6月2日日曜日、夕方16時半から大阪で開かれた哲学カフェに参加しました。今回のテーマは〈「わかる」って何?〉——たいへん手強いテーマですが、今回は身近な例がたくさん登場し、普段の感覚から大きく乖離することなく議論が進行し、刺激的な会となりました。ということで、これから2~3記事を費やして、この哲学カフェのことを振り返っていきたいと思います。

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 哲学カフェというのは、テーマを決めてみんなで集まって話し合う会です。テーマになるのは「友だちとは?」「贔屓は良い事、悪い事?」など身近な事柄であることが殆どです。そして、重要なのは、自分の考えや経験に即して話すことであり、また、他の人の話を聴いてさらに考えることです。過去の大哲学者の考えや最新の学説は知らなくて大いに結構、大切なのは、それぞれが自らの言葉で語り合うことである、というのが会のスタンスでございます。

 今回の哲学カフェは、我らが彩ふ読書会の哲学カフェ部長・ちくわさん(遂に名前出します!)が、哲学カフェ団体の元祖とも呼ぶべきカフェフィロさんに依頼する形で実現したものです。主催・カフェフィロ、協力・彩ふ読書会という形で、会場は毎月大阪の彩ふ読書会が開催されている桜橋のオックスフォードカフェの貸会議室でした。なお、6月2日は朝から通常の読書会も開かれていたのですが、僕はこの日は哲学カフェのみ参加しました。

 参加者は、進行役であるカフェフィロの方を入れて18名。読書会の方とそうでない方が6:4くらいの割合で参加していました(哲学カフェ目当てでやって来た方は、開始前からすっかり打ち解けてベラベラ喋っている我々を見て「なんの知り合いだろう?」と首を傾げていたようです)。哲学カフェは初めてという方は、読書会の内外を跨ぎ全体の半数くらいを占めていました。ただ、初めてという方も、いざ会が始まると積極的に発言されていて、場は瞬く間に盛り上がっておりました。

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 さて、この哲学カフェレポートですが、まず、①僕自身が事前に考えていた問いと、それについて哲学カフェを通じて考えたことを書いていこうと思います。そのうえで、②僕は事前には全く考えていなかったけれど、哲学カフェの中で出てきて面白いと思ったことについて振り返っていきます。また、今回の哲学カフェでは、最後に30分ほど時間を取って、〈今回の議論を通じて疑問に思ったこと〉をそれぞれ挙げる時間というのがありました。そこで、③最後にどんな疑問が出たか、さらに、それについて僕自身何か思ったり考えたりしたことはあったか、についても書き綴りたいと思います。②と③が1回に収まってくれれば2回完結なんですが、果たしてどうなりますことやら——

 何はともあれ、僕が事前に考えていたことの話から書いていくことにしましょう。

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◆「わからない」ことに耐えられますか?

 今回の哲学カフェに参加するにあたり、僕は事前に1つの問いを用意していました。それは、〈「わからない」ことに耐えられますか?〉という問いです。今回のテーマは「わかる」ですが、僕は「わからない」ことに出会った時の率直な気持ちから考えを起こそうとしました。そして、僕だったら「わからない」ことを「わからない」ままにしておくのは耐え難いことだけれど、皆さんはどうかという問いを投げ掛けることにしたのです。実際、今回の哲学カフェ最初の問いは、この〈「わからない」ことに耐えられますか?〉になりました。

 もっとも、この問いを考えていたのには、幾分戦略的な意味合いもありました。僕には1つ危惧している事態がありました。それは、“何であれ100%わかるということはあり得ない、人は何も完全にはわからない”という抗い難い意見が出されたところで、議論が停滞してしまうことです。そうした事態を避けるために、僕は敢えて「わからない」から考えること、そして、自分自身の気持ちを率直に語ることを選びました。

 とはいえ、これは相当ざっくりした問いです。頷いてくれる方はいたものの、より深く検討する余地は幾らも残されていました。では、会が進行していく中で、この丸投げ感のある問いからどのように話が広がっていったのでしょうか。

◆「わからない」ことが耐えられないというのは、全てについて言えるんですか?

 僕が上述の問いを発したあと、場内では「わからない」ことや「わかろうとする」ことを巡って様々な意見が出ました。

「基本的に、わからないことはストレスだと思います」
「不安や恐怖のもとだと感じます」
「わかることは生存本能と結びついていると思います」
「わかりたいというのは、不安を回避して何らかの説明付けをするためでは」

 このように、「わからない」ことはストレスや不安を引き起こすから、「わかる」状態に持っていこうとするのは自然なことだという意見が出る一方で、

「わからないことがあっても、人はあまり気にしていないと思います」
「世の中のことを全てわかるのはムリですよね」
「なにも怖くないけれど、純粋な好奇心からわかりたいと思うこともありますよね」

 というように、「わからない」ことは克服しないといけないことなのか、「わかりたい」動機は「わからない」ことへの不安だけなのか、など、様々な観点から「わからない」ことへの耐えられなさを問い直す意見も出てきました。

 そんな中、進行役の方から、次のような質問がありました。

「最初に、わからないことには耐えられないっていう話がありましたけど、それって、全てのわからないことについて言えることですか?」

 この質問は、僕にとって非常にインパクトの強いものでした。質問と、一連の議論が、頭の中でグルグルと回り出します。「わからない」ことに耐えられないという気持ちにウソはない。けれども、世の中にある「わからない」ことを全てわかろうとするかというと、そうでもない。ふと思い出すのは、高校の時物理がよくわからなくて、科目選択で物理を避けたこと。僕はあの時、「わからない」ことを放置して、そのまま逃げたのだ——

