメージのずれをどんどん減らし、①の領域を広げていくことに目を向けておけばよいでしょう。

ジョハリの窓

 先入観・思い込みが問題になるのは、このように、ワタシとアナタの間に自己イメージをめぐるズレがある時ではないかと僕は思います。「私はあなたが思っているような人じゃない」そんな違和感を解消したくて、僕らは先入観・思い込みというものに悩むことになる。そして、「ワタシって/アナタって、そういう人だったんだ」という、(ひとまずの)共通了解に至ったところで、この悩みは一旦解消することになるのです。もっとも、僕らがみな別個の人間である以上、ワタシとアナタの認識のズレは当たり前に起こることですから、この悩みは尽きることがないのですけどね。

 ところで、これまでの話を踏まえ特に確認しておきたいのは、ここで得られる共通了解は、決して、ワタシが元々抱いていた自己イメージに沿うものではないということです。ワタシの思っていた通りだったということもあれば、アナタが正しかったという話になる場合もある。何しろ、ワタシはワタシで、自分に対する勝手な思い込みを抱いているわけですから。そして、参加者の経験則の教えるところによれば、その思い込みは往々にして間違っているそうですから。

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 さて、書きたいことがもう少し残っているのですが、ここで一旦話を区切ることにします。どうも前置きが長過ぎました。もっとも、長過ぎたと言いながら削らずにアップする辺りが僕ですね。というのも、もしかして思い込みでしょうか。

 次回は、「先入観を取り除くことはできない」という話の振り返りから始め、自分自身の先入観に気付くためにはどうしたらいいかというところへ考えを進めてみたいと思います。どうぞお楽しみに。