ひじきのごった煮

こんにちは、ひじきです。日々の四方山話を、時に面白く、時に大マジメに書いています。毒にも薬にもならない話ばかりですが、クスッと笑ってくれる人がいたら泣いて喜びます……なあんてオーバーですね。こんな感じで、口から出任せ指から打ち任せでお送りしていますが、よろしければどうぞ。

 3ヶ月ぶりに、園田哲学BARに参加した。毎月第一金曜日に、尼崎市の園田にある生涯学習プラザ(早い話、公民館のようなものである)の一室で、飲食物持ち寄り式、お酒持ち込み可の哲学カフェが開かれる。今回のテーマは、「愛とはなにか?」であった。

 僕はどうやらおめでたい人間らしく、〈愛〉と聞くとすぐさま恋愛のことを思い浮かべてしまうのだが、哲学BARの中では恋愛の話は殆ど出ず、母性愛や自己愛が話題の中心になることが多かった。また、〈愛〉について考える時、僕はすぐさま自分が誰かを/何かを愛する時のことを想定していたのだが、哲学BARの中ではむしろ、自分が愛されることにまつわる話の方が印象的であった。そんなわけで、今回の哲学BARは、僕にとって、いい意味で期待を裏切る回であり、また発見に満ちた回であった。

 以下、駆け足にはなるが、印象に残ったことを書き留めておこうと思う。実際の哲学BARでは、今から書く内容に限らず幅広い議論が展開したが、ここでは僕にとって印象的だった内容に絞って書き出していこうと思う。

◆〈愛〉は幅広い!

 上に書いた通り、「愛とはなにか?」というお題を見て、僕が真っ先に思い浮かべたのは、恋愛のこと、つまり〈特定の誰かを愛すること〉だった。その後もう少し範囲を広げて考えてみたのだが、結局のところ、思い浮かべられたのは、書物を愛するとか、野球を愛するとか、木を愛するといったように、〈ある特定の対象(人だったりモノだったり)へまっすぐな想いを向けること〉だった。一途でキュッとしていて、ややもすれば周りが見えなくなるような何か、それが、僕の中での愛のイメージだった。しかし、それは数ある〈愛〉のうちの、ほんの1つに過ぎなかった。今回の哲学BARでまず感じたのはこのことである。

 例えば、「人間愛」あるいは「博愛」といった言葉がある。どちらも広く人類一般や様々なものに対して向けられる愛であって、対象を限定しているわけではない。また、「自分を愛する」という言葉があるが、これも愛の対象を自分以外にばかり求めていた僕には見えていないものだった。哲学BARの中でしきりに話題になったものの1つに「母性愛」があるが、これも、僕が最初にイメージしていた〈愛〉とはまた異なったもののように思える。僕が想起していた〈愛〉は、いうなれば〈好き〉の延長上にあるものだ。しかし、「母性愛」には、好き嫌いの次元を超えて子どもという対象を慈しみ、守り、育てようという強い意志のようなものが感じられる。責任の重さの違いといえば、ある程度しっくりくるかもしれない。

 このように、一口に〈愛〉といっても、その中には様々なものが含まれていて、その内の何をイメージするかは人によって全く違う、というのが、今回の哲学BARにおける最初の発見であった。

◆「愛する」ではなく「愛される」から考える

 今回の哲学BARにおける発見で、もう1つ特に重要だと思うのは、〈愛〉について考える時、自分が誰か/何かを「愛する」時のことばかり考えるのではなく、むしろ、自分が誰か/何かから「愛される」時のことを考えてみることで、見えてくるものがあるということであった。先の例示からも明らかなように、当初一人で〈愛〉について考えていた時、僕が思い浮かべていたのは、好きな人だったり、本だったり、野球だったりと、とにかく特定の相手を「愛する」時のことだった。しかし、〈愛〉を考える時には「愛する」ことだけを考えていては不十分なのだ。むしろ「愛される」について考えることから、思わぬ視界が開けることもあるのである。

 このことの重要性に気付けたのは、ある参加者から次のような発言があったからである。「そもそも人間というものは、自分から生まれたいと思って生まれてくるわけじゃなくて、ただ気付いたら生まれている。ですから、自分の生まれ落ちた場所や置かれた環境の中で“よく来てくれた”と言われることが大事なんですよ」この言葉を聞いた途端、人間というのは根源的に“いま・ここにいる”確かな理由を欠いた存在であり、だからこそ、その存在を誰かに/何かに受け容れられることが必要なのだという直観が飛来した。これはすなわち、人が「愛される」べき理由ではないかと僕は思う。「愛される」ということは、すなわち、〈己の存在を受け容れられる〉ことである。

