昨日の話になるが、いつもお馴染み・彩ふ読書会のメンバーで京都の烏丸御池にある国際マンガミュージアムを訪れたので、そのことを書こうと思う。

 今回のイベントは、鑑賞部と漫画ブ!(どうやらこう書くのが正しいらしい)という2つの部活の合同企画として実施されたものであった。鑑賞部とは、美術館をはじめ、博物館さらには水族館など、およそあらゆる鑑賞を目的に関西一円へお出掛けする部活であり、漫画ブ!とは、その名の通りマンガをこよなく愛する方々の集まりである。国際マンガミュージアムへ行くという企画は、まさにこの2つの部活動の交わるところにあったので、ならばコラボ企画にしてしまおうという話になったようである。

 国際マンガミュージアムには、1年半ほど前に一度行ったことがある。が、なにぶん早足で回ることになってしまったため、もう少しじっくり見てみたいという思いがあった。そして、また行く機会があるなら、是非ともやってみたいことがあった。それは、芝生の上に寝そべってマンガを読むことである。

 ミュージアムは、龍池小学校という学校の跡地をそのまま利用した施設である。そして、かつて校庭であった場所がそっくり芝生になっていて、館内に所蔵しているマンガをそこまで持ち出して読むことができるのだ(ただし、一部例外あり)。前に来たとき、僕は芝生の上でくつろいでマンガを読んでいる人の姿を数多目撃していながら、時間の都合により同じことができなかった。そのリベンジを果たしたいと思っていたのである。

 もっとも、ミュージアムへ行きたいという友だちがいたので、友だちと合わせるか、読書会の企画に乗るかは散々迷った。最終的に、友だちと来るのはまた機会を見てということにし、とにかく今回は目の前の企画に乗ることにした。が、いざ行きたいと申し出てみると、なんとイベント参加申し込みは締め切ったという。出足を鈍らせたバチだと悔いていると、漫画ブ!の長であるフリーアナウンサー氏(たいへんに声が良いことからこの異名を持つ)から、「あ、でも、ちゃんと締め切ったと言わなかったこちらにも落ち度はあるので、ちょっと調整してみますね」とのお話があった。そしてその日のうちに調整がつきましたという連絡があり、かくして僕は飛び込みで参加させていただくことになった。毎度のことながら、読書会の方々の懐の広さに助けられて僕はやっていけている気がする。

◇     ◇     ◇

 10月13日(日)14時、京都市営地下鉄烏丸御池駅の改札口に僕らは終結した。メンバーは全部で9人。その中には、遠路はるばる名古屋からやって来た男性の姿もあった。もっとも、この方は気になるイベントがある度にひょっこり関西までやって来るから、すっかり顔馴染みのベテランになっている。みんなすっかり受け容れているが、僕からしてみれば驚くべきことである。

 ともかく、メンバーが揃ったところで、僕らは動き出した。僕とフリーアナウンサー氏が先頭に立つ形になって、地上へ出る階段をのぼっていく。

「いやあ、楽しみなんですよ、芝生でマンガ読むの。前できなかったんで」

 僕がそんなことを言った時だった。

「それなんですけど、もしかしたら今日できないかもしれないんですよ」

 ……え?

「もしかして、昨日の雨がまだはけてないとかですか?」

 すぐさま台風のことが頭をよぎり、僕は重ねてそう尋ねた。

「いや、なんか、運動会やってるらしくて」

 …………

 運動会?

 マンガミュージアムで運動会??

 あまりに不釣り合いな組み合わせだが、果たしてそれは事実であった。地区の運動会なるイベントが行われているようで、芝生広場はエラい盛り上がりを見せている。「クシコスポスト」や「ウィリアムテル序曲」といったお馴染みの運動会ソングも鳴り響いていた。あとで別のメンバーが言っていたが、烏丸御池一帯はビジネス街である。地区のイベントができるまとまった土地は、旧校庭であるこの芝生くらいなのだろう。

 かくして、今回も芝生ゴロ寝読書は実現しなかった。いっそ近所の河原に寝そべることを考えた方がいいのかもしれない。

 もっともこれは、部活動としても計算外のことだった。ミュージアムに入った後、暫く自由行動をし、それからみんなで芝生に集まって、取ってきたマンガを使って読書会をしよう。そんな腹積もりが、企画者の間でもあったのだという。しかし、運動会が行われていては、読書会のやりようもない。

