昨日に引き続き、9月6日に参加した園田哲学BARのことを振り返ろうと思います。今回のテーマは、「ケッとおもうこと」です。前編に当たる昨日の記事では、この風変わりなテーマを巡る話し合いがどのように始まったかをご紹介したうえで、「ケッ」という感覚を4つのポイントから解きほぐしてみました。いま一度確認すると、その4つのポイントとは、①「ケッ」という感覚の核にあるのは、怒りに似た攻撃的な感情である、②もっともそれは、些細な事に対してのみ向けられる軽い感情である、③それは反射的に生まれる感情である、④それでいて、表に出ることのない感情である、というものでした(この分析の詳細については、下記リンクをご参照ください)。



 さて、この記事では、以上のポイントを踏まえつつ、「ケッ」という感情にまつわるある事例を読み解いていきたいと思います。これは必ずしも「ケッ」という感情全体を代表する事例ではありません。ただ、僕がこの事例に強く興味を持ち、そこから色んな考えが浮かんだので、特に丁寧に取り上げてみたいと思うのです。以下では、まず事例の紹介をしつつ、この事例を巡って哲学BAR当日にどんな話が展開したのかをみていきます。そのうえで、続けて僕自身の考察を書き綴ることにしましょう。

◆自分よりも知識のない者が楽しそうに話していると「ケッ」と思う

 その事例を紹介してくださったのは、「ケッとおもうこと」というテーマを提案した方でした。この方は「ケッ」という感情を抱いてしまう自分に対してモヤモヤした思いを抱いており、それがためにこのテーマを提案していました。そして、このモヤモヤを説明するに当たって、次の事例を紹介されたのです。

 ある時カフェでくつろいでいると、近くのテーブルで何人かが話をしている。耳をそばだててみると、自分がレベル10くらいの知識を持っていることについて、レベル3程度の人間がレベル2くらいの人相手に講釈を垂れている。そんな時、この方は「ケッ」と思うのだそうです。もっとも、常に「ケッ」と思うわけではないといいます。「ケッ」と思うのは、向こうのテーブルの人たちが楽しそうにしている時だけ。そうでもないときは「へッ」と思うのだそうです。

 この方の話には続きがあるのですが、ひとまずここで、上の事例で出てくる「ケッ」という感情を分析してみることにしましょう。この「ケッ」を読み解くポイントは2つあります。1つは、自分よりも知識の低い人間に向けられる感情であるということ。そしてもう1つは、相手が楽しそうにしている時に限り出てくる感情だということです。

 まず、①「ケッ」という感情が自分よりも知識の低い人間に向けられていることに注目してみましょう。ここから見えてくるのは、この感情が自分よりも格下の人間に向けられるという事実です。哲学BARの中では、それはある種のマウンティングではないかという指摘がありました。相手に対する見下しの感情が「ケッ」には込められうるということです。

 しかし、上の事例にはもう1つ興味深い点があります。それは、②相手が楽しそうにしている時に限り「ケッ」という感情が芽生えるという点です。ここから伺えるのは、その人はただ相手を軽蔑しているだけではなく、楽しそうにおしゃべりしているその輪に入りたいと思っている、そして、入れないでいることに対して寂しさや惨めさを覚えているということではないでしょうか。この人は見下している相手を同時に羨んでもいるのです。すなわち、ここでの「ケッ」という感情には、マウンティングとは別に、嫉妬の意味合いが込められていると見ることができるでしょう。

 マウンティングや嫉妬は、それ単独でも「ケッ」という感情を成り立たせる可能性が大いにあります。例えば、前編の中で挙げた「話し合いの最中にくだらない話を延々とやっているヤツを見ていると『ケッ』と思う」という事例は一種のマウンティングとみることができます。また、「仕事について楽しそうに語る人を見ていると、自分はなんでああなれないんだろうと『ケッ』と思う」という例が話し合いの中で出てきたのですが、これは嫉妬が「ケッ」に結びつく典型的な事例だと言えます。しかし、その上でなお、マウンティングと嫉妬が複雑にもつれ合っているカフェの事例は、たいへんに興味深いと僕は思います。

