書くと予定していたことは色々あるのだけれど、どれにも手をつけないまま僕はぼうっとしている。今週はとにかく書こうという気の起きないまま過ぎてしまった。そうこうしているうちに、次の週末がやって来た。平日は書くことに事欠く僕だが、休日になるとそれなりに色々あるものだ。こうしているうちに、あれも書けない、これも書けないで、また気持ちがいっぱいいっぱいになって、いまに抑えきれなくなって大爆発するやもしれぬ。

 書き出しているものにはけじめをつける。書きたいものは必ず書く。そうでないものは潔くカットする。その方針でいこうと思う。

 こんなことを書いていると、なんだか自分が精気の抜け殻みたいに思えてくるので、やりたいなあと思ったことも書いておこう。いま、森見登美彦の『新釈 走れメロス』という、近代文学を現代の京都を舞台にアレンジした短編作品集を読んでいるのだが、「藪の中」という作品を読み終えたところで、ふと、芥川の短編集か漱石の『夢十夜』を読みたいなあと思った。芥川を読みたくなったのは、完全に「藪の中」の影響であり、『夢十夜』に興味を持ったのは、文庫版『新釈 走れメロス』の解説のタイトルが「夢十夜」だからである。影響を受けやすいことこのうえないが、それも性である。恥じて隠すこともあるまい。

 振り返ってみれば、10月に入ってから読んだものは、殆どが古典もしくは純文学作品である。例えば、坂口安吾の『堕落論』(集英社文庫版)。それから、太宰治の『お伽草紙』。読書会の課題本だった又吉直樹の『劇場』も、傾倒的にはこれらに並ぶように思われる。そういうものを読んでいるうちに、古典も面白そうだなあという気になっていたのは確かである。芥川と『夢十夜』への関心も、その延長線上にあると思えば不思議はない。

 もっとも、この前「これからはエッセイだ」と思ったばかりなのに、今度は「これからは古典だ」である。移り気なことこの上ない。それでどちらもちゃんとやるならまだいいが、結局どちらも牛の歩みになるだろう。やれやれである。まあ、これも性である。呆れていても仕方がない。