読書会の記録をつけ終わったと思ったら、またしても読書会絡みのイベントあり。引き続き、読書会日誌をご覧に入れたいと思います。

 824日土曜日、彩ふ読書会哲学カフェ研究会の第3回部活動が開催されました。今回のテーマは「許す」。どうしても許せない人のことなど、みなまでは口にできないという語りづらさが付いて回るテーマで、初めはやや難しい印象も受けましたが、話が進むにつれて、「許す」ことを巡る参加者それぞれの考えに触れられ、様々な気付き・学びを得ることができました。というわけで、これより記事を2つに分けて、「許す」をテーマにした哲学カフェの様子を振り返ると共に、この会を通じて感じたことや考えたことについて僕個人の立場で綴っていきたいと思います。

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 はじめに、そもそも「哲学カフェ」とは何かについてざっと書いておきましょう。

 哲学カフェとは、普段あまり深く考えることなく受け流している物事やテーマについて、時間を取ってみんなで考える集まりのことです。「友だちってなに?」「ひいきは良い事? 悪い事?」といったテーマを1つ決め、参加者はそのテーマについて感じたり考えたりしたことを自由に表明し合います。

 ここで目指しているのは、意見の優劣を決めることでも、1つの結論を導き出すことでもありません。参加者それぞれが、自分と異なる意見に触れながら、テーマについて考えを深めること、これが哲学カフェの目指すところです。ですから、逆に「皆さんそれぞれ色んな考えをお持ちで面白いなあと思いました」で終わるのもちょっと違うわけです。その色んな考えに触れる中で、何に気付き、どんな新たな考えに辿り着けるか、これがポイントになります。

 彩ふ読書会メンバーの中で哲学カフェにいち早く興味を持ったのは、現在京都読書会のリーダーでもあるちくわさんでした。ちくわさんは程なく「哲学カフェ研究会」を立ち上げて自ら部長になりました。その頃は、関西各地でやっている哲学カフェの情報を共有し時間を見つけて個々人で参加するというのが部活動の内容だったのですが(要するに、同じものに興味を持つ人の情報交換や背中押しのためのコミュニティだったわけです)、やがてちくわさんは読書会の中で、自分が主催・進行を務める形で哲学カフェをやるようになりました。これまで、4月に「読書」、7月に「あきらめる」というテーマで哲学カフェが開催されました。そして今回、「許す」をテーマに、3回目の部活動を行うことになったのでした。

 今回の会場は「NANAスペース」といって、梅田の東通り商店街近くのとある雑居ビルの地下にある、これぞ隠れ家といった感じのスペースでした。入口は秘密結社のアジトみたいでしたが、中はアットホームな空間で、冷蔵庫、テレビといったアメニティも充実していました。時間は19時から21時半まで(開始から20分雑談をしてしまったので、その分時間が延びました)で、哲学カフェ部の活動としては初めての夜開催でした。参加者は、男性4名・女性3名の計7名。それぞれ好きな飲み物や軽食を持ち寄って参加し、ものをつまみながら話し合いに参加していました。

 それでは、「許す」というテーマを巡りどんな話が展開したのか、みていくことにしましょう。

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◆「許さない」のは悪いことなのか?

 今回の哲学カフェで最初に話題にのぼったのはこの疑問でした。この疑問を出した方は、自分にはどうしても許せない人がいるといいます。周りの人から「もうええやん」って言われることもあるけれど、そんなのは他人に決められることではなくて、自分はその人が許せない。そんな経験を抱えているその方にとって、ある人/ものを「許さない」ことについて、他の人はどう思っているのかは、1つの関心事だったようです。

 許さないでいることに対して、一般的には確かに良くないイメージがあるように思います。いつまでも許さない人は、執着が強いとみられたり、心が狭いと思われたりすることもあるでしょう。上の参加者も、「許さないこと」に対するこうした一般的なイメージから完全に吹っ切れているわけではないのかもしれないと、個人的には思います(本当に吹っ切れていたら、「許さなくってもいいじゃない」ってあっさり言ってしまうでしょうから)。

 しかし一方で、程度の問題は別として、許せないことを胸の内に抱えている人は少なくないような気もします。「フィクションの世界では許すことが美化され過ぎている」と言った別の参加者もいましたから、「許す」のが良いことで、「許さない」のは悪いこと、という単純な発想に付いていけない人は、実際一定数いるのでしょう。かくいう僕も、「根に持っとんな~」と人から言われることが少なくないので、人に比べて執着の強い人間なのかもしれません。

