昨日に引き続き、8月24日に大阪で開催された、彩ふ読書会・哲学カフェ研究会の部活動の振り返りをお送りしたいと思います。今回の哲学カフェのテーマは「許す」。昨日の記事では、哲学カフェの前半戦をなぞる形で、「許せないのは悪いことか?」「〈許せない〉と〈怒る〉は違うのか?」「つまるところ、〈許す〉とはどういうことか?」という3つの話題を取り上げました。この記事では、後半戦の振り返りへと話を進めていこうと思います。さらに、それに続けて、今回の哲学カフェを振り返って、僕がさらに考えたことについて書き留めておこうと思います。

 なお、今回の哲学カフェの概要や、そもそも哲学カフェとは何かについては、昨日の記事で詳しく書いていますので、そちらをご覧ください。



◇     ◇     ◇

◆「自分を許す/自分を許せない」ということ

「ここまで他人を許せないっていう話が続いてたと思うんですけど」後半戦が始まって最初に手を挙げた参加者はそう言って話し始めました。「私が始まる前に考えていたのは、〈自分を許す〉とか〈許さない〉ってことなんですよね」。

 話を聞いた瞬間「あー!!」と思いました。自分を許せなくなること、僕は時々あるんですけれど、この話が出るまですっかり忘れてしまっていました。

 その後、色んな参加者が食い付く形で、〈自分を許す/許さない〉の話は膨らんでいきました。まず、どうして自分を許せないのかということが話題になりました。なんだかカッコ悪い、良い人じゃないみたい……自分の嫌いな部分が見えてそんな感情を抱いてしまうと、自分を許せなくなるのでは、という話が出ました。そこから、それは、もっとこうありたいと思い描く〈理想の自分〉との落差から生じる感情なんじゃないかという話も出てきました。「他人の目を気にし過ぎなんじゃないですか?」という意見もあったのですが、他人にどう見られるかによらず自分がこうありたいと思う姿との間にギャップが生じることがある、という方向に話は進んでいきました。

 人は誰しも、〈理想の自分〉を思い描き、それと〈現実の自分〉を引き比べて、ギャップを感じ、時に葛藤するのだと僕は思います。葛藤が始まってしまえば、自分を許せなくなることも出てくるでしょう。では、自分を許すためにはどうしたらいいのでしょうか。

 この点を巡って、哲学カフェでは対極的な2つの意見が出てきました。1つ目の意見は、どんなにギャップが大きくても、その隔たりを認め、手放すというものです。言い換えれば、自分に対して健全なあきらめをもつ、ということができるでしょう。それに対し、2つ目の意見は、ギャップがあったらどんなにしんどくても埋めるというものです。自分に厳しく、理想を追い求めるといったところでしょうか。個人的には、前者の方法で自分を許す人が多い気がします。はんたいに、後者の方法を採れる人は強い人だなあと思います。

◆「自分を許す」と「他人を許す」はつながるか?

 〈理想の自分〉と〈現実の自分〉のギャップから自分を許せなくなることがある、という話が出たところで、このモデルは、他人を許す/許せないという話にも応用できるのではないか、という意見が出ました。確かに、他人に対して理想を抱いていて、その理想と現実とのギャップから、その人のことを許せなくなる、ということはありそうです。更に、これは僕の妄想ですが、自分にも他人にも〈人間かくあるべき〉という1つの理想を押し付けてしまう人がいたら、その理想に対するギャップによって、自分も他人も許せなくなる、なんてこともあるかもしれません。

 では、今回参加した方々はどうだったのでしょう。彼/彼女らの中で、自分を許すことと、他人を許すこととは、つながっているのでしょうか。それとも切れているのでしょうか。

 結論から言うと、その時出てきた意見は、両者は別物というものでした。「自分は理想に辿り着こうとするけれど、他人はそこに行き着かなくてもいい」「他人には理想や期待はあまり抱いていない」そんな意見が出てきました。

 ここでも、カギを握っているのは〈自分と他人は別個の存在で、生き方や価値観は人それぞれ〉というドライな認識をどこまで引き受けられるか、ということであるように僕には思えました。他人には他人の生き方があり、どう生きようが自由であるということ。自分は他人をわかりえないし、はんたいに他人も自分をわかってくれはしないのだということ。それらを了解できた人は、他人に過度な理想や期待を抱くことがなく、結果的に、他人を許す/許さないという問題も生じないのでしょう。

 さて、このように他人に理想や期待を抱かないことが話題になったところで、ある参加者から、「数年前まで、他人に対する理想が高かったんですけど」という話が出てきました。先に話していた参加者は、それを聞いて「フフフ」と笑いながら、「やっぱり社会人になって仕事の経験を積めば積むほど、自分と他人は違うってことがわかってくるんじゃないかなあ」と言っていました。自分と他人とは同じようには行動できない。そう気づくと、だんだん人を責めなくなるのだそうです。「事象を責めても人は責めない」という印象的なフレーズも出てきました。社会人3年目の僕にとって、その言葉は、これから自分が向かうべき境地を示しているように思えました。

