昨日に引き続き、彩ふ読書会哲学カフェ研究会の第2回部活動の振り返りを書き綴ろうと思う。713日土曜日、大阪の中崎町にある隠れ家的な貸しカフェに集まった読書会メンバーは、研究会の長であるちくわさんの進行のもと、「あきらめるってどういうこと?」というテーマで、2時間哲学カフェを行った。哲学カフェとは、ある決まったテーマについて共にじっくり考える集まりであり、他の参加者との意見の違いを愉しみながら新たな気付きを得ていく場である。今回の哲学カフェは、僕にとって、これまで参加したどの哲学カフェよりも実りの多いものであった。そのため、この振り返りでは、僕自身どんな発見があったのかということに主眼を置きながら、会の中で出た意見をいつもより丁寧に観ていこうと思う。

 今回の振り返りは、①「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは何か、②そもそも「あきらめる」とはどういうことか、③「あきらめる」はポジティブかネガティブか、という3つのテーマについて書き、さらに、④これらとは別で特に印象に残った話について紹介するという構成である。このうち、①と②については、振り返りの前編で書いているので、気になる方はそちらをご覧いただきたい。この後編では③と④の内容について書き進めていくことにしよう。

(前編のリンクはこちら)


3-1.「あきらめる」をポジティブに捉え直す

 今回の哲学カフェは次のような発言から始まった。「あきらめるというのは、ありのままの現状を受け容れることだと思います。ですから決して悪いことではないのに、何か良くないことのように言われるのは、あきらめずに成功した時のリターンが大きいからでしょうか」この発言には、「あきらめる」のは良くないことだと捉えられがちなことへの戸惑いが表れている。そのことを思い返すと、「あきらめる」は悪い事なのかという疑問は、今回の哲学カフェ全体を貫く大きなテーマだったようにも思う。

 僕自身の話をすると、「あきらめる」ことについては良くない印象が強かった。しかし、哲学カフェの参加者には、「あきらめる」をポジティブに、肯定的に捉えている方のほうが多かった。例えば、前編で〈今の自分にとって必要かどうか〉を「あきらめる/あきらめない」の基準にしていた方は、「あきらめる」ことは自分に必要のないものを切り捨てることだからポジティブなことだと考えていると話していた。

 また、仕事柄会社の上役の話を聞くことが多いという別の参加者からは、次のような話の紹介があった。「エグゼクティブの人は意外とあきらめが早いんですよね。それは自分のことをよくわかっているからなんです。できる人ほど自分の限界をわかっているから、方向転換が早いんですね」この話はとても印象深く、あきらめが良い方が、むしろやりたいこと・やるべきことが沢山出来ていいじゃないかという気が俄然湧き起こってきた。

 このように「あきらめる」を肯定的に捉える意見に幾つか触れているうち、僕はあることに気付いた。それは、「あきらめる」を肯定的に捉えている人は、自分自身に対する理解度が高いということである。自分に必要なものは何か、自分に向いていること・できることは何か、自分のやりたいことは何か——それらをよくわかっている人は、「あきらめる」ことに迷いがない。「あきらめる」ことと「自分を知る」ことには、深い関わりがあるようだ。

 そこまで考えた時、さらに「あ!」と気付いたことがある。「あきらめる」を漢字で書く時、僕らは普段「諦める」と書く。しかし、もう1つ、「明らめる」という書き方もあるのである。気付くや否や調べてみると、「諦める」の説明には「断念する」と書かれているのに対し、「明らめる」の説明には「事情・理由をはっきり見定める」とあった。「あきらめる」には、物事を見定めるという意味もある。そう考えると、それは決して悪い事ではないように思えた。

(もちろん、神ならぬ人間の見定めに絶対はあり得ない。けれども、自分自身のことや周りの物事についてできるだけよく考え判断を下すことは大切なことのように思う。「明らめる」という漢字表記に対し「ピンと来ない」という友人がいたので付言しておく。)

3-2.なぜ、「あきらめる」がネガティブな意味を持つのか?

 今しばらく、「あきらめる」ことに対する印象の話を続けよう。会の中では、「あきらめる」をネガティブに捉えてしまう理由についても話題にのぼった。そこで象徴的に取り上げられたのは、「諦めたらそこで試合終了だよ」という往年の名台詞である。

 ここから話は大きく2方向に展開した。1つは「あきらめない」ことが根性論と結びついて良しとされ、「あきらめる」ことには根性なしという意味合いが付いて回るようになったのではないか、と分析する方向である。前編で確認したように、「あきらめる」というのは、その色味を取り除いて考えれば、数ある物事のうち、何をやり何をやらないでおくかを選択するという、単にそれだけのことである。ところが、根性論と結びつくことで、一度何かをあきらめることが「アイツは根性なしだ」という人間評価につながるようになってしまう。「あきらめる」に付きまとうネガティブイメージの根はここにある。

 であるならば、このネガティブイメージを払拭する手立ては、「あきらめる」は選択の問題であるという認識を強く持つことのうちにあると思う。もちろんそれは、根性論を信奉する人の考えを強引に変えよということではない。上記のイメージが少しでも身の内に巣食っているなら取り除けばいいということであり、「あきらめる」は選択の問題であるとはっきり悟ることで周りの評価に強くなろうということである。

