ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

 先日、読書会や哲学カフェでいつもお世話になっているちくわさんという方と飲みに行った際、「早起きはなぜ賞賛されるのか?」という問いを巡って、プチ哲学カフェのようなやり取りがあった。

 ちくわさんは数ヶ月前から朝活を始め、仕事に行く前にブログを書いたり本を読んだりするように習慣を変えたらしい。最近では朝5時に起きるのが平気になったと、この日も嬉しそうに話していた。その分寝るのは早くなったそうで、10時を回ると眠たくなると言っていた(ちなみに、この話をしていたのは夜の10時半頃である。昼寝したとは言っていたものの、ちくわさんはそれなりに眠たかったにちがいない)。一方僕は夜型人間である。平日でも日付が変わる前に寝ることは稀で、毎朝ギリギリの時間に起き、パンを1枚コーヒーで流し込んだら急いで家を出るという生活を送っている。ちなみに、夜が遅くなるのはブログや読書のためというより、ユーチューブやニコ動を見過ぎるせいである。およそ褒められた理由とは言えない。

 ともあれ、生中をおかわりしながら朝活話に耳を傾けていると、突然ちくわさんが「そういえば最近気になってるんですけど、朝早く起きて何かするのって、なんで良いことやと言われるんですかね」と言った。活動内容の違いに目を瞑れば、朝型人間と夜型人間の違いは、ただいつ活動するかということだけである。そんなもの、自分に合った時間を選べばいい話だ。ところが、朝に活動する人は夜型の人に比べて前者は「すごいねー」と言われることが多い。「朝活」という言葉はあるが「夜活」という言葉はないというのも、朝に活動することが素晴らしいとされている証拠かもしれない(もっとも、「夜活」という言葉はどこかいかがわしいので、まあ使えないだろうけれど)。どうしてなのだろう。

 さて、ちくわさんは人に質問をしておきながら、自分で答えを用意していた。

「朝早く起きるのって、自分の欲望に打ち克つ究極の状況の1つやと思うんですよね」

 ちくわさんは言った。欲望に流されずに生きるために、理性を働かせて制御する。それが自律である。しかし、自律が極めて困難になることが2つある。1つは、一度酒を飲み始めると止まらなくなることであり、もう1つは、朝いつまでも蒲団の中で眠りたいと思うことである(生活臭がすごい……)。朝起きぬけに蒲団から這い出るには、そのまま寝続けたいという欲望に打ち克つだけの理性がいる。朝早く起きる人が褒められるのは、それだけの理性を持ち、己を律することができるからである、と。

◇     ◇     ◇

 このやり取りを思い出しながら、僕は2つのことを考えている。1つは、理性で欲望を抑えるのはやはり重要なのだなあということである。ここ数年、僕は、その時々の自分の心情に素直に従うことを大事にしようと思ってきた。しかしその結果、欲望にさえ安易に身を任せ、日々ぐうたらするようになってしまった部分もあった。欲も常に悪いものというわけではないだろうけれど、例えば、ユーチューブやニコ動を開いているというだけの理由で、何度も繰り返し見た動画をまた観て、何十分もぼうっとしているなんていうのは、ラクに刺激を得たいという欲に流され過ぎではないだろうか。理性を回復し、己を律することは、今の自分にとって必要なことだと、僕は感じた。

 もう1つは、どんなことに対してであれ疑問を持ち、自分なりの考えを持とうとするのは大事なことだなあということである。何事にも自分の意見を持とうとよく言われる。けれども、日々を振り返ってみれば、“わからない”で済ませて考えることから逃げたり、関心が持てないからとそっぽを向いたり、そもそも面倒臭いからと言って享楽に走ったりすることばかりだ。そういうことを積み重ねた結果、僕はまたいつの間にか、空っぽの存在になりつつある。