◆「ケッ」と思うことへの罪悪感

 前の節のはじめの方で、「ケッとおもうこと」というテーマを提案した方は、「ケッ」と思ってしまうことに対してモヤモヤした感情を抱いていたと話しました。このモヤモヤ感というのは、端的に言えば罪悪感のことです。先の例を出した方はこう語っています。

「僕はケッて思ったあとに、必ず罪悪感がやってくるんですよね。『こんなことでケッて思うなんて、自分はなんて小さいんだ』と思ってしまうんです」

 相手を見下したり、相手に嫉妬してしまったりするのは良くないことだ。それはわかっているけれど、「ケッ」という感情を抑えることがどうしてもできない。そんな時、「ケッ」と思ってしまったことへの罪悪感と、そんな感情を抱いてしまう自分に対する嫌悪感が同時にやってくる——この方が言おうとしたのは、おおよそこのようなことだと思います。

 さらに、この罪悪感は、「ケッ」というのが軽い感情であることとも関わっているとこの方は言います。むしろ、通りすがりの人に対して覚えるような軽い感情であるからこそ、その人に対してわざわざ「ケッ」と思ってしまうことが申し訳なく感じられるのだそうです。感情が軽いゆえに罪悪感が重くなる、と言ってもいいでしょう。いずれにせよ、「ケッ」はその感情を抱く当人にとっても負の感情であるということがここから伺えます。であるならば、どうすればこの負の感情、ひいては「ケッ」という感情そのものから距離を取れるかというのが、1つ大きな問題になってくるように思います。

◆“巻き込まれの感情”としての「ケッ」

 さて、「ケッ」と思うことへの罪悪感を掘り下げるところから、「ケッ」というのは軽い感情であるということが再び話題にのぼるようになりました。以下ではこの話を導き手として、先のまとめとはまた違った観点から、「ケッ」とはどのような感情であるかということを考えてみたいと思います。結論から述べると、ここでのキーワードは“巻き込まれの感情”です。

 上でも見たように、「ケッ」というのは、通りすがりの他人やごく些細な出来事に対して湧き起こる感情です。そして、ゆえに抱かずに済むにもかかわらず「ケッ」と思ってしまうことが、罪悪感の根底にありました。この抱かなくてもいいのについ抱いてしまうという特徴を掬い上げてみるに、「ケッ」というのは、うっかり何かに巻き込まれた時に抱く感情だということができると僕は思います。

 ところで、この“巻き込まれ”を巡って、哲学BARの中でちょっと面白いことが見えてきました。それは、僕らはただ運悪くイヤな事態に巻き込まれてばかりいるわけではなく、しばしば、自ら進んでイヤなものに巻き込まれに行ってしまうことがある、ということです。

 「図書館の中で騒がしいヤツらに出くわした」「満員電車の中で通話しているヤツの声が聞こえてきた」これらは迷惑な人や出来事に不本意に巻き込まれた状態ということができるでしょう。しかし中には、イヤな出来事にわざわざ意識を向けてしまう人というのもいるのです。その典型例として挙がったのが、「インスタで自慢げな投稿をするヤツのアカウントをわざわざ覗きにいってしまう」という行動でした。なんとも馬鹿馬鹿しい行動なのですが、ついやってしまうという方がいました。おそらく、本人も馬鹿馬鹿しいと思いながらやめられないのでしょう。

 人はただ受け身でイヤなものに巻き込まれてるばかりでなく、どういうわけか、自らイヤなものに巻き込まれていってしまうことがある。そのように見ていくと、とかくに「ケッ」というのは複雑で奥の深い感情だという気がしてきます。

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 哲学BARの振り返りは以上で終了したいと思います。最後に、以上の議論を踏まえ、「ケッ」を巡り僕がその後考えたことを書き綴ることにしましょう。

◆なぜ、あの人のことが気になってしまうのか?

