5月3日。隠遁生活から戻った僕を待ち構えていた最初の予定は、哲学バーであった——というわけで、今回は5月度の園田哲学バーのことを振り返ろうと思います。

 園田哲学バーは、阪急園田の駅から歩いて10分ほどのところにある公民館で、毎月第1金曜日の夜19時から21時に行われている哲学カフェです。毎回テーマが1つ決まっており、そのテーマについて、参加者それぞれが日々思っていることや、その場で触発されて考えたことなどを話し合います。「哲学バー」の名に違わず、アルコール類を含めて飲食物の持ち込みは自由。皆さんそれぞれ好きなものを口にしながら話に参加します。

 今回のテーマは、「あるはず」。

 思わず「えっ⁉」と言いたくなるテーマではないでしょうか。

 園田哲学バーでは毎回終わる前に次回のテーマの候補を出し合うのですが、前回ここである参加者が、ホワイトボードの片隅に書かれた「あるはず」という言葉をポッと口にしました。それを主催者がたいへん面白がり、「あるはずでいこう!」ということに決まったのです。

 ちなみに、その際「次回は連休中なので、哲学バー自体も“あるはず”ということで」という冗談めいた話も出ていたのですが、いざ当日を迎えてみると、常連を中心に10名以上の方が参加するいつも通りの哲学バーとなりました。

 それでは、この風変わりなテーマで開催された哲学バーで、いったいどんな話が展開したのか、これから詳しく見ていくことにしましょう。

◆「あるはず」は、ポジティブか、ネガティブか

 トークの口火を切ったのはこの問いでした。実はこれ、僕が挙げたものです。前回の哲学バーの帰りにその日の参加者と交わしたやり取りが元になっていて、面白いテーマじゃないかなと思って切り出してみました。

 「あるはず」という言葉を聞いて、どんな印象を抱くでしょうか。〈あると思っていたものがない〉という状態をイメージすれば、ネガティブな印象を抱くでしょう。はんたいに、〈ある可能性が高い/可能性がゼロではない〉という意味だと解釈すれば、ポジティブに思えてくるでしょう。

 僕は「あるはず」という言葉にポジティブな印象を抱いているのですが、「ネガティブなイメージだなあ」という参加者もいました。「職場で人間はこう考えるはずだと言われたことがあって、決まりを押し付けられるようで僕はイヤだった」「資料があるはずだと思っているけれど、ないと焦ってしまう」そんな意見が出てきて、同じ言葉でも想像することは人によって違うのだなあと感じました。

 実際の議論は、この後すぐに違う内容へと移っていくのですが、「あるはず」はポジティブかネガティブかという問いは、今回の哲学バー全体の背後にずっとあったような気がします。この点についてはまた後でじっくり見ることにしましょう。

◆不確かな「あるはず」を検証・確認する

 議論の最初の転換点になったのは、次の発言でした。

「こないだブラックホールの写真が撮れたってニュースになってましたけど、あれっていうのは、理論的にあるはずとされてたものが実証されたってことですよね。僕があるはずって聞いてパッと思い浮かんだのはそれやったんですけど」

 ここから話は一度「見えないはずのブラックホールが写真にうつったというのはどうもよくわからん」という方向に進みます。僕は当初、「これは話の本流じゃなさそうだなあ」と思っていました。ところが、このブラックホール談義から話はどんどん発展していったのです。僕は慌ててメモを走らせました。

「あるはずのものは検証して確かめなきゃいけないのかなと思ったんですけど」

「検証するのは、人間の場合『目』ですよね」

「あるはずっていう言葉の裏には、〈僕は見てないけど〉っていう意味が含まれてる気がします」

「でも、目に見えないものは存在しないって言い切ることもできないですよね。例えば、水蒸気や数字の0や虚数なんかは、実際に見ることはできないけれど論理的にあるはずとされてる」

「必要性から『ある』は出てくるんでしょうねえ」

 色んな発言をただ並べてしまいました。ざっとまとめておきましょう。「あるはず」というのは、「ある」と断定できない不確かな状態を表す言葉です。そして、その不確かなものを確かめるには検証・確認といった作業が必要になります。検証・確認の方法については様々な意見があると思いますが、今回の哲学バーでは、最もわかりやすく身近な方法として〈目で見ること〉が挙げられました。