 哲学カフェを続けた結果、日常の色んな場面で「どうして?」と思う習慣ができたと、ちくわさんは言っていた。哲学カフェを日常に還元するとは、本当はこういうことを言うのだろうと思う。そこへ行くと、僕なんて実に中途半端なもので、レポートを通じて丁寧に考えたことでさえ、暫く経てば忘れてしまうという体たらくだ。だがまあ、ここではそれはいいとしよう。重要なのは、きっかけが何であれ、また、スタンスがどのようなものであれ、日々の生活の中で様々なものに対し自分なりの意見や考えを持とうと試みる姿には学ぶものが実に多いということだ。

 折しも、これまでの自分の在り方を見つめ直すきっかけになる出来事がここ数日立て続けにあった。ちくわさんとのやり取りもその1つである。奮起するなら今なのだろう。そんなことを思いながら、ここらで筆を置こうと思う。

 たいへんお待たせいたしました。先日予告した通り、内輪ネタに走る心理とはどのようなものか、そして、それを克服するにはどうすればよいのかについて、考えたことを書き出していこうと思います。

 既に何度か書いていることですが、これからお送りしようとしている内輪ネタに関する考察は、222日(土)に行った「笑い」をテーマにした哲学カフェに関連して書くことになったものです。笑いについて話し合う中で、会社内や知人友人の間だけなど、限られた範囲でだけ通じる笑いのことが何度か話題にのぼりました。また、そのような笑いを好んで取りたがるのはどのような人かについても話が及びました。その際、内輪ネタに走る人のひとりとして、僕の名前が挙がりました。哲学カフェの場において、自分個人に焦点が当たるのを避けたかった僕は、「すいませんけど、内輪ネタについては僕個人の問題として持ち帰らせてもらっていいですか?」と申し出ました。こうしてその場は収まりましたが、同時に僕は、今まで参加した哲学カフェの中で一番重い宿題を持ち帰ることになったのでした。

 考察は次の順序で書き進めたいと思います。まず、哲学カフェの中で挙げられた「内輪ネタに走る理由」を振り返り、僕なりに整理します。この作業は僕自身のダメな部分を炙り出すようなものなので、ここで終わったのでは書き手として後味が悪すぎます。そこで続いて、哲学カフェ後に僕が考えた「内輪ネタの良い点」について書くことにしたいと思います。これは僕が内輪ネタを繰り返している“積極的な理由”とも関わるポイントだと思いますので、その意味でも見ておくことは重要でしょう。しかし、もちろんこの“良さ”には限界があります。その限界を踏まえたうえで、最後に、内輪ネタばかり繰り出さないためにどうすればいいのか、考察を進めたいと思います。

◆①なぜ、内輪ネタに走るのか?

 内輪ネタに走る心理とはどのようなものでしょうか。哲学カフェの中では、この点について4つの意見が挙がりました。1つ目は、広く笑いを取ることに自信がないのだろう、というもの。2つ目は、いまある関係を大切にしたい、あるいは壊したくないと思っているのだろう、というもの。3つ目は、特定の集団でネタに精通していることを示し、優越感に浸りたいのだろうというもの。そして4つ目は、繊細で外からの攻撃に弱いからだろう、というものでした。

 いずれの意見にも共通して見られるのは、〈内輪ネタに走る人は、臆病で不安を抱えている〉という認識ではないかと思います。臆病だから、その人は今ある関係の外へ一歩踏み出すことができない。外からの攻撃が怖いというより、自分が手にしている世界の外側全てが怖いといった方が適切かもしれません。まして、外へ出て広く笑いを取ることなんて考えられないでしょう。ですから、その人は、いま自分が手にしている関係に固執することになります。この関係は同時に、周囲に対し怯えきっているその人に、一定程度の安心感を与えるものになります。したがって、その人は、不安の反動で傍若無人な振舞いをするようになるのでしょう(優越感に浸りたいのだろうという見立ては、実際にその人が優越感に浸っているかどうかはともかく、その人が集団の中で我が物顔で振舞っていることに対する評価なのだろうと僕は思います)。