 ここから哲学BARの議論は「母性愛」へと傾いていき、母性愛の重要性をとかく強調する参加者と、親の子に対する愛の絶対視に疑問を抱く参加者の間で意見が割れるという、僕自身はこれまで経験したことのないようなぶつかり合いの様相を呈していくことになる。全体の流れとしては、親の子に対する愛はもちろんあるに越したことはないが、子の存在を受け止める責任を親に押し付けるのは如何なものかという方向へと話は進んでいった。そして、その中から、自分という存在を受け容れてくれるものについて、幾つかの面白い話が出てくることになる。

 中でもとびきり面白かったのが、〈“自然”に愛される〉ことに関する話であった。例えば、ある参加者は、絶望の真っ暗闇の中にいた時に、電車の中でふと目にした夕焼けによって世界の色を取り戻したという経験を話された。その方は、美しい夕焼けによって、自分が受け止められるような思いを感じたのだという。また、別の参加者からは、子どもの頃虐待を受けていたという人と話をしていて、その人があまりに素直なので驚いていると、その人が「故郷に山があって、それが私をなぐさめてくれた」と話したので、一気に謎が解けたというエピソードの紹介があった。その人の素直さは、並の素直さよりもずっと強い芯の通ったもののように感じたと、その参加者は話されていた。

 無機物である夕焼けや山が、人を「愛する」ということはまず考えられない。少なくとも、日常の言語感覚の中からそのような発想は出てこないだろう。しかし、大いなる自然を前に、自分という存在が受け止められたという感覚を想像することはできる。思い起こせば、僕は昔から河川敷が好きだった。手入れされた河川敷は半ば人工物のきらいがあるが、それでも、川がゆったりと流れ、周りを茂みが覆い、その上に空が大きく広がる様には、自然の癒しというものが感じられる。ともあれ、そうしたモノによって自分が受け止められ、その存在を肯定されるという状況は、想像に難くない。こうした場面は、「愛される」ことについて考えて初めて見えてくるものなのだ。

◆「自分は愛されている」という感受性

 自分が相手を「愛する」ことばかり考えていたけれど、「愛される」について考えるところから見えてくることもあると思った——僕がそう発言すると、とある常連の参加者からこんな言葉が返ってきた。「自分が愛されてると気付けるかどうかって、人によって違うと思うんやね。山を見て、愛されてると感じる人もいれば、ただ山があるだけやと思う人もいる。だから、自分は愛されてると気付く能力……能力というとちょっとアレやけど、そこに気付けるっていうのは、これは大切なことやと思うんですよ。せやから、愛されるっていうのも、受動というより能動なんやね」

 これは目からウロコだった。人から同じように接されても、愛情を感じられる人もいれば、全く感じられない人もいる。赤ん坊や小さな子どもならともかく、僕ら以上の大人になれば、愛されるか否かというのは、一定程度はその人自身の受け止め方の問題だというのだ。些か残酷な話のようにも思える。しかし、僕自身を振り返ってみても、それはとかく頷ける話であった。

 ここで僕は次のような疑問を持った。では、自分が愛されていることに気付く感受性を養うにはどうすればいいのだろうか。この疑問に対し、2つの回答が寄せられた。

 1つは、「全くの方法論ですけど、私はヨガをやることで自分の中をみるんです」というものだった。外側へ向きがちな自分の意識を、身体と向き合うことを通じて自分の内側へと向けていく。そうすると、それまでにはない感覚が養われて、新たな気付きにつながるというのだ。これは既に大人になった人だけが採れる方法かもしれないが、感受性を高める方法としてユニークで面白いと僕は思った。なんといっても、身体と向き合うことを媒介にして自分へのまなざしを獲得するというのが面白い。

 この回答に続けて、別の参加者から次のような話があった。「人間は皆自分を愛したいし人も愛したいという気持ちを持ってる。身体が素直になると感情も素直になって、心の奥にある愛に気付けるようになるんだろうと思います」身体と心がつながり、どちらも素直になることで、人は愛に開かれていく。楽観的かもしれないが、そうだったらいいのになあと僕は思う。

 もう1つの回答は、「生み落とされた時から、自分はここにいてもいいんだという感覚を積み重ねていくことが大事だと思います」というものだった。しゃべったことを否定されず、やりたいことが自由にできる。ダメなものはダメだけれど、基本的には、ただそこに存在していいというメッセージを受け続ける。これがとにかく大事だということだった。

