数日前から、さくらももこさんのエッセイ集『もものかんづめ』を読んでいる。これが実に面白い。書かれているのは、学生時代から20代頃にかけてのエピソードで、水虫に1年悩んだ話とか、怪しげな栄養食品販売店でバイトしていた時の話とか、睡眠導入枕を買ってしまった時の話とか、夢見る少女だった頃の話とかである。要するに、とびきり驚くようなことではなく、誰もが経験しそうな(実際に経験したかはともかく、別にあってもおかしくなさそうな)ことばかり。ところが、これがメチャクチャ面白いのである。試しに、読んでいて最初に吹き出した箇所を引用しておこう。
 

 私が水虫になったというウワサは、約一分で家族全員に知れわたった。“臭足のヒロシ”と異名をとる父は「オウ、水虫女、大変だなァ」とニタニタしながらからかってきた。彼は自分の脂足よりも、もっと強力なキラワレ者が登場した事がうれしくて仕方ないのだ。

 姉は急に冷酷極まりないナチの司令官のような顔になり、トイレのスリッパは使うなとか、部屋を裸足で歩くなとか、数々のオキテを数十秒のうちにつくりあげ公布した。

 あくる日から、私の水虫研究は始まった。野口英世並みの熱意で研究を行い、一日のうち七十パーセント以上の時間を水虫に費やしていた。こうなると、苦悩だか生きがいだかわからなくなってくる。とにかく生活の基盤が『水虫』なのだ。

(「奇跡の水虫治療」『もものかんづめ』集英社文庫p.9-10より)

 
 水虫になってしまった女子高生に対する家族の反応はかなりひどいものだが、どういうわけか笑ってしまう。「いるいる、こういうヤなやつ」と頷きたくなるからかもしれないし、「臭足のヒロシ」や「冷酷極まりないナチの司令官」といった表現によって、ひどい連中もまたコケにされているからかもしれない。そしてまた、水虫に意識が集中してしまい、それが「苦悩だか生きがいだかわからなくなって」いるさくらももこさん自身の哀愁漂う姿も、なぜかやっぱり面白い。辛いことがあっても、悲嘆に暮れるのではなく笑い飛ばしてやればいいのさというカラッとした逞しさが、文章の底から伝わってくるようだ。

 こんな面白い文章が幾つも出てくるわけで、そりゃもう楽しく読書しているわけであるが、実を言うと、僕はこの本を読んでいて、ただ面白いと笑っているわけではない。上の文章にしてもそうであるが、さくらさんの文章はまっすぐな文章だと僕は思う。奇をてらったり、変なひねりを加えたりしない、率直で素朴な文章だと思う。それでいて面白いのだから、僕はもうすっかり感動している。早い話、自分のお手本にしたいのはこういう文章だと思う。

 これまで、僕が最も熱烈にその文体を真似ようとしたのは、森見登美彦さんであった。このことは、6月の『有頂天家族』読書会前後の舞い上がりきった記事を数本読めばお分かりいただけると思う(実際、この読書会の振り返り記事を読んで「文章が森見さんみたいで面白かったです」と言ってくれた人もいる)。確かに、森見さんの文章はめちゃくちゃ面白いし、真似ちゃいたくなる魅力に溢れている。が、最近思うのだが、森見さんの文体は、僕のそれまでの文体とはだいぶ違うのである。だから本気で真似ようとするとどうしても無理が祟る。事実、上記の振り返り記事を書いた時、ただでさえ長い僕の文章が森見調を加味することによってますます長くなってしまい、ようよう書き切ったところで僕は完全にバテてしまった。以来、森見さんの文章については、「面白いし憧れるけれど、無闇矢鱈にパクるもんじゃない」と、自分に言い聞かせるようにしている。

 さくらももこさんの文章は、森見さんのそれに比べて、ずっとオーソドックスである。だから、文章がとても自然に思える。無理なく、素直に、面白く。そんな風に文章を書きたいと思うなら、さくらさんの文章を真似ようと思う方がいいのではないかと言う気がする。もちろん、言い回しの妙や表現の具体性など、遠く及ばないことだらけだが(そしてそれは、引用をすることによってよりハッキリと自覚できたのだが)、それでも何か掴み取れるものはないかと僕は考える。今は考え始めたというだけで精一杯である。が、上手くいけば、何かしら影響が現れるかもしれない。

 そんなことを考えているうち、ブログのタイトルを『もものかんづめ』に対抗して『ひじきのごった煮』にしてはどうかというアイデアが浮かんだ。もっとも、名前からして負けているので、廃案にしようと思う。影響を受けるというのは、そういうことじゃないはずなのだ。