 考えれば考えるほど気が滅入ってきます。何しろこれらの分析は僕にダイレクトに跳ね返ってくるのですから。2日前、僕はこの分析を書いている途中で、あまりに辛くなってしまって、筆を置いてしまいました。暫く時間を置き、自分を引いて見るようにして、やっとこの考察は書けるようになったのです。

◆②僕が内輪ネタを好む理由

 内輪ネタを繰り返す理由が性格的な弱さにあるのは確かなことでしょう。しかし、少なくとも僕の場合、ただそれだけが内輪ネタに走る理由ではないような気がします。では、なぜ僕は内輪ネタが好きなのか。

 結論から言えば、内輪ネタが〈根拠のある笑い〉だからです。

 内輪ネタには必ず根拠があります。仲間の見た目の特徴やヘンな癖・性格的な特徴、あるいは、以前に起きた出来事といった、直接的な根拠を持ちます。だからこそ、僕は内輪ネタに面白みを感じやすいのだと思います。

 このことに気付けたのは、哲学カフェの中で、内輪ネタと社交的な笑いの対比があったからでした。全く主観的で申し訳ないのですが、僕はこの社交における笑いにあまり良い印象がありません。聞いていると、中身のないことを調子よくシャアシャアと言いやがってという気持ちになります。これは嫉妬ではないと思います。人と話したいと思っても、僕は同じ手を使おうとしないでしょうから。ただ単純に、言葉の軽薄さにイライラしているのだと思います。

 もちろん、冷静に考えれば、社交的な笑いの軽薄さを叩くのは無茶苦茶なことだとわかります。社交的な笑いが、経験という根拠を持ちえないのは当然のことです。なにしろ、そこにいるのはお互いほぼ面識のない人だけですから。何が面白いと言えるのかわからない状態で、それでも何かを生もうとして出てくるもの、社交的な笑いとはそういうものなのでしょう。

 そもそも、この笑いは、僕がいまこだわっていた“面白さ”とは別のところに生まれてくる笑いかもしれません。哲学カフェで出た言葉を用いて言うと、社交的な笑いというのは、緊張の緩和による笑いの一種なのだと思います。見知らぬ人同士が出会って不安な中で、「私はあなたに危害を加えるつもりはありませんよ」というメッセージを送る、そこから笑いが生まれるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、社交的な笑いが、相手との関係における共通の経験を土台として生まれる笑いでないのは明白です。仕方のないことだとさえ言えます。しかし、僕はそれを中身のない軽薄な笑いだと思っていました。そして、経験に裏打ちされた根拠のある面白さに身を委ねて、これまでやってきたのでした。

◆③自分にとっての面白さを、人と共有するということ

 経験的な根拠があることが、僕が内輪ネタを繰り返してしまう理由であるということを、前段で見てきました。自分が面白いと感じたことについて人に話したいという気持ち自体は、別段おかしなことでもないように思います。しかし、ここからが問題です。自分が面白いと思っていることを、そっくりそのまま話しても、その面白さは伝わらない。これがここでのポイントになります。

 それはなぜかについては、改めて説明するまでもないでしょう。僕と僕以外の人は別の人間だからです。その笑いにいくら根拠があったとしても、それはあくまで僕個人の内にある根拠に過ぎません。僕の中では面白いことであっても、他の人が同じように面白いと感じてくれるという保証はない。僕が日頃おざなりにしていたのは、このごく当たり前の事実に注意を払うことだったのでしょう。

 ですから、僕にとってまず必要なのは、僕と僕以外の人は違う人だということを意識したうえで話をする、この基本的なことについていま一度考えることではないかと思います。笑いに引き付けて言い換えるなら、〈自分にとっての面白さを、人と共有するにはどうしたらいいか〉を考えることが必要になるわけです。