 さて、この〈目で見ることのできるものだけが確かなものである〉という見方が浮かび上がったところで、今回の哲学バーでも特に印象的な格言が登場します。

◆人間は「あるはず」で生きている

「人間の99.9%はあるはずでできていると思うんですね」

 そう話したのは、僕の2人隣に座っていた男性の方でした。

「検証する、確認するっていう話が出てますけど、人間はいま・ここにあるものしか確認することはできない。私らは座って話していて、その下には床があるはずで、床の下には土があるはずだと思っている。今日があって、明日があるはずで、昨日もあったはずだと思っている。殆どのものはあるはずなんです。人間はあるはずで生きていると、私は思います」

 この考え方は、トークが進むにつれて参加者の間で広く共有されるようになりました。そして、「人間は“あるはず”で生きている」「全ては“あるはず”である」という発言が繰り返されることになりました。考えてみればその通りです。世の中に絶対と言えることなどまずありません。全ては「あるはず」でできているのです。

 ところで、上の発言をした方は、当初、人間が物事を「あるはず」で済ませているのは「怠け」という風に話していました。しかし、この捉え方はトークの中で問い直されていきます。

「怠けではなく、敢えてあるはずで済ませることで、僕らは上手くやっているんじゃないでしょうか」

「不確かなものでも受け入れてやっていくのは人間の能力だと思います」

「いちいち存在を疑っていたらやってられないですよね」

 これらの発言を振り返る時、〈人間は「あるはず」で生きている〉という格言の意味は、僕らは不確かな「あるはず」に囲まれて生きているという事実の説明に留まらないように思います。不確かな現実をに囲まれながらも、それらを受け容れて生きていく力が僕らには備わっているということをも、この格言は意味している。それはとても頼もしいことだと僕は思います。

 そんな心強さを覚えながらも、一方で僕はまた別のことを考えていました。

◆存在を疑わないものは「あるはず」ではなく「ある」

 トークを進めるうち、僕らはいつの間にか、あるとあらゆる言葉に「あるはず」という言葉を重ねるようになっていました。床があるはず、土があるはず、机があるはず、ポケットに家の鍵があるはず、昨日はあったはず、明日はあるはず、それも今日と同じようにあるはず——そんなありとあらゆる「あるはず」が出ていたわけですが、そこで僕はふと思ったのです。

 いまこの場だからこそ、それらは全て「あるはず」になっている。けれど、僕らは普段、それらは「ある」と思っているのではなかろうか。

 先に、僕らには不確かな「あるはず」に囲まれながら生きていける力が備わっているという話を書きました。しかし別の見方をすれば、僕らはただ、不確かさには耐えられないから、それらを確かなものとして生きているだけだということもできます。誰かが話していました。存在を疑ったらやっていられないと。その存在を疑わないことというのは、僕らの中で、不確かな「あるはずのこと」ではなく、確かな「あること」として認識されているのではないかと、僕は思うのです。

 だから、僕には、自分たちがずっとやっていたのは、普段「ある」と信じて疑わないものが、実は「あるはず」という不確かなものの上に立脚していることの確認作業であるように思えたのです。

 誤解のないように申し添えておきますが、僕はここで、自分たちのやっていたことが間違いだったとか意味のないことだったと言おうとしているのではありません。確かだと思っていたことが実は不確かだったと気付いて目の覚める思いがしたくらいです。ただ、自分の普段の感覚に照らし合わせて、一連のトークの展開を読み直したい、それが僕の狙いでした。

 「存在を疑っていないということは、それは〈あるはず〉なんじゃなくて〈あることになっている〉んだと思う」僕がそう言った時、多くの方が頷くのが見えました。

 少しややこしい話になってしまったので、後のトークにつながるポイントだけざっとまとめておきます。いまここで、「あるはず」と「ある」という2つの言葉が違うニュアンスを帯びていることが確認されました。このニュアンスの差が、実際に言葉が使われる場面でどう影響するのかということが、この先のトークのポイントになります。というわけで、話を続けましょう、と言いたいところですが——

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 話が長くなってきたので、ここで記事を一旦区切ろうと思います。ちょうど哲学バーもこの辺りで途中休憩に入っていましたので、キリもいいはずです。余談ですが、僕はこの休憩中に、近くのローソンまでダッシュして缶チューハイを買い足しました。何はともあれ、次回もご期待ください。