 もう1つは、「あきらめる」てしまうと、そこから何も得られなくなると考えられているのではないか、と分析する方向である。これに対しては、先に紹介したエグゼクティブの話が有力な反論となった。1つのことをあきらめても、次に新しいことを始めればまた得られるものもある。大事なのは停滞しないことなのである。ついでに言うと、会の参加者には、途中であきらめたことも後の人生で何かしら役に立っているというエピソードを持つ方が少なくなかった。これもまた、「あきらめる」ことは、そこから何も得られないということを意味しないという反論につながるものだったと思う。

 以上、節を2つに分けて、「あきらめる」に対するイメージを巡る話し合いを振り返ってきた。改めて、僕が学び取ったことをまとめておこう。特に①の気付きは大きいと僕は感じている。

 ▶①「あきらめる」には、「明らめる=事情・理由をはっきり見定める」という意味もある。自分や周りのことに対する理解を深め、適切な判断を下すことが「あきらめる」ということであれば、それはとてもポジティブなことだと思う。

 ▶②「あきらめる」ことに対するネガティブな印象は、「あきらめるアイツは根性なしだ」というレッテル貼りや、「あきらめたらそこから何も得られなくなる」という考えから来ている。前者に対しては、「あきらめる」は選択の問題であるという認識を強く持つことが有効であり、後者に対しては、あきらめたあとに新しいことを始めればまた得られるものがあるという反論が有効である。

4.印象深い話~「できないことはあきらめる」からどう脱却するか~

 最後に、ここまでの振り返りに収めることのできなかったとても印象深い話を書き留めておこうと思う。その前に、次の点を確認しておきたい——この記事の頭の方でも書いたように、僕は元々「あきらめる」をネガティブに捉えていた。それは突き詰めて言えば、色んなことから逃げているような気がしていたからだと思う。振り返ってみれば、僕は「やらずにあきらめる」ということが多かった。そして、前編で書いたことであるが、僕にとって、「あきらめる/あきらめない」の基準は能力や可能性の有無、すなわち〈できそうかどうか〉だった。僕は〈できる自分〉という理想のイメージに固執するため、できないと思ったことには最初から手を出さないという選択をし続けてきた。そんな自分に対し、良い印象が持てないでいたのである。

 そんな僕を仰天させた発言があった。「私があきらめたことは絶対に正しかった」そう話した方がいたのである。僕には絶対に言えない言葉だった。「あきらめる」ことは逃げの連続だったし、後悔の連続だったからである。その後悔をずっと引きずることはないが、いずれにせよ、自分のあきらめをここまで正当化する度胸も自信も、僕にはなかった。

「その言葉は僕には絶対に言えないと思う」という感想を正直にぶつけたところ、ややあって、発言された方から次のような話があった。

「なんだかすごい話をしたみたいになってるけど、そういうことじゃ全然なくて——私自分は大それた人間じゃないよと思ってるんですね。広いところからみると、自分なんてそんな大きなことを成し遂げられるわけじゃないし、自分の人生なんてそこまで重要じゃない。自分の選択もそこまでの選択じゃなくて、だからこれでいいと思ってるんです。基本ゆるくて、でもゆるく自信につながってるというか」

 この話を聞いた時、僕は自分に一番足りないものが何だったのかわかったように思った。つまり、僕に足りなかったのは、〈広い視点でみれば、自分の人生なんてそこまで重要じゃない〉という真っ当な現状認識だったのである。〈できる自分〉に憧れ続ける僕は、自分は一角の人間になるのだと思い続けていた(と言っておきながら、どの分野でどんな一角の人間になるのかということが全く分かっていないのだけれど)。そんな僕にとって、自分という存在はあまりにも大きく、かつ絶対的なものだった。そしてそれ故に、いまの自分の手に余ることを却って斥けるといういびつなことを繰り返していたのだった。

 どうすれば〈自分なんて大したものじゃない〉という認識をそっくりそのまま引き受けられるだろう。そんなことをぼんやりと考えた。もとより、それは拙速にやってはならないことだと思う。先の話をした方は、〈自分なんて大したことない〉という認識をいかにも軽やかに、まっすぐに持ち得ているように僕には見えた。しかし、僕がいますぐ直ちに同じ認識に辿り着こうとしたところで、それは捻れた卑下にしかならないのがオチである。まず広い視点をもつこと、そのうえで自分のやりたいことを見定めること、そういったことを地道にやっていくより他に方法はないように思う。

 いずれにせよ、哲学カフェの経験として重要なことは、他の人との比較を通して自分の現状に対する理解が深まったことであり、また、自分がこの先どんな考え方を範とすればいいかがわかったことである。己の小ささに対する真っ当な認識、それを根詰めず緩やかに獲得していった時、また新たなものが見えると、僕は思う。

◇     ◇     ◇

 以上で、哲学カフェ「あきらめる」の振り返りを締めくくりたいと思います。前後編お読みくださった皆さま、ありがとうございました。

◇     ◇     ◇

 最初にも書いた通り、今回の僕の振り返りは多分に自分自身の見つめ直しという意味が含まれています。これに対し、哲学カフェ研究会の長であるちくわさんが、今回の哲学カフェで出た話題の幅広さを失うことなく、様々な意見を紹介する素敵なレポートを書かれていますので、こちらもぜひご覧ください。

▶前編


▶後編