 振り返りの最後に記したように、僕は「ケッ」を“巻き込まれの感覚”として捉えています。この“巻き込まれ”には、改札のゲートがタイミング悪く閉まったというような、純粋にイヤな出来事に巻き込まれたというケースも含まれるわけですが、僕はやはり、人に対して向けられる「ケッ」に強い興味を覚えます。さて、ある人の言動に対し「ケッ」と思ってしまうのは、その人が何らかの理由で気になるからということになります。そこでまず、〈なぜ、あの人のことが気になってしまうのか?〉ということを、「ケッ」という感情に即して考えてみることにしましょう。

 まず考えられる理由として、〈その人の規範意識や正義感が強いから〉というものがあります。これは特に、図書館の中で騒ぐ人や電車の中で通話する人など、マナー違反の人に対して「ケッ」と思っている人に当てはまると考えられます。当日の参加者の一人で、このブログでもお馴染みの哲学カフェマスターであるちくわさんは、この〈規範意識〉が「ケッ」という感情を引き起こしやすくする1つの大きな要因ではないかと分析しています(詳しくは下記リンク参照)。



 次に、〈自分はあんなヤツじゃないと確かめたいから〉という理由が考えられます。これは先に詳しく見たマウンティングに対応しています。知識量・道徳心・読空術など何らかの点で自分より劣る者を見下し、軽蔑する感情としての「ケッ」。それは、自分はアイツと同じレベルじゃないということを確かめるという意味が多分に籠められた感情だと僕は思います。振り返りの最後に登場した、インスタで自慢げな投稿をするアカウントをわざわざ覗いてしまう例は、まさに“そんな自慢はしない自分”を確かめるための行動と言えるでしょう。

 もう1つ、〈劣等感にまみれる自分を救い出したいから〉という理由も考えられそうです。劣等感を抱いている人は、とかく他人と自分を比較してしまう傾向があるように思います。そして、往々にして、自分よりも優れた人を見つけてしまいます(“劣等感”を抱いているわけですから、ある意味当然の帰結でしょう)。自分よりも仕事ができる人だったり、楽しそうにしている人だったり、どんな人を羨むかは人それぞれでしょうが、とにかく、劣等感を抱いているその人にとって、こうした優れた人はつい意識してしまうものであり、同時に、目を背けたい対象でもあるでしょう。自分をますますみっともない奴だと思う前に、そんな人たちから距離を取るべく、「ケッ」という感情が生まれてくる。その可能性は十分あると思います。

 ある人が気になってしまう理由、そしてその人を「ケッ」と思ってしまう理由については、他にも考えられるかもしれませんが、僕が思い付いたのは上の3つでした。そして、これらの中でもとりわけ僕の関心を惹いたのはやはり、下の2つ、つまりマウンティングと嫉妬に対応するものでした。そこで最後に、マウンティングと嫉妬をつなぐ感情へとさらに考察を進めたうえで、今回のテーマである「ケッ」という感情にどのように対処すればよいかについて、僕の現時点での結論を示したいと思います。

◆人間に優劣をつけたがる心性と「ケッ」

 マウンティングであれ嫉妬であれ、共通していえることは、ワタシとアナタの違いを優劣へと読み替えているということです。ワタシとアナタの間に違いがあるというのは当然のことですが、この違いというのは本来“ただ違う”という以上の意味を持っていないはずです。勉強はできるけどスポーツは苦手、勉強は苦手だけれどスポーツは得意。それらは単なる横並びの差異にすぎません。ところが、人というのは往々にして、横並びでしかない差異を序列化し、どちらがより優れているかを問題にしたがります。この傾向は程度の差はあれ誰にでもあるものですし、上手く活用すれば自分に足りないものを互いに補い合うための知恵にもなります。が、中には、人の序列・優劣というものに異様にこだわり、人より劣っていることが我慢ならず、何が何でも上に立ちたいという人もいます。ここにマウンティングや嫉妬の契機があると考えられます。

 では、どういう人が序列・優劣にこだわりやすいのか。ありきたりな見解かもしれませんが、ここで登場するのは、〈自信のなさ〉あるいは〈自己肯定感の低さ〉ではないかと思います。自分に自信が持てないから、自分で自分を認められないから、他人と比較してより優れている点を見出すことで、なんとか自分を保とうとする。あるいは逆に、自分より優れている人を見た場合に、それを自分という存在を脅かす脅威と捉え、遠ざけようとしたり、相手を自分の側へ引きずり降ろそうとしたりする。その時に現れるのが「ケッ」という感情なのではないかと、僕は思います。

 もっとも、既にみたように、「ケッ」という感情はしばしば、それを抱いてしまった人自身に、みっともないという感覚や罪悪感を抱かせてしまうことがあります。そんな時、彼/彼女はできることならこの「ケッ」という感情から距離を取りたいと考えているに違いありません。では、そのためにはどうしたらいいのでしょう。