 ともかく、館内に入った僕らは、16時まで自由行動を取ることになった。そして、再集合した後のことは、その時の状況を見て考えることになった。

◇     ◇     ◇

 京都国際マンガミュージアムの見所について説明するのは容易ではない。主たる展示スペースはあるものの、それ以外の場所、例えば廊下やその天井にも、ミュージアムに所縁のある漫画家の色紙があったり、過去に実施した特別展のポスターが貼ってあったりして、言ってしまえば館内すべてが見るものみたいになっているからだ。おまけに、その廊下の至る所に、数々のマンガを所蔵した本棚が置かれている。これらはとある貸本屋から受け継いだものらしく、店が2005年で閉店してしまったため、それ以前のマンガしか配架されておらず、かつ長編物の場合一部の巻が抜けていることもある。とはいうものの、メジャーなものばかりでなくマイナーな作品まで幾つも並んでいるその棚は、眺めているだけで面白い。おまけに、それらのマンガは自由に手に取り読むことができる。そんなつくりであるから、楽しみ方は百人百様になる。さらに、いま述べた常設展以外に、特別展が同時に2、3行われているので、楽しみ方はますます多様になる。

 そんな中、1年半前も、そして今回も、僕を同じように引き付けた展示がある。それは、日本のマンガの歴史や仕組みを幅広く紹介しているメインの展示室にある、赤塚不二夫のマンガ技法を解説した一連のパネルである。僕らは普段意識しないが、マンガには数々の約束事がある。キャラクターの容姿は統一されていなければならないとか、コマは前から順に進めるものだとか、マンガは絵で表現するものだとか。ところが、赤塚不二夫は、その約束事を敢えて破ってみせることで、マンガの可能性を広げてみせたのだという。劇画タッチの回を設けたり、休載している間に作者がキャラデザを忘れてしまったと書いてみたり、コマが飛び飛びの回を作ってみたり、本来絵があるはずのところに、「太陽」「犬」「バカボン」という文字だけを配置してみせたり。その型破りの数々を見る度に、この人は本当に天才なのだと思う。

 館内を一通り見て回った後で、やっぱり赤塚先生の展示は凄かったと思った僕は、時間の許す限り『天才バカボン』を読むことにした。もっとも、『天才バカボン』を読み出したはずなのに、バカボンやパパの出てくる話は僕が読んでいる間には2話しか出てこず、あとはひたすら、バカ塚なるマンガ家と編集者や弟子入り志願してきた人との間に起きたドタバタ劇の話が続いていた。「主要キャラを出さなきゃいけないなんて誰が決めたのだ?」といわんばかりの構成だった。おまけに書いている話がえぐい。弟子入り志願してきた若い人が「先生に見て欲しくて」と持ってきたネタを作品に盗用した挙句、「あれは自分のオリジナルでお前のアイデアはまだまだだ」と罵り、結果的に若者が先生のもとを去ろうとするので慌てて引き留めようとする話など、今だったら理由はどうあれ書けない気がする。

 感心するやら混乱するやら、とにかく凄いものを見たという気分になったところで、16時は呆気なくやって来た。『天才バカボン』はメインの展示室から持ち出せないようだったので、僕は手ぶらで集合場所へ向かった。

◇     ◇     ◇

 16時には運動会は終わっていたが、芝生広場はそのまま打ち上げ会場になるらしく、やっぱり立ち入ることはできなかった。が、芝生広場を取り囲むウッドデッキや階段部分なら立ち入ってもいいとのことだった。おまけに、ちょうどタイミング良くテーブル席が1つ空いたので、僕らはその席を確保して、それぞれ見てきた展示の内容や取ってきた作品について色々と話し合った。

 その内容をここに全て書き出すのは難しいので、特に印象的だった本のことだけ書き留めておこうと思う。それは、京都サポーターの女性がどうしても紹介したいと持ってきた『藤子不二雄SF短編集』という本である。わけても「ミノタウロスの皿」という作品を巡って話は盛り上がった。宇宙の中にある、牛が支配者で人間が家畜という星。そこへ漂流した地球人の男が、星の支配者の晩餐会にごちそうとして出された女性・ミノアに惚れてしまい、救出しようとするという話である。男が幾ら説得しようとしても、ミノアは、家畜が主人に食べられるのは当然のことであり、支配階級のごちそうになるのは名誉なことだと言ってきかない。「言葉は通じるけれど話は通じない」男はそんなことを思いながら何度も説得を試み、最後の説得で、「食べられるのは怖い」というミノアの本音を聞き出す。しかし、ミノアはそれでも、名誉を失うことの方が怖いと、食されることを選ぶ。

 「言葉は通じるけれど話は通じない」という男の台詞には、「わかる」「深い」という驚嘆の言葉が相次いだ。僕もまた、こんな表現の仕方があったのかと度肝を抜かれる思いがした。また、己の率直な感情を吐露しつつも最終的に名誉を選ぶミノアの姿には、名誉の戦死を説き続けた戦争に対する批判が見て取れるという意見があった。僕もそうだろうと思いつつ、同時に、強迫的な指導・命令の存在をともかくとすれば、感情から目を背け世間の評判やわかりやすい名誉に明け暮れる人の姿は、戦時中も現代もそう変わらないだろうなあという気がした。とにかく、冷徹といっていいほどの人間に対する深い洞察なしに生まれ得ない作品であることは間違いなく、僕はもはや言葉を失って呆然とするしかなかった。

