台風19号が日本に接近してきた。もっとも、当初の予報よりいくらか南に逸れたのであろう、阪神地区の某小都市で独房に引きこもっていた僕は、全くと言っていいほど身の危険を感じることなく今日という日を終えた。時折物凄い風が吹き抜けていく音がしたが、何かが飛んでくるということはなかったし、外を覗いてみても何かが飛んでいるという気配はなかった。雨に至っては台風でない時の方が激しいくらいのものだった。

 それでも、今日は1日動かないほうがいいだろうと思っていたので、ずっと独房にいた。飲食料品もしっかり買い込んでいたので、何も困ることはなかった。そして、逆に時間はたっぷりあったので、本を読み、飽いては室内をフラフラし、食事を摂り、グループラインでアンケートを作り、寝、寝てしまったとツイートし、本を読み、飽いてはベッドに身を横たえてぼーっとするという、実にダラダラとした過ごし方をしていた。

 その中で次のようなことがあった。ツイッターのタイムラインを眺めていると、男子マラソン世界記録保持者のキプチョゲがフルマラソン2時間切りにちょうど挑戦しているところだという情報が入った。おまけにユーチューブで中継しているという。凄い期待に押されて、僕はライブ中継を見た。

 このチャレンジはレースではなく、万全のコース・気象条件を整え、数十名のペースメーカーをつけて、とにかく記録を出そうというものであった。僕が見始めたのはチャレンジも30㎞を過ぎた頃であったが、果たしてゴール予想タイムは1時間5950秒となっていた。キプチョゲはペースメーカーに囲まれて、1250秒のペースを綺麗に刻んでいた。このペースを全く乱すことなく42㎞走ろうとしていることなど、常人の僕からすれば既に意味不明の事態に違いなかったが、見ている時はそんなことなど忘れて、このペースで行けば記録は必ず出ると興奮していた。

 本当に驚くべきことに、キプチョゲのペースはずっと安定して1キロ250秒のままだった。そして、ラスト1㎞地点でペースメーカーが離れた後、キプチョゲはさらに加速し、指を立て、顔を覆い、それから両手を広げて、堂々のゴールを決めた。1時間5940秒——非公認ではあるものの、人類が初めてフルマラソン2時間を切った。僕は画面越しに興奮のあまり拍手をし、ゴールの瞬間には机をバンバン叩いた。

 そして、興奮状態のまま、ツイッターを開き、すげえすげえと書き込んだ。

 その時、僕の目に入ってきたのは、これから台風が上陸しようとしている関東で、既に河川が氾濫に近い状態にあることを伝える動画であり、各種の避難勧告であり、また、既に一部の避難所は定員に達したため、会社施設などを開放して避難者を受け容れているという情報であった。僕は自分の興奮がひどく場違いであるように思えて、気持ちの整理が追い付かなくなった。

 さらにその時、窓の外を見ると、雲が一様にオレンジ色を帯びており、西の空では僅かに雲間が切れていた。台風はもう、この辺りからすっかり引こうとしているようだった。これから関東の近くに台風が上陸し、雨風が本格的に激しくなろうとしている時に、自分がそんなものを見ているのがなんだか不思議で、ますます気持ちが混乱した。

 もちろん、僕は僕であればいいわけで、結局それほど大きな影響のなかった関西の某小都市にいて、フルマラソン2時間切りの興奮に身を委ねていて何の問題もないはずである。とはいうものの、台風の来襲に備えこれだけの情報が出回っている中で、関東は大丈夫だろうかということを一顧だにせずいるのは、なんだか薄情のようにも思えた。しばし悶々とした挙句、でもどうしろっていうのさと思いながら、僕はまた僕の日常に帰っていく。それでも、明日の朝が来たときに、今回は備えが活きたという話になればいいなと思う。

(翌13日朝追記)

 朝起きてみると、各地で大規模な冠水被害があったという。堤防が決壊したところもあったそうだ。一刻も早い事態の落ち着き、そして復旧を願うばかりである。