 色んな想念が頭の中を駆け巡った結果、議論の中で、僕はこう言いました。「確かに、わからないことに耐えられないかどうかは、モノによると思います」

 ただ、後になって冷静に考えてみれば、やっぱり、あらゆる「わからない」はストレスの元凶であるような気がします。ただ、「わからない」ことに出会った時に、「わかろう」とするのか、別の方法で対処しようとするのかは、モノによって分かれると思います。以下、当日自分で喋った言葉を拾いつつ、僕が考えたことを整理しましょう。

◆「わからない」ことへの対処法

 「わからない」ことは、それが何であれストレスや不安の元凶だと僕は思います。ただ「わからない」ことへの対処法は「わかろうとする」ことだけに限りません。調べたり考えたりして「わかろうとする」ことがある一方で、興味を失ったり、直視するのが億劫だったりして、わからないまま「放置する」ことだって、いっぱいある。世の中のことを全てわかることは絶対にできないし、「わかりたい」と思うか否かはただストレスや不安のみで決まることではないのですから。——〈「わからない」ことが耐えられないというのは、全てについて言えることなんですか?〉という問いを掘り下げるうちに見えてきたのは、このようなことでした。

 ここで、「わからない」ことへの対処法がどうして分岐していくのかについて少し補足しておきたいと思います。先にみた通り、「わかることは生存本能と結びついている」という指摘がありました。この指摘に従うならば、生きるために必要なことについては、それが何であれ僕らは「わかろうとする」にちがいないでしょう。「わかろうとする」か、「放置する」かの分岐が生じるのは、わかろうとわかるまいと生死に関わりのないものごとについてです。もっとも、現代社会を生きる僕らにとっては、生死にかかわらない物事について知ったり考えたりすることが大半だと思います。ですから、大抵の場合、僕らは「わからない」ことへの対処法を都度選択しながら生きている。その基準になるのは、個々人の興味であったり価値観であったりするのでしょう。

 以上、〈「わからない」ことに耐えられますか?〉という問いを出発点にして僕が考えてきたことをまとめました。「わからない」ことには耐えられないというありのままの事実を述べるところから、では「わからない」ことに出会った時に僕はどうしているのかという所へと考えが広がっていったのは、とても有意義なことだったと感じています。

 ところで、一連の議論の中では、僕の思考の枠には収まらなかったけれど面白いと感じたことが幾つかありました。それらについても振り返っておこうと思います。

◆「わからない」ことへの不安・恐怖には幾つかの種類がある

 面白いと思ったことの1つは、「わからない」ことは不安・恐怖のもとですよねという時に、人によって、何に不安を覚えるのかが違っていたことです。その中には、ただ違うというだけでなく、質的に異なるように思えるものもありました。

 議論の中で出てきた不安・恐怖には大きく2つのものがあったと僕は考えています。1つは、ものや現象がわからないことに対する不安・恐怖です。「雷ってなんだよ」という不安・恐怖は、このタイプの代表例でしょう(現象そのものが怖いというのもありますが)。

 そしてもう1つは、人間関係の中で生じる「わからない」ことに対する不安・恐怖です。例えば、「みんなわかっているのに自分だけわからないのは、すごく怖い」という話がありました。確かに、このようなシチュエーションに立たされると、仲間外れにされたような疎外感を覚えます。が、ここでいう怖いは、雷が何かわからないことに対する不安や恐怖とは別物だと思います。

 また、「人はわかったふりをする」という話もありました(「うちの娘がよくやるんです」という発言もありました)。これは、人との関係の中で、「わかっている」ことが善とされるため、「わからない」ことに対して不安や恥が付きまとうからでしょう。ちなみに、議論の中で〈「わかる」が良い事で、「わからない」は悪い事って言えるんでしょうか?〉という問いを発した方がいました。「わかったふり」の話が出てきた時、この方がいまなにを考えているだろうというのが、僕は気になって仕方がなかったのですが、話が別のところへ流れてしまい、聞きそびれてしまいました……

 ともあれ、このように、「わからない」ことへの不安・恐怖1つとっても、現象に対する不安・恐怖もあれば、人との関係の中で引き起こされるそれもあるという風に、様々な種類があるというのは、たいへん面白いことでした。また、その辺りを峻別して考えていくことは大切なことだと感じました。

◆「わからない」ことが「わかる」というのは大事なこと

 もう1つ、たいへん面白いと思った意見で、とても印象的なものを挙げたいと思います。それは、「わからない」ことが「わかる」というのは大事なことだし、それだけでも立派なことだという意見です。

 この意見には思わずハッとしました。「わからない」ことへの耐え難さに気を取られていた僕ですが、確かに、そもそも「わからない」ことすらわからなくて、のほほんとしていることは、日々山のようにあるのです。「わからない」ことに気付けるのは、それ自体難しいことで、大切なことだというのは、本当にその通りだと思いました。

 僕はかつて、賢い人間に憧れていました。物知りで、人と違うものの見方ができる、そんな人間にひたすら憧れていました。そんな僕にとって、「わからない」ものはあっては困るものなのだと思います。だから「わからない」ものはストレスになるし、容易にわかりえないものはなかったことにしてしまう。けれども、「わからない」を大切にできれば、そんな自分をちょっとずつ変えていけるんじゃないか。僕はそんな風に思っていました。

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 さて、ここで一度話を区切ろうと思います。次回は、僕が全く考えていなかった観点から、「わかる」とは何かということそのものに迫っていきたいと思います。具体的に言えば、「知る」「わかる」「共感する」「できる」といった言葉の比較を通して、「わかる」とはどういうことかに迫る、そんな展開を予定しています。みなさま、どうぞお楽しみに。