 この問題についてはこれ以上深く立ち入らないことにします。ただ1点、この問題から会が始まった結果、会の中では「許す」以上に「許さない」が話題にのぼったということを、ここでご報告しておこうと思います。

◆「許さない」と「怒る」

 上述した「許さない」を巡る一連の議論に絡めて、会の中で僕は次のように言いました。「許すっていうのは、その前に〈許せない何か〉があって初めて起こることだと思うんですよね。じゃあその〈許せない何か〉は何故起こるのかってことをここへ来る前に考えてたんですけど、その原因になるのは怒りとか、腹が立ったとか、ムカツクとか、そういうことなんじゃないかなって思うんです」。

 僕のこの意見のうち、前半部分、つまり、まず〈許せないこと〉があって、その後に初めて〈許す〉が出てくるというところについては、概ね参加者の同意が得られたようでした。一方で、後半部分、つまり〈許さないの原因は怒りである〉という考えを巡っては、ある参加者から「ちょっと捉え方が違うんですけど」と、別の意見が提示されました。

 その方は、相手に対して怒ることや腹を立てることはあるけれど、許せない人はいないといいます。僕は当初、それはその方が怒りをすぐ相手にぶつけて解消しているからではないかと思ったのですが、さらに話を聞くと、その方の考え方はもっとずっと深いことが分かりました。すなわち——

 私と他人は違う価値観をもっている。価値観が違うから、当然考えや行動の食い違いは生じるし、腹が立つことも出てくる。けれど、人がそれぞれ違うのは当然のことで、他人が何をしようがそれはその人の自由である。だから、許すも許さないもないのだ。

 つまり、この方は、許すとか許さないといったことを、そもそもあまり考えていないのです。それは、自分と他人は別個の人間であり、それぞれに異なる価値観に従って行動する自由があるからです。もちろん、他人の言動に対し腹を立てることはある。けれど、腹立ちや怒りと許す/許さないは別次元の問題で、後者について思い迷うところはないというのでした。

 この考えに触れたことで、僕は、自分自身は「許さない」と「怒り」を同じ次元の問題として捉えていたこと、そして、それとは異なる考え方があることに気付いたのでした。そして、この気付きをきっかけにして、改めて、僕はどんなことを「許していない」のかについて考えることになるのですが、この思考の結果については第2回の記事の最後で書くことにして、哲学カフェの振り返りを続けることにしましょう。

◆「許す」とはどういうことか

 「許さない」を巡って議論が白熱してきたところで、進行役のちくわさんから“待った”がかかりました。「ちょっとここで本来のテーマに戻りませんか?」ホワイトボードに書かれた「許す」の文字を指し示しながら、ちくわさんは続けます。「いままで色んな話が出てきましたけど、じゃあ翻って、〈許す〉って結局どういうことなんだと思います?

 この問いかけに、ある参加者は次のように答えました。「〈許す〉っていうのは、理解することなのかなって思います。なんでそんなことしたのっていうのがわかるようになる。仕方なかったんだねって言って認められるようになるというか。だから、〈理解して認める〉って感じですよね。ただ、理屈の上ではって感じですけど」。

 これに対し、別の参加者は次のように答えていました。「許すことは不可能だと思うんですよ。相手を理解することはできない。どこまで行っても想像の範囲でしかないんですよね。だから、許さないってことを普段から考えないようにしています」。

 この2つの意見を聞いて、僕はハッとしました。許す/許さないの大元にある認識のポイントが見えた気がしたのです。

「お二人の話を聞いていて、人間はわかりあえないっていう認識をどれだけ持ち得ているかが、許す/許さないっていうところに関わってくるのかなと思いました。人間はわかりあえないってことを引き受けられたら、お互いそこまで理解し合えるわけでもないから、許すとか許さないとかそもそも考えなくなるんだと思うんですよね。けど、人間はわかりあえないってことを引き受けられない人もいる。人間はわかりあって当然だ、わからないと気が済まない。そんな人は、理解できないことが出てくると〈許さない〉っていう感情に行き着きやすいんじゃないでしょうか」

 何名かの方が頷いてくださったのが見えました。

 僕がこの話をしたところで、哲学カフェ前半戦が終了し、10分間休憩がありました。そして、後半戦に入ったところで、話題は一度大きく変わることになるのです。

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 さて、ここで一度記事を区切ろうと思います。次の記事では、哲学カフェの後半戦を振り返ったうえで、この記事の内容も踏まえながら、哲学カフェ後に僕が考えたことをしたためていこうと思います。どうぞお楽しみに。