久しぶりに、彩ふ読書会日誌をつけようと思う。713日土曜日、大阪の中崎町にある隠れ家的な貸しカフェで、哲学カフェ研究会の第2回部活動が開催された。今回のテーマは「あきらめるってどういうこと?」であった。昨日の日記でもチラと書いたが、今回の哲学カフェは、僕がこれまでに参加した中でも特に学びの多い回であった。そこで、今回の振り返りは、僕自身がどんな気付きを得たのかということに主眼を置きながら、いつも以上に丁寧にしたためていこうと思う。

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 今回の哲学カフェは読書会の部活動として開催したもので、参加者は全員読書会メンバーであった。男性4名、女性5名の計9名という構成で、10時半から12時半まで2時間程度、1つのテーブルを囲んで話し合った。

 ここで哲学カフェについて簡単にご紹介しよう。哲学カフェとは、お題を1つ決めて、それについてじっくりと共に考える集まりである。正解・結論を出したり勝敗を決めたりする場ではなく、様々な意見・考え方に触れることを通じて、1つの事柄の意味の広がりを味わい己の考えを広げる場である。ただし、意見の違いを知るということは、「みんなちがってみんないい」で済ますということではない。その違いに気付いたうえで自分は何を掴み取るのかを考えて初めて、哲学カフェは実現するといえるのである。——以上に書いたことは、哲学カフェ研究会の長であるちくわさんが、毎回部活動の最初に説明される内容を僕なりにまとめたものである。

 ちなみに、ちくわさんの説明では、上の内容に続いて哲学カフェで気を付けるとよいことが紹介される。曰く、「ふだんよりゆっくり考えよう」「話すよりも『質問する』『聴く』を大切にしよう」「浮かんだものをとりあえず話してみよう」「わからないことにこだわろう」そして、「屁理屈をこねるヤツらの自己満の会にならないようにしよう」とのことである。最後の1つはちくわさんオリジナルの心得で、部活では毎回好評である。

 それでは、本題に入って、「あきらめる」をテーマにした2時間の話し合いを、僕自身の気付きに引き付ける形で振り返っていこう。ざっと話の順序を示しておくと、①「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは何か、②そもそも「あきらめる」とはどういうことか、③「あきらめる」ことはポジティブかネガティブか、という3つのテーマついて書いたうえで、最後に、④この3つのテーマ以外で特に印象に残った話を紹介する、という流れになる。①~③の順番がややランダムに感じられるかもしれないが、僕の中ではこれが自然なのでどうかご容赦願いたい。

1.「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは何か?

 自分の話から始めよう。「あきらめる/あきらめない」の基準になるものは、僕の場合〈できそうか否か〉である。哲学カフェの会場へ向かう電車の中で、何を話そうかと考えるうち、「あきらめる」には、「やってみて、できなくて、あきらめる」場合と、「やる前から、できないと思って、あきらめる」場合の2種類があるなぁと思い、メモ帳に書きつけた。その時、2つは確かに別個のことだけれども、〈できない〉と思うことがあきらめにつながる点では同じだと気付いたのである。僕にとって、あきらめるか否かは、その事柄の成功/実現の可能性や、僕自身の遂行能力に関わる問題であった。

 ところが、哲学カフェの中では、全く違う意見が幾つも登場し、逆に「能力がないからあきらめるっていうのはピンと来ない」と言う方もいた。では、他の方々にとって、「あきらめる/あきらめない」の基準になっているものは何なのだろうか。

 まず挙がったのは、〈好きなことならあきらめない〉という意見だった。「資格の勉強は、その資格が好きじゃないからあきらめるけど、評判のカフェに行くのは、好きだからあきらめないだろうなって思う」そんな話だった。

 次に挙がった基準は、〈必要かどうか〉というものだった。「ここでやめとこうって思ったことは、自分には必要のないこと、少なくとも今ここでやるべきことではないなって思う。あきらめるっていうのは、必要のないものを切り捨てることだと思う」という話であった。

