4月13日土曜日、大阪・心斎橋にあるレンタルスペースにて、彩ふ読書会哲学カフェ部の部活動が行われました。この哲学カフェは、読書会のメンバーのみを対象としたものであり、また、部長のCさんが初めて進行役を務めるものでもありました。言うなれば、読書会史上初めての「自家製哲学カフェ」だったわけでございます。

 と、いうわけで、久しぶりに読書会レポーターひじき氏の出番がやって参りました。今回の記事では、上述の哲学カフェの模様をたっぷりお伝えしたいと思います。

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 今回のテーマは、読書会にちなみ、「あなたにとって“読書”とは?」。「自分にとって読書とは〇〇だと思います」という言い換えに始まり、本を読む理由や、本を読んでいる時に巡らせている想像・妄想の内実などへと、話はゆっくり膨らんでいきました。展開が比較的スローペースで、流れが追いやすく、また、自分の中で内容を整理する時間も取れたので、とても参加しやすい会でした。

 参加者は、男性6名・女性4名の計10名。哲学カフェは初めてという方も少なくなかったですが、皆さん何度も発言されており、また、他の方の話によく頷いておられました。ハッとする意見に拍手が飛び交ったり、面白い意見にみんなで笑ったりと、終始和やかな雰囲気で、話しやすく、聴きやすい場ができ上がっていたように感じました。

 会は10時半に始まり、休憩を一度挟みつつ12時半過ぎまで続きました。初めに進行役のCさんから哲学カフェについて説明があり、その後、読書をテーマに10人でたっぷり話し合いました。会場の備品にホワイトボードが2枚あったので、僕は書記役に回って発言をメモしていきました。メモの量が膨大になってしまい何度か消す羽目になってしまいましたが、進行の補助にはなったのかなと思っています。

 それでは、これから内容紹介に移りましょう。

◆自家製哲学カフェ金科玉条

 初めに、進行役Cさんによる哲学カフェ解説の内容を振り返ろうと思います。以前京都の読書会の後に哲学カフェをやった時と内容はほぼ同じですが、おさらいも兼ねて。

〈哲学カフェとは?〉
 ▶テーマを決めて、ともに考える集まりです。
 ▶誰が正しいかを決める会ではありません。
 ▶ひとつの結論を出すことを目指す会でもありません。
 ▶かといって、「人それぞれ」だけで終わらせる会でもありません。
 ▶大事なのは様々な意見に触れながら何かを考えようとすることです。

〈哲学カフェで大切にするとよいこと〉
 ▶ゆっくり考える。
 ▶話すことよりも、質問すること/聴くことを大事にする。
 ▶浮かんだ考えをとりあえず出してみる。
 ▶わからないことにこだわる。


 Cさんはこの日のためにスケッチブックを買われたそうで、「フリップ芸やります」と言いながら、これらの内容が書かれた紙を1枚1枚めくっていました。僕が横で「どっかで見たことありますねえ」と言うと、「全部思い出して一所懸命書いたんですよ」とのお答えでした。ありがとうございます。

 さてしかし、Cさんの哲学カフェ解説は、以前の会のそれをなぞるだけでは終わらなかったのです。「実はもう1枚あるんです」そう言いながらめくられたオリジナルの1ページ、そこには次のように書かれていました。

 ▶「屁理屈をこねるヤツらの自己満の会」にならないようにしよう

 僕は思わず、笑いながら拍手してしまいました。それは、これまで哲学カフェに参加した中で違和感を覚えていた部分が一発で吹っ飛ぶ思いがしたからです。

 哲学カフェにおいて大切なことは、①あるテーマを巡って、自分の思いや考えを整理すること、②一緒に参加されている方に向けて、思いや考えをわかりやすく伝えること、③様々な話を聴く中で、思いや考えを洗練させていくことなどです。ところが、実際に何回か哲学カフェに出てみると、自分が話すことばかりを考えていて人の話をてんで聞いていない人や、とにかく難しいことやすごいことを言おうとしていて「それ本当にあなたの意見なの?」と首を傾げたくなるような人も少なくありません。そして、こういう人は往々にして、人を言い負かそうとするような圧のある話し方をします。そういう方を見る度に、僕は「何か違うな」という気がしていたのですが、それを口にすることはできませんでした。

