昨日に引き続き、6月2日(日)の夕方に参加した哲学カフェの振り返りを書いていこうと思います。今回の哲学カフェのテーマは、〈「わかる」って何?〉。哲学カフェの概要については昨日の記事に書いていますので、今回は割愛します(気になる方はリンクから覗いてみてください)。

 昨日の記事では、僕が予め用意した〈「わからない」ことに耐えらえますか?〉という問いを出発点に、①僕らは「わからない」ということにストレスや不安を覚えるのではないかということ、②「わからない」ことへの対処法には、「わかるようにする」の他に「無視する」などもあり、どのように対処するかは事の重要性や個々の興味に応じて変化するのではないかということなどを書いてきました。また、③「わからない」ことへの不安には、現象そのものへの不安や、人との比較において生じる不安など幾つかのバリエーションがあることや、④「わからない」ことに気付くのはそもそも難しく、それこそが実はとても大切なのだということなどもみてきました。

 この記事では、上のテーマから離れ、僕が事前には考えていなかった話題について紹介し、それらについて考えたことを振り返っていきたいと思います。具体的には、「わかる」という言葉を、「知る」「共感する」「できる」といった近しい言葉と比較することによって見えてきた様々なことについて書いていくことになります。それでは、早速参りましょう。

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◆「知る」と「わかる」はどう違うか?

 「わかる」をめぐって議論を続けるうち、「わかる」という言葉を別の言葉と比較したり、別の言葉に置き換えたりする発言が幾つか出てくるようになりました。

「〈わかる〉と〈できる〉は違うじゃないですか。でも周りの人は〈できない〉ことを指して〈わかってない〉って言ったりするわけですよね」

「〈知らない〉と〈わからない〉は違うと思うんですよね。〈知らない〉ものは教えるしかないんですけど、〈わからない〉ものは考えて知識を組み合わせたらわかってくるんじゃないかと思うんです」

「〈わかる〉にも色々あると思うんですよ。例えば、〈共感できる〉とか、理解できないけどこうかなと〈想像する〉とか。〈実行できて〉初めてわかったといえるっていう考え方もありますよね」

 そこで、進行役の方が旗振り役になり、「わかる」を、「知る」「共感する」「できる」といった他の言葉と比較しながら考えてみることになりました。分けても議論の中心になったのは「知る」と「わかる」の比較でしたので、この2つの違いを巡ってどのような話が展開したのかを振り返ることにしましょう。

 ある女性は、小学生のお子さんが勉強している時のことを振り返りながらこう話していました。「掛け算は知ってるし、割り算も知ってるけれど、文章題は解けないっていうことがあるんですね。何算を使えばいいかわからなくなってしまうみたいで……それを思い出すと、文章題を解けるっていうことが、わかるっていうことなのかなと思います」この話では、「わかる」ということは、あることに直面した時に、自分が「知っている」ことのうち何を使えばいいのかを適切に選べることとしてイメージされているように思います。

 また、ある若い男性からは「〈知ってる〉っていうのは、例えば、はさみを使えば紙が切れると知っているがやったことがない状態で、〈わかる〉というのは実際に紙を切ってきた後に起きることなんじゃないでしょうか」という話がありました。すると、それに対し別の男性から、「紙を切っただけではまだわかったとは言えないんじゃないでしょうか。そのあとで紙以外のもの、例えばひもを切ってみた時に初めて〈わかった〉と言えると思います」という反論がありました。後者の意見に注目してみると、ここでは〈わかる〉ことは、ものの仕組みや構造がイメージできることや、ものの機能を抽出して理解できるであるとされています。

 以上2つの話を通じて、僕の中では次のような理解が組み上がっていきました。すなわち、「知る」というのは単に知識を得ることで、その知識というのはいわば点のようにバラバラに存在している。そこへ、点と点をつなぐ線や、幾つかの点を包み込む面が出現する。これが「わかる」ということではないか。そんなイメージが頭の中で膨らんだのでした。もちろん、このイメージは絶対ではありませんが、「知る」から一段階飛躍したところに「わかる」があるという印象は場の中で広く共有されていたように、僕には感じられました。

 さて、今の考察にあたって「はさみで何ができるかは知っていても、実際に使ってみて初めてわかったと言えるようになる」という意見を軽視してしまいましたが、これは別の角度から「わかる」に迫るための重要な伏線となっていました。続いて、その話に移ることにしましょう。

