最近の僕はどう考えても運動不足である。体が鈍り体力が落ちて、およそ集中力というものがどこかへ飛び散ってしまい、ぼんやりと気の散りがちな日々を送っている。このままではいけない、何とかしよう。とはいうものの、いきなり過度な運動をしては却って体によろしくない。しばし思案した挙句、会社から帰った後に、カメラを持って近所を歩いて回ることにした。

 家を出たのは夕方7時のことだった。曇り空が広がっていたせいもあり、既に辺りは暗くなりつつあったが、ゆっくり歩く分には危険はなさそうだった。腕を意識的に振りつつ、周りの景色をぼんやりと見ながら、45分ほど歩いて回った。

 家の近所のことというのは、案外わからないものだ。普段歩く場所は、会社へ向かう道か駅へ向かう道で、ほぼ決まりきっている。それらとは関係のない方向に張り巡らされた住宅街の細い路地は、僕にとっては未知の世界だった。

 一度、カメラを買い替えたばかりの頃に(というのは先月半ばのことであるが)、同じように近所の住宅街の路地を歩いて回ったことがある。その時は、突然現れた児童公園や、売地に茂る野草や、誰とも知らぬ他所の玄関先に咲くアジサイや、暗闇の中にヌッと立つ踏切の遮断機などに、いちいち心を奪われ、カメラを向けたものだった。

 今日の散歩でも同じようなことがあった。誰がやったかわからない四つ角の植え込み、小さなお城のような外観をした一軒家、和風の豪邸の玄関先に咲く色とりどりのパンジー。どれも他愛ないものばかりだが、不思議と心を打つ。気になる景色に出会う度に、僕は自然と歩を緩め、時に立ち止まってシャッターを切ったりした。

 しかし、今日の散歩の一番の収穫は、カメラには収められないものにあった。すなわち、音からみえてくる営みである。僕の住む独房の売り文句の1つは「閑静な住宅街」だった。実際住んでみると、休日に子どもの遊ぶ声が聞こえる以外はまったく静かで、むしろ寂しいくらいであった。それだけに、家からそう遠く離れていないところで、音の営みが繰り広げられているというのが、僕にはいたく新鮮だったのだ。

 歩き出して間もなく、どこからか拍子木の音がした。夜回り、というには些か時間が早い気がするが、暗くなってからの町内の見回りに違いなかった。耳を澄ますと、拍子木を鳴らした後に何か言っているのが聴こえる。子どもの声と大人の声が混ざっていた。何と言っているのかは、なかなかわからなかった。そういえば、実家に住んでた頃、時々「火の用心、マッチ一本火事のもと」という夜回りの声が聞こえることがあったなあ、ということを思い出した。しかし、火の用心だとしたら、季節はやはり冬であろう。これから暑くなろうという時分にいったい何を言っているのだろうか。

 謎が解けたのは、散歩も終わりに近付こうという頃であった。その時僕は、ライトのついた電信柱が等間隔にまっすぐ並ぶ道をぽくぽくと歩いていた。一直線に光が並び、道の先一点に向かって伸びていく姿が、わけもなく美しかった。道の中ほどに信号があって、僕が近付くより前に赤から青に変わった。宵闇を彩る光の案配が俄かに変わるのが、考えてみれば当たり前のことなのに、どうにも不思議でならなくて、夢の中にでもいるような心地がしただった。

 ある四つ角に差し掛かろうという時、交差する道を、老若男女15人くらいの一団が通り過ぎた。通り過ぎざまに拍子木の音がした。

「とじまり用心、火の用心!

 彼らはそう言いながら行き過ぎた。どうやら火の用心は季節を問わず言っているようだった。ただ、その前に「戸締り用心」とあったので「なるほど」という気がした。戸締り用心は火の元以上に季節を問わないし、更に言えば、部屋の風通しを良くしたい今の時分にはむしろぴったりの注意文句だ。巧いもんだなあと僕は思った。

 さらに道を進んでいると、後ろから拍子木の音が聞こえた。すると、そのカンカンという音に反応するように、ワンワンとどこかの犬が吠えた。さらに続けてキャンキャンという声がした。その後、どういうわけか拍子木の音は消失し、ワンワンとキャンキャンが互いの縄張りを主張するかのように吠え合うのが響き渡った。そんな音の営みもあるのかと、少し可笑しかった。

 家に戻ると、すぐさま夕食を摂った。その後は、特に何もしようという気が起きなかったので、床に身を投げ出してぼんやりと過ごした。