 その他にも、幾つか気になる作品があり、パラパラめくってみたが、どうやらこれはちゃんと読むに如くはないという気がするので、下手に感想をぶちまけるのはやめておこうと思う。

 その他、『聖闘士星矢』や『ガラスの仮面』の話などで盛り上がっているうちに、時間は17時半となり、閉館時間も間近に迫った。おまけに随分肌寒くなってきたので、外で座って喋ってはいられないということになり、僕らは帰り支度にかかった。運動会の打ち上げはまだ始まったばかりという感じだった。寒くないのだろうかとふと心配になった。

◇     ◇     ◇

 ミュージアムを出た後、僕らは近くのカフェに入って四方山話を続けた。さらにその後、晩ご飯を食べたいメンバーだけ残って、別の店でもう暫く喋り続けもした。が、ここからは内輪話が殆どなので、書き留めるのは控えておこうと思う。というわけで、以上をもって、京都国際マンガミュージアムツアーの記録を締めくくろうと思う。





★おまけ~ひじきの六角堂探訪記~

 烏丸御池駅での集合に先立つこと20分。昼食のタイミングも考え少し早めに京都入りしていた僕は、スキマ時間を利用して、前から行ってみたいと思っていた六角堂というお寺を訪れた。このくだりは僕個人の放浪記になるが、折角なので書き留めておく。

 六角堂——正式には紫雲山頂法寺という——ここを訪れたいと思っていたのは、森見登美彦さんの小説『有頂天家族』の舞台だからである。『有頂天家族』については、6月に僕のたっての希望で課題本に取り上げていただいたので、詳しいことはその時の振り返り記事を読んでいただきたいのだが、要は、下鴨神社に棲む狸の四兄弟を中心に、狸と天狗と人間が京都の街を舞台に繰り広げる三つ巴の日々を描いた、しっちゃかめっちゃかコメディーである。六角堂はその中に、京都一円の狸の頭領“偽右衛門”の立候補の受け付けと、“偽右衛門”選挙の日取りを決める大事な会議の場所として登場する。もっとも、大事な会議と言っても、儀式的に重要という程度の話で、集まった狸たちが幾らガヤガヤしていようと、進行役は飄々と「異議なしと認めます」なんて言ってるから、会議そのものは無茶苦茶である。

 その六角堂は、遥か聖徳太子の時代に起源をもつ由緒のあるお寺であった。親鸞が浄土真宗の開宗を思い立ったのもここだという。そんな場所で狸たちが中身があるのかないのかわからない会議を開いていたのだと思うとおかしい気がするし、また、その六角堂の屋根の上から有象無象の狸どもを睥睨していた弁天さま(『有頂天家族』の登場人物の1人)はやはり神仏をも恐れぬ半天狗なのだろうという気がする。もっとも、六角堂は中世の頃、一帯の町人の会合の場所として使われていたそうだから、会議のほうはやっぱりわからんでもないという感じもする。

 決して広いお寺ではなく、本堂の他に小さなお堂が3つばかりあり、その真ん中に十六羅漢の並んだ池があるというこぢんまりとしたところだった。池のほとりにある十六羅漢の説明を読むと、「この羅漢様は『和顔愛語』を実践されいつも『にこにこ』されています」とあった。「和顔愛語」というのは、「いつも優しい顔つきで、穏やかに話しをするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがある」という意味だそうであるが、それよりなにより、羅漢様の表情を「にこにこ」と説明しているのがおかしかった。こういうほんわかとした優しい言葉遣いを見ていると、森見先生ぽい感じがする。もっとも、森見先生は狸の毛並みを表現するために、「ふわふわ」でも「ふかふか」でもない「ふはふは」という言葉を新しく作ってしまうような方だから、羅漢様の表情も安直に「にこにこ」とは書かないかもしれない。が、まあそんな細かいことはどうでもいい。要はイメージである。

 そうそう、へそ石のことも忘れてはならない。へそ石というのは、六角堂本堂の手前にある六角形の石で、ちょうど京都の中心に当たる場所にあることから、要石あるいはへそ石と呼ばれていたらしい。『有頂天家族』の中では、へそ石はへそ石様という大狸の化け姿ということになっており、件の会議の日には開会にあたり必ずへそ石様の言葉が読み上げられることになっている。人間と狸が同じ場所に集いながら違うものを拝んでいるというのは、これまた面白い気がする。へそ石様は、幾種類かの木々に囲まれて静かに鎮座しましている様子であった。

 滞在時間は10分程度に過ぎなかったように思うが、なかなか行けず仕舞いになっていた六角堂を訪れ、由緒や歴史を踏まえながら『有頂天家族』を読み解き直すのは、とても楽しい時間だった。

 さて、これから僕がなすべきことは1つである。国際マンガミュージアムのみならず、六角堂にも勝手にふらりと出掛けてしまった今、どちらも行きたいと言っていた友だちにどう釈明を試みるか、それを考えることだ。