◆「わかる」ためには体験が大事である

 はさみで紙が切れると知っていても、わかると言えるのは実際に紙を切ってから、という意見が示したのは、「わかる」ことと「体験」との結びつきだったように思います。実際、議論が進む中で、「自分の経験と結び合わせて初めて何かがわかる」「抽象的な概念を自分の身に引き寄せてみて初めてわかるようになる」という意見が次々出てきました。

 読書会哲学カフェ部長のちくわさんは、「一人暮らしをして初めて親の有難みがわかる」という例を出しながら、「やっぱり、自分で経験して初めてわかることってあると思うんです」と話していました。

 会場奥の席でよく発言していた男性もまた、「ただ知るだけじゃなくて、それを自分事として捉えて考えて初めて、わかるって言えるようになると思います」と話していました。この男性の話は、隣に座っていた人事の仕事をしているという女性の「会社でセミナーやるんですけど、殆ど実際の仕事に活かされてなくて」という話に続くものでした。男性はセミナーの話を受けて、「それは受講した人が〈どうせこんなの役に立たない〉と思ってるからですよね。そこでちょっとでも〈何か自分に使えるものはないか〉って考えられたらまた変わってくると思うんですけど」と話し、それに続けて上の一節を言っていました。

 このように、「わかる」ことは「体験」や「自分事」と関わりがあるという意見が複数出てきて、僕を含め一同「うんうん」と頷いていた中、ここでちょっとした論争が起きます。

◆体験できないことは「わからない」ままなのか?~「わかる」と「想像する」~

 論争のきっかけになったのは、〈「わかる」って何?〉というテーマの発案者である読書会ベテランの女性の次の発言でした。「例えば、江戸時代の武士の感覚って私たちは直接には体験できないですけど、それはわかるって言えないんですか?」どうやら、時代小説やドラマを見ていて、当時の人の生き様に共感することがある、というところから、この疑問は出てきたようでした。

 この問いに対し、やや間があってから、例の人事の女性がバッサリ斬り込みます。「言えないんじゃないでしょうか」しかし、発案者女史はどうしても、体験していないことは「わからない」のかという疑問が晴れないようでした。他の人の考え方や感じ方が自分の中にどっと流れ込んでくることがある。想像しているともいえるし、憑依されているとも言えそうなその感覚は、「わかる」なのか、「わからない」なのか——

 2人のやりとりの後、話は別の方向へと流れていきましたが、この短いやり取りは僕の中に幾らかざらざらしたものを残していくことになりました。

 後になって僕なりに考えてみたのですが、江戸時代の武士の話は極端な例としても、ここで挙げられていたのはとても身近な問題だったように思います。つまり、ここで問題になっていることは、「あなたの気持ちわかるよ」と何気なく言う時の「わかる」って何なのかという問題と、本質的に同じだと思うのです。わたしとあなたが別の人である以上、わたしはあなたと同じ経験をすることはあり得ない。それでも、「あなたのことがわかる」と言う時、わたしには何がわかっているのか。

 この問いを極限まで突き詰めていくと、多くの「わかる」は「想像する」とも密接に結びついているような気がしてきます。自分の周りにある、自分ではないなにものかを、自分の身に置き換えて、こういうことかなと「想像する」。そのプロセスなしに「わかる」ことはないんじゃないか。特に、人との関係の中で何かが「わかる」ためには、想像は避けて通れないように、いまの僕には思えます。

◆フィルターを通すということ

 少し話が変わりますが——哲学カフェの議論が終わり休憩時間に入ったところで、発案者女史と言葉を交わす機会がありました。その中で、上述の〈他人が自分の中に流れ込んでくる〉問題を考えるための糸口が出てきたので、それについて書き留めておこうと思います。

 結論から言うと、流れ込んできた思考や感情をただ受け容れるだけでは「わかる」とは言えない、それらを分析し、咀嚼し、自分なりに「こうだ」と思えるところへ落とし込んで初めて、「わかった」ということができるというのが、2人で辿り着いた考えでした。この、他人からやって来た圧倒的な情報を自分なりに噛み砕いていく過程を、僕らはこの日「フィルターを通す」という言葉を使って理解し合いました。