 これまで述べてきたことを踏まえれば、この問いに対する答えは、〈他人との比較によらない方法で自分に自信をつける〉というものになります。もっとも、じゃあどうすれば自信が持てるようになるのかが問題だということは言うまでもありません。これは非常に難しい問題で、答えるのは容易ではありません。それを承知の上で、僕の経験から答えを出してみるならば、まず、自分自身を落ち着いて振り返ることから始めるのが良いのではないかと思います。

 僕の場合は完全にこれが当てはまるのですが、自分に自信がなかった頃の僕は、そもそも自分がどんな人なのかよく分かっていませんでした。自分は日々どんなことを思い考えているのか、どんな価値観を持っているのか、その価値観を裏切るようなどんな心の動きを示しているのか。得意なことは何で、苦手なことは何なのか。将来どんな風に生きたいと思っているのか、ずっと続けていきたいと思うことは何か。そういったことが、全く見えていませんでした。

 ついでに言うと、当時の僕は、自分が見えていないことを棚上げにして、自分以外の全てを見下し、「あーあ、世の中つまらない」と憂えていました。当然のことながら、こんなド阿呆をマトモに取り合ってくれる人がいるわけもなく、ゆえに僕は常に寂しさを抱えていたように思います。が、その頃の僕は自分が寂しいと思っていることにすら気が付かず、自分を受け止めてくれる人がいないと不平不満を並べ立てては、あいつらみんなしょうもないとまた軽蔑を繰り返すのでした。

 この記事のはじめに、自分より知識のない人間が楽しそうに話している様子を見て「ケッ」と思う例が一番印象的だったということを書きました。思えばそれは、この事例の中に昔の僕がいたからのような気がします。この事例の最大のポイントは、「ケッ」という感情の背後で、マウンティング(知識のない人を見下すこと)と嫉妬(楽しそうに話す人たちを羨むこと)という2つの感情が複雑にもつれ合っていることにあります。それは、自分以外のあらゆるものを見下してすっかり孤独になってしまい、本当は人一倍寂しいのにそう思っていることにも気付けず、ただひたすらこの世の退屈さを嘆いていた昔の僕の内面そのものなのです。

 そんな自分が変わるきっかけになったのは、ある時輪読の授業のために書いた1本の読書レポートでした。そのレポートを書く時、僕は初めて、文章に自分の率直な思いを乗せるという経験をしました(それまでの僕は、誰よりもエラい人間であるために、立派そうな御託を並べることに終始していたんですね)。そしてそのレポートが、輪読の受講者から高く評価されたのです。素直な思いを書けばちゃんと人に伝わること、人の気持ちを揺さぶることさえできることを、僕はその時確かに感じました。そして、それから、僕は自分がどんなことを日々感じ考えているかを、愚直に(この表現が僕には一番しっくりきます)振り返るようになりました。不思議なことなのですが、このように自分を確かめるプロセスと並行する形で、僕のマウンティング癖は多少なりとも緩和していきました。自分の輪郭を掴んだことで、自分を認めることができたのだと思います。

 あらら、ついつい自分の経験を長々と語ってしまいました。要点を整理しておきましょう。ここでまず確認したかったことは、「ケッ」という感情の中には、人間に優劣をつけたがる心性と絡んでいるものがあること、そして、そのような心性をみっともないと感じる人にとっては、「ケッ」という感情はそれ自体心苦しいものであるということです。そして、「ケッ」という感情から上手く距離を取るためにはどうすればよいかを考えるために、人間に優劣をつけたがる心性の背景に何があるのかを考え、そこから何らかの解決策を導き出そうとすることが、僕の狙いでした。今現在の僕の結論を再度書き出すならば、他人との比較によらず自分を認めるために、まず自分自身をよく振り返ること、それも自分の感じ方・考え方を愚直に認めていくこと、それがひいては、罪悪感にまみれた「ケッ」から距離を取ることにつながるのではないか、というものになります。当否のほどはわかりません。ただ、僕が僕なりに愚直に考えた結果ですから、これはこれでいいのだということにしたいと思います。

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 といったところで、園田哲学BAR「ケッとおもうこと」の振り返りを締めくくりたいと思います。ここまでお読みくださった皆さま、本当にありがとうございました。