自分自身のことをもっとよく見つめようと思って、ブログのタイトルまで変えて決意表明をして、そうして最初の長編となる哲学カフェレポートを書き切った。ここまでを振り返ってみて思う。自分が何を思い考えているのかをじっくり振り返るのは、思っていた以上にしんどいことだ。学生生活最後の1年、僕は日がなこうして自分自身を振り返っていたわけだけれど、よくそんなことができたものだと思う。よほど体力があったか、ヒマだったか、あるいはその両方かもしれない。とにかく、今の僕は、メリハリをつけて、気を抜く時はとことん抜くつもりでいないと、どこかでパタリと倒れてしまいそうだ。

 そういうわけで、今日は自分を甘やかしてやるつもりであるが、そうすると今度は何も書くことが思いつかない。極端である。それでも何とか抽斗を探ってみる。思い出すのはカタツムリのことばかりだ。

 数日前、会社の近くにある線路を潜るトンネルの壁に、1匹のカタツムリが付いているのを見た。いつもはタイルの溝以外に凹凸のない壁に、その日は異様な丸いでっぱりがあった。それで「なんだろう?」と思って通り過ぎざまにみてみると、カタツムリだった。渦巻き状の殻の下に、舞茸の白い部分みたいな身体がうにょんと見えていたから、たぶん間違いない。

 「おお珍しい」と思った。別に大した感動があったわけではないが、良いモノを見た気がした。

 もっとも、僕がカタツムリを見たのはその一度きりである。会社から帰るときには、もうカタツムリはいなかった。えっちらおっちら壁を登っているだろうと思っていたのだが、元の壁にはいない。暫くトンネル内をぐるぐる見回してみたけれど、窪みに置き去りにされたココアの缶以外に目に付くものは何もなかった。近所の子どもに連れ去られたのかもしれない。乱暴されてないといいなと思う。そこまで思ったところで、スーツ姿のまま背の低いトンネルに立ち止まってキョロキョロしていることの怪しさに気付き、僕は急いでその場を立ち去った。

 以来、トンネルをくぐるたびにそれとなく壁を見ているけれど、やっぱりカタツムリはいない。ココアの缶だけが、ずっと同じ場所にある。

 どうしてこんな話が、日々の出来事の抽斗の、スッと取り出せるような位置にあるのか、自分でもよくわからない。でもまあ今日のところはそれでいい。そういう難しいことを考えないのが、今日の狙いなのだから。