◇     ◇     ◇

 今回の哲学カフェの振り返りは以上になります。最後に、今回の哲学カフェを踏まえて、僕がさらに考えを深めたことを2点書き留めておこうと思います。

◆価値観の違いを認めるということ

 今回の哲学カフェ「許す」の中で、最も重要なポイントになっていたのは、〈人の価値観はそれぞれ違うということを引き受けられるか〉だったように思います。このことを引き受けられる人は、他人が自分の思い描いた行動をしてくれなくても、自分のことをわかってくれなくても、仕方のないことだと割り切ることができるのです。そして、時に思いがけないことをする他人を、それでも許すことができる。いや、そもそも、許す/許さないという評価軸では人を見ないのかもしれません。いずれにせよ、心の底から許せないことというのは、滅多なことがない限り出てこないでしょう。

 一方、人はそれぞれ違うということを引き受けられない人は、他人の思いがけない言動を許すことができない。「なんでそんなことするの!?」という憤りが、許せないという思いと結びつき、長く尾を引くことになってしまうのでしょう。

 人と人は違うのだということ、両者は容易にわかりあえるような間柄ではないこと、それらを了解することが、許すための、或いは寛容になるための鍵である。これが僕の今回の一番の気付きでした。

 もっとも、僕はこのことをまだ理屈の上で受け取ったに過ぎません。この考えがきちんと心にまで降りてきて、自分の自然な所作に乗り移るまでには、まだ相当の時間と経験が必要なのだろうという気がします。

 人はお互いにわかりあえるという理想は、一見美しいけれど、その実「ああわかるよ、こういうことでしょう」と言いながら、人の心を土足で踏み荒らすような不躾さを伴いかねない。その不躾さを気味悪がり、ギトギトした理想論にNO!を叩きつけた人は、これまで僕の出会った人の中にも少なからず存在しました。僕自身、人から「あなたはこういう人だもんね」と勝手に決めつけられることのしんどさに気付いてからは、「人のことをわかろうなんて簡単に思っちゃいけないんだ」と思うようになりました。しかし、それでも、僕はまだまだ人のことを知り尽くそうとして、勝手な深読みを繰り返してしまう。わからないことをわからないまま据え置くことに耐えられず、割り切れる答えを探してしまう。

 価値観の違いに動揺することだって、まだまだ少なくありません。何気ない会話をしているうちに、「そんな風に考えてたの!?」と驚き、どうしよう、いまここで何て言ったらいいんだろう、と思うことだってザラにあります。

 早い話まだまだなんだと思います。とはいうものの、拙速に学んだ通りのことを実践しようとは思いません。そんなこと試みたって、三日持てばいい方です。目指す地点が見えた、そう思い、のんびりやっていこうと思います。辿り着けなくても自分を許してやろうかな、なんて都合の良いことも考えながら——

◆いま、僕が「許せない」と感じることは何か?

 「怒る」と「許せない」は違う、これも大きな発見でした。そこで、哲学カフェが終わった後、僕は改めて「怒る」と「許せない」を切り離しながら、いま自分が「許せない」と感じることは、もっと具体的にどういうことか、考えてみることにしました。

 自分を振り返ってみると、結局、怒りと「許さない」は結びつくというところに落ち着きました。もっとも、「許さない」に結びつくのは、あくまで怒りの一部だという風に考えを進めることはできました。確かに、怒りと「許さない」が結びつくこともある。けれども、多くの場合、怒りはただの怒りで終わってしまうのです。例えば、一緒に何かをやっていた人がうっかりミスしてしまったとしましょう。腹は立つかもしれませんが、たぶんすぐ許せると思います。殆どの「怒り」は、こんな風にしてその場で消えてくれるに違いありません。

 では、怒りが収まらず、「許さない」にまで達してしまうのはどんな場合か。僕の結論はこうです。

 〈自分が何も手を下せない状況で、他人の掌の上で踊らされるのは許せない〉

 自分は何も知らされないまま、周りの人間に何かを仕掛けられ、術中にかかったところを笑われる、こういうのはホントに許せないなと思います。正直な話、過去数年遡って根に持っていることだってなくはないのです。そんな昔のことになると、仕掛けた相手に会うことも二度とないでしょうから、円満解決もおそらく望めないでしょう(まあ僕も望んじゃいませんが)。ですから、忘れることで許すしかないんだろうなあと思います。

 もちろん、これはあくまで今の僕の考えです。「え、そんなことで」と思う方はいらっしゃるでしょうし、僕も10年経ったら、「うわ、ガキ……」と呆れ果てるかもしれません。ただ、今の自分を知っておくために、僕は敢えてこの考えを書き残そうと思います。さあて、この先変われるかしら、変われないかしら……

◇     ◇     ◇

 そんな書き置きを残しつつ、哲学カフェ「許す」の振り返り、並びに、僕のその後の考察メモを締めくくりたいと思います。ここまでお読みくださった皆さま、ありがとうございました。