 この話をされた方は、さらにこんな話もされていた。「“自分を愛する”の反対は、“どうせ私なんて”だと思うんです。これが強すぎると、人から何を言われても“どうせ私なんて”と思ってしまうんです。そうならないように、自分で自分を愛してあげることがとても大切だと思います」どうせ私なんて——誰もが多かれ少なかれ抱いたことのある感情だろう。この思いに囚われ、自分を否定し続ける時、人は周りからの愛に気付けなくなる。これもまたなるほどと思う話だった。

 ともあれ、愛されていると感じる力が、特に大人になった僕らにとっては重要だという考えは、参加者の間にじわじわと浸透していったように僕には思えた。「大人になれば、地面を掘れば水が出る。子どもには水を与えないとダメだけれど、大人は自分で水を掘れる。“愛をくれ”なんて叫んでばかりじゃダメ!」哲学BARの最後には、そんな感想も飛び出した。

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 以上、ざっとであるが、哲学BAR「愛とはなにか?」で印象に残った話を振り返ってきた。〈愛〉の幅広さ、そして、「愛される」ことに注目し考えを広げることの面白さ、この2点が今回の僕の気付きであった。後者の「愛される」こと、すなわち「自分が受け容れられること」を巡っては、もう暫く考えを進めてみたい気もするが、今日のところはひとまず筆を置こうと思う。

 次回の園田哲学BARは、年明け110日(金)の19時から21時に開催される(1月の第一金曜日は三元日と被っているので、1週ずれるそうだ)。テーマは「どうせ私なんて」だ。テーマの推薦者は、何を隠そう僕である。議論の中で一番キャッチーな言葉だと思ったので、迷わず推薦したら、即採用となった。新年早々ウジウジしたテーマであるが、なんだか面白くなりそうだと、今からソワソワが止まらない。

 突然であるが、これから暫くの間、ブログの更新を〈特筆すべきことがあった日〉に限定しようと思う。

 このブログでは当初から、毎日書くことを目標の1つにしていた。学生時代の先輩からそうすべきだと勧められたのが理由である。100%毎日という目標は、それからほんの2週間程度で飲み会により潰えることになるが、それでも、なるべく毎日更新するように努めてきたのは事実である。ちなみに、先輩のほうは、僕がブログを始める以前から毎日欠かさず記事を書くというのを続けている。こちらは飲み会があろうと途切れることなく、本当に毎日続いている。驚嘆すべきという以外に言葉が見つからない。

 ともあれ、なるべく毎日更新するというのを目指してブログを続けてきたわけであるが、ここへ来て、もうどうにも書く気力が湧かなくなってしまった。もとより、僕は日々刺激的な生活を送っている人間でもなければ、知識欲に溢れ情報収集に余念がないといったヤリ手教養人でも何でもない。実に浅薄な人間である。そんな人間が、身の上に起きた出来事を日々悉く書き出せば、あっという間にネタが尽きるのは必定であった。おっと、些か自虐が過ぎたかもしれない。ともあれ、今の僕には、書きたいことが何もないのである。

 それにもかかわらず、毎日ブログを書くことにこだわり、とにもかくにも何か出さねばと急くのは、空っぽの胃に向かって手を突っ込み、結果胃酸を吐き散らすようなものである。無残極まりない。ならば潔く、当面の間、書きたい時以外は書かないという方式に切り替えてみよう。そう思い立った。

 2つほど解いておくべき誤解がある。まず、僕は決して身体に不調を来しているわけでも、気力がすっかり萎えてしまったわけでもないということをちゃんと言っておきたい。僕は元気びんびんで、仕事だってちゃんとしているし、週末に迫ったリレーマラソンを前に気持ちもだんだん昂っているところである。僕が言いたいのは、ただ、今のところコンスタントに文章を書こうという気持ちがしぼんでいるということだ。そのことと、僕の健康とは、全く別個の問題である。

 そしてもう1つ。書きたいと思うことが出てきた時は、今まで通り書くつもりだということもお伝えしたい。ここにしたためたのは、絶筆宣言などではない。つまるところ、自分の気持ちに素直に従ってみようと思うというだけのことである。もしかしたら、そのうちまた、あれこれバババと書きたくなる日が来るかもしれない。そうなればまた、毎日バババと書き進めようと思う。ただ、今はそういう気分ではないということだ。

 これ以上書き続けると、僕の言葉はますます鋭くなるし、読んでいる皆さまは気圧されて不愉快な思いをするだろうから、ここで筆を置くことにする。言いたいことは全て言い切った。ならば余計なことは書かぬが吉である。

 予定外のことをやった関係もあり、書く時間を失してしまった。今日はこれにて失礼する。

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