 僕がずっと言いあぐねていたことを、Cさんはキャッチ―なフレーズでズバッと言ってくださいました。きっと、Cさんも同じ違和感を覚え、より良い会の実現に向けてアドバイスの言葉を絞っておられたのでしょう。その甲斐があったのでしょう、既に述べた通り、今回の哲学カフェは、実に和気藹々と、話しやすく聴きやすい雰囲気の中進んでいったものでした。

 おっと、前置きが長くなってしまいました。そろそろ、本編に入っていくことにしましょう。

◆あなたにとって“読書”とは?

 会の前半で出た話の多くは、「私にとって読書とは〇〇です」というフレーズに落とし込めるものでした。例えば、「読書とは自己分析です」という話。この話をされた男性は、小説の登場人物にどう感情移入したかを通じて、自分のものの見方や感じ方を知ることができるのが読書の醍醐味だと話しておられました。また、「読書とは探検です」という話。この話をされた女性は、本屋でふと手に取った本をめくっていたら、自分の知らない考えに出会って常識を揺さぶられることがある、それが楽しいという話をされていました。他にも、「読書とは視野を広げるためのもの」「人と話すためのツール」「本という存在そのものに触れる機会」など、様々な読書の言い換えが出てきました。

 その中に、多くの参加者の共感を集め、繰り返し話題にのぼった意見がありました。それは、「読書とは逃避である」「読書とは救いである」というものです。より正確に言うならば、「読書とは逃避であり、かつ救いである」というものです。

 「小さい頃から、イヤなことがあった時に本を開いてました。小説を読んでると自分と同じような目に遭った人とかが出ていて、その人たちはどう感じたり行動したりしたんだろうっていうのを知ることができるので、それがとてもいいなと思ってます」

 「子どもの頃とかって、学校と家だけが全てみたいなところがあるんですけど、でも本の中にはそれ以外の色んな世界が広がってるんですよね。それがとても楽しくて、もう没頭してました」

 「自分はマイノリティだとずっと思ってたんですけど、文学作品の登場人物ってみんなマイノリティなんですよね。だから色んな作品を読んでるうちに、自分はみんなと一緒じゃなくていいんだって思えるようになりました」

 「読書ってただの逃避じゃないと思うんですよ。登場人物たちは自分と全然違う存在なんですけど、物語の中で自分と同じような悩みや辛いことに向き合っている。僕らはいつもそれを乗り越えられるとは限らないけれど、本の登場人物たちはちゃんと乗り越えられていて、僕らはその姿に勇気づけられたりする。だから、読書っていうのは、現実から一旦離れて、またもう一度現実に戻っていくための力を蓄えることなのかなって思います」


 本の中の世界というのは、僕たちが日々直面している現実とは違う、もうひとつの世界です。その世界に入り込んでいくというのは、確かに、いま・ここにある現実からの「逃避」です。しかし、多くの方々は、逃避のために訪れた本の世界で、現実の自分と同じ問題にぶつかっている人たちに出会う。そして、その人たちに自分を重ねながら、何かに気付き、勇気をもらい、そしてまた現実に戻る。その時、本は単なる逃げ場所ではなく、再び現実を生きるための力を得る場所になっている。だから、読書は結果的に、その人の「救い」になるのです。

 会の間、僕はこの一連のプロセスを「現実→別世界→現実」のループと図式化し、ホワイトボードに書き残していました。このループは、後半に入ってからも話題にのぼりました。

 少し補足ですが、ここでいう「別世界」には、本当に様々なものが含まれています。ファンタジーをはじめとするフィクションばかりが別世界を用意するとは限りません。人はそれぞれ違う存在ですから、極言すれば、僕とあなたとは違う世界を見ている。したがって、ノンフィクションはもちろん、他の誰かが書いたハウツー本も、全て別世界と言っていい。とにかく、僕らは本を通じて、自分の目の前の現実を離れ、そして、本を経由して再び現実に帰ってくる。それは旅に似ていると思います。いつもと違う場所に身を置くことで気持ちが新しくなるという感覚を、僕らは自室で、電車やバスの中で、日々経験しているのです。