 学生時代のバイトでお世話になった方の中に、僕も含め従業員全員から面白いと言われていた人がいたのですが、この方はある時様々なコンビの漫才やコントを観て、受け答えの仕方や間の取り方を研究したと話していたことがありました。僕が「どのコンビが一番参考になると思いましたか」と尋ねると、「そんなのはないよ。それぞれに違う面白さがあるから。あとはその場その場で『あ、今これ使えるな』と思ったものを真似するだけ」という答えが返ってきました。この方ほど研究するかは別にして、ある程度の研究は必要だろうと思います。

◆補論:内輪ネタと社交的笑いの比較から見えてくるもの

 内輪ネタに走る理由と、内輪ネタ依存からの脱却に直接関係する話は以上になりますが、一連の考察を進める中で、もう1つ、自分なりに考えておきたいテーマが出てきましたので、補論という形で、その内容にも触れておこうと思います。

 先ほど僕は、内輪ネタと社交的な笑いとを対比的に見てきました。内輪ネタが、経験的根拠に基づく笑いであるのに対し、社交的な笑いは、経験の蓄積の無いもの同士が、互いに安心感を抱けるように働きかける笑いだというのが、そこで見てきたことでした。これを、笑いを起こそうとする側からみると、次のように言えると思います。前者は笑わせるという行為に先立って“面白さ”という理由を求めている。他方後者は、笑わせるという行為によって、安心感などの結果を生み出そうとしていると。出来事が先か、行為が先かという点において、両者は正反対の様相を呈しています。

 このように見ていくと、内輪ネタに走る人というのは、行為の根拠を常に外に求める受け身の人なのではないか、という気がしてきます。自分の外で起きている出来事に身を任せ、もみくちゃにされ続けている人だと言っていいかもしれません。この文章の最初の方で、内輪ネタに走る人は臆病で不安を抱えがちだという話をしましたが、その臆病さや不安は、自分自身のことよりも周りの出来事の方にばかり目が向く結果なのかもしれません。

 そうであるならば、ひたすら受け身になるのではなく、自分から周りに働きかけてみようと考え方や行動パターンを変えてみることも、内輪ネタ依存の脱却に遠くから影響してくるのではないかという気がします。明確な理由や動機などなくていい、とにかくまず動いてみる。「ちょっとこれをやってみたらどうなるか?」という実験を、日々の生活の中に入れていく。そんなところからも、人は案外変われるのではないかと、僕はいま期待を寄せています。

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 以上、内輪ネタを巡って、哲学カフェ以来考えてきたことをまとめてみました。まだまだ拙い考えかもしれませんが、今回はひとまずこの辺で筆を置くことにしようと思います。

 先日予告していた「内輪ネタ」に関する記事を書き始めた。が、思った以上に精神的負担が激しく、最後まで書き切ることはできなかった。そもそも、僕が「内輪ネタ」について丁寧に論じることになったのは、哲学カフェの中で内輪ネタに走りやすい人について話し合った際、代表例として僕の名前が挙がったことがきっかけである。哲学カフェの場で僕を話題の中心にすることは避けたかったので、内輪ネタ問題自体を宿題として持ち帰ることを自ら申し出たのだ。

 自分から言った以上、内輪ネタについて考える時間をちゃんと持ち、成果を文章にまとめようと思ったところまでは良かった。しかし、いざ書き出してみると、自分の悪い部分を列挙するような形になってしまい、腹の中を掻きむしりたいような落ち着かない気持ちになった。早々に筆が止まった。蒲団に潜りこんでから、自分自身から距離を取って書けば、自分としても楽だし、文章の重さも緩和されることに気付いたが、日付が変わっていたこともあり、再び書き始めようという気にはなれなかった。

 そんなわけで、内輪ネタの話は暫く待っていただきたい。内容の整理だけでなく、気持ちの整理も進めないと、この話は書けそうにない。日記を初めて1年4ヶ月になるが、これほど苦渋するネタに遭遇するとは思ってもみなかった。

 ただ、書き切りたいという思いはある。ポジティブな結論も見えていて、考え自体はまとまっている。あとは気持ちが沈まないように気を付けながら書くだけである。

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