 〈やりたいことかどうか〉が基準という意見も出てきた。「能力がないからあきらめるっていうのはピンと来ない」と話したのは、この意見を出した方である。その方は、どうしても取りたい資格があって(それが現在の職業にもつながっている)、当時は絶対資格が取れるなんて自信はなかったけれど、あきらめはしなかったと話していた。

 これらの意見は、どれが正しくてどれが間違っているかを判定するようなものではないし、集約して1つの基準に束ね上げるようなものでもないと思う。僕がこの話を書いたのは、哲学カフェで発言するまで、「あきらめる/あきらめない」の基準が人によってこれだけ違うとは思ってもみなかったからであり、それだけに、自分と違う意見の11つが新鮮だったからである。そしてまた、こうして様々な意見と比較することによって、〈できないことはあきらめてしまう〉自分、さらには〈できる子でいたい〉という理想に縛られている自分自身の姿が炙り出されたからである。他を知って己を知る、それが実現できた哲学カフェは、やはり充実した回なのだと思う。

2.そもそも「あきらめる」とは何か?

 ここで、いま書いてきた話を踏まえつつ、他の意見も交えながら、「あきらめる」とは何かについてしばし考えてみたい。

 あきらめるか否かの基準を巡る様々な話を聞くうち、僕はだんだんこう考えるようになってきた。「あきらめる」という言葉を使うから色がついて見えるけれど、結局それは、様々な物事のうち何をやって何をやらないでおくかを選択することなのではないか、と。自分の中で優先順位をつけて、やることとやらないことを区別し選んでいく。僕らがやっているのは、シンプルにそれだけだ。

 その順位付けの基準が、人によって、能力だったり情熱だったり必要性だったりするというのは、上で見た通りである。ついでに言えば、同じ人の中でも、時と場合によって基準が揺らぐこともあるだろう。「やりたいことと、向いていることって、往々にして違うじゃないですか。人はみんなその中で葛藤しながら選択してるんだと思いますね」という印象深い意見を思い出すと、一人の人の中でも、やりたいことが優先されたり、向いていることが優先されたり、それは時々で異なるのだろうという気がする。

 ともあれ、「あきらめる」というのは結局のところ選択の問題だということが見えてきたわけである。が、このように一度色を取り除いてしまうと、却って除いてしまったのがどんな色だったのかを知りたくなる。すなわち、やるかやらないかという選択のうち或る物を、我々は敢えて「あきらめる」と呼ぶ、だとすれば、そこにはどういう意味があるのか、ということを考えたくなってしまうのである。

 実際の哲学カフェの中では、「あきらめる」の意味の限定は、「やめる」と「あきらめる」はどう違うのかを考える中で進められていった。幾つか意見が出ていたが、個人的に一番しっくり来たのは、執着を捨てる時には「あきらめる」という言葉が当てはまるという考え方だった。話し合いの中で、「あきらめるっていうのは、距離をおくってことだと思う」「あきらめるのは手放すのと同じだと思う」という意見が出ていた。どちらも、執着を捨ててものを自分から切り離すという意味のように僕には思えた。こだわりの強いものを手放す時、そのモヤモヤ感を言い表すのに独特の表現を使いたくなる。そこで出てくるのが「あきらめる」ではないか、ということだ。

 この節の話はちゃんとまとめておこう。まず、「あきらめる」というのは、結局のところやることとやらないことを区別する選択の問題であるということをみてきた。次に、そのうえで、執着のあるものを振り捨てる選択をした時に、僕らは「あきらめる」という独特の表現を使いたがるのではないかと考えてきた。僕はこれら一連の思考を、「あきらめる」という言葉がまとっている独特の色を取り除いたうえで、その色がどんなものだったのかを知ることだと表現してきた。そのどちらも大切なことなのだと、今の僕には思える。

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 さて、一度振り返りを区切ることにしよう。次回は、「あきらめる」ことはポジティブかネガティブかというテーマを巡る一連のやり取りを振り返り、最後に、そこまでの話に組み入れられなかったある印象深い発言を書き留める予定である。ぜひ続けてご覧ください。