 他人の思考や感情がどっと流れ込んできただけの状態は、「わかる」ではなく「同化」だったのだと、発案者女史は言います。それが「わかる」と言えるようになるためには、流れ込んできた思考や感情を受け止め、自分で説明できるようにする必要がある。説明するためには、流れ込んできたものを一度分析しなければならない。このプロセスが「わかる」ためには大切なのだ。そんなことを話しながら、発案者女史は大事な考えに辿り着いたように表情をほころばせていくのでした。

 一緒に話していた僕にとっても、この話はとても刺激的で、自分を振り返るきっかけになるものでした。わからないものに出会った時、僕はしばしばパニックに陥ります。何もわからないと思っているうちに、情報が次から次へと降ってきて処理しきれなくなるのです。そうした時、降ってきた情報を処理するためには、落ち着いて情報を整理し、取捨選択しながら、噛み砕いていかねばならない。僕にとっても、情報に押し流されず何か物事を理解するためのフィルターは必要なものだと思いました。

◆「わかる」は、身体のどの部分で起きることなのか?

 最後に、一連の議論の中で僕がずっと抱いていた疑問についてお話したいと思います。それは、〈「わかる」は、身体のどの部分で起きるのか?〉という疑問です。

 哲学カフェが進む中で生じたのは、「わかる」を「知る」「共感する」「できる」といった別の言葉と比較してみようという流れでした。そして、「わかる」と「知る」の比較を中心に話が進んでいったわけですが、話の流れを追う一方で、僕はここで挙がっている「知る」「共感する」「できる」という言葉と結びつく身体の部分がそれぞれ異なっていることが引っ掛かっていました。「知る」のは頭ですが、「共感する」のは心です(実際にはこれも脳の働きですが、知るのと感じるのは違う場所で起こっていることなんじゃないかと勝手に思っています)。そして、「できる」というのは、もっと具体的な、生身の身体と結びついたことのように思えます(「体で覚える」という言葉もあるくらい)。そのように考えていくと、「わかる」というのは、頭でわかるのか、心でわかるのか、身体でわかるのか、いったいどれなんだろうという疑問が膨れ上がって仕方ありませんでした。

 この疑問を整理して考えてみるに、大切なことは、どこでわかるのが本当の〈わかる〉なのかを問うことではなく、頭・心・身体を上手く合わせて使い、様々に物事を捉えようとすることが、より上質な理解につながるのではないかと考えることのように思えてきました。振り返ってみれば、僕は、〈わかる〉というのは、頭でわかることなのだとばかり思っていました。僕にとっては、〈わかる〉と〈知る〉が近いものだったのです。ですが、〈わかる〉にはもっと多様な面がある。人の気持ちを想像するのは心だし、わかったことを実践するのは身体である。それらの働きにももっと気を配っていこうと、僕は思ったのでした。

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 この記事の中で書いてきたことをざっと振り返ると次のようになります。

・「知る」というのは知識の点を増やすことで、それらをつなげる線や面が出てきて初めて何かを「わかる」ということができる。

・「わかる」ことは、何かを「体験する」ことや「自分事として捉える」ことと結びついている。

・一方で、自分ならざるものを「想像する」ことも「わかる」と深いかかわりがある。

・周りから流れ込んでくる圧倒的な情報に晒されているだけでは何もわかることはできず、自分を落ち着かせてそれらを整理・咀嚼することで初めて「わかる」に辿り着くことができる。

・何かをよりよく「わかる」ためには、頭・心・身体を組み合わせて働かせることが大切である。

 まとまっているような、てんでバラバラのような、そんな結論たちですが、どれも僕が考えて掴んだことなので、大切にしていきたいと思います。

 以上で、僕が考えていなかった「わかる」の側面についての振り返りは締めくくろうと思います。さて、哲学カフェのレポートの全体像を振り返ってみますと、この後にもう1つ書くべきテーマが残されています。最後に参加者全員で出し合った、次へつながる疑問の話です。これについては、どうやら次回に譲るしかなさそうです。というわけで、哲学カフェレポート、もう1回続きます。このレポート自体が情報洪水のようになっているかもしれませんが、皆さまどうぞあと1回お付き合いください。

 もう疲れたから疑問紹介するだけにしてやろう……あ、つい本音が……