◆読書をするのは「好きだから」

 話題を変えましょう。途中休憩の時間が迫ってくる頃、ある男性が、本に興味はあるけど読めない人から「どうしたらいい?」と相談された時のことを話されました。その時男性は、「手に取りたければ取ればいいし、そうでないなら取らなければいい」と返事すると同時に、「本が好きな人は、本を読む理由なんて考えないんだ」と気付いたそうです。この話は多くの参加者にとって印象に残るものだったようで、「なんで本を読むんだろうって考えたら、結局のところ“好きだから”っていう以外に理由ないです」という意見が暫く続きました。

 なぜ本を読むのかについて、会の中ではこの「好きだから」という以外の意見は出ませんでした。考えてみれば凄いことだなと思います。もっとも、これはまだまだ掘り下げ甲斐のあるテーマだったかもしれません。僕自身を振り返ってみれば、①面白い本に出会えたことと、②人生で一番しんどかった時に本に救われたことの2つが理由のように思います。特に②は大きい。

 前段の内容とも被りますが、色んな話を聴きながら、僕はずっと「逃避と救いの手段を持っている人は強い」ということを感じていました。

 ある女性がこんな話をしていました。「私の姉は全然本を読まなくて、代わりに音楽をよく聴くんですけど、姉にとっての音楽は私にとっての読書なのかなと思います」女性にとって、読書が逃避と救いであるように、お姉さんにとっては、音楽が逃避と救いである。いずれにせよ大切なのは、その人が救いになるものを持ちえていることだと、僕は思います。そしてまた、救いになるものは、その人の好きなものでいいのだとも思います。

◆「読書はスゴイ」「読書はエライ」??

 いま述べた「読書をするのは好きだから」という話に関連して、会の中でよく出た話を1つご紹介したいと思います。それは、人から「読書してるってスゴイね」あるいは「エライね」と言われることには違和感があるという話です。

 僕自身、「趣味は読書です」と自己紹介したら「勉強家やね」と言われたことが何度かありますが、確かに凄く違和感があります。僕は別に知識を得たいわけでも、1つの問いを突き詰めたいわけでもなく、ただ面白いものに出会いたくて本を読んでいる。どこまで突き詰めても、読書は娯楽であって勉強じゃない。それが僕の感じ方です。

 会の参加者にも、同じような意見をお持ちの方が大勢おられました。「スゴイねって言われるのには違和感がある」「自分を高めてるわけじゃない」「得られるのもは自然とついてくるだけ」そんな声が次々にあがりました。

 読書に対する周囲の反応について言えば、「読書をしているだけでナンダアイツと思われることがある」という話も出ました。「会社の休憩中にスマホをいじっていても何も言われないのに、本を読んでいると二度見されるのはなんで」という疑問も出ました。

 この話はここで終わりなのですが、読書に対する周囲の反応はなぜこうなのかという点は、想像してみると面白いような気がします。僕は先ほどから、〈読書家は勉強である〉、ゆえに〈読書はイイコトである〉というイメージと、〈休み時間に校庭で遊ばず読書をしている子は元気や協調性がない〉というイメージという2つのイメージの延長上に、読書に対する様々な反応が生まれているんじゃないかということを考えているのですが、この話は長くなりそうなのでアイデアを書き留めるだけにしておこうと思います。

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 さて、ここまでで哲学カフェ前半の内容はだいたい振り返ることができました。続いて後半に入っていきたいところですが、だいぶ文章も長くなってしまいましたので、ここで一度区切りにしたいと思います。哲学カフェ後半の模様は次回ご紹介しましょう。Cさんお気に入りの「脳内イケメンパラダイス」をはじめ、前半とはまた違ったテイストで話が展